往古、髪は神聖であった。
ゆえに古代人は髪は切らぬことを大切にした。
よい例は平安の姫たちである。

ダウンロード (1)


髪を切られることは、いのちを断たれたに等しかったのだ。
仏教渡来以来、断髪することは神仏への帰依の時のみだった。

おそらく今でも女性には断髪や髪形を変えることには、ある種の人生観の変化があるケースも多かろう。
失恋などはその好機となるはずだ。

おそらくこうした死生観は、体の一部を「切る」ことが生命を断つこととつながっていたからだろう。つまり髪がいのちの象徴、生命力の源だったのではなかろうか?


imageskamiyui



翻って、髪を切る職業は、ある時期まで見下げられていた時代もあったことになる。
髪結い、散髪業が、被差別の人々の職業とされた時代があっただろう。アメリカでは床屋はイタリア人が多かった。イタリア人はアメリカキリスト教社会ではユダヤ人のひとつ上程度の扱いだった。

さらに人を(敵を)切ることをなりわいとした武家もまた、貴族から差別された集団だった。
さらにさらに、江戸期に登場する断首をこととした武士・・・首切り役人という身分も、最も武家で低く見られていた。そもそも人殺し集団だったはずの武家が、平和な江戸期ともなると、奇妙なことに首切り職を最下層に位置させたのであるからおかしい。子連れ狼・拝一刀は首切り役だったというシチュエーションで、ゆえに上司に利用されたところから始まる漫画だ。

ダウンロード



このわけは江戸幕府の儒教の導入にある。
儒教ほど人の階級や身分にこだわる教義はない。あれは差別に満ちた学問なのである。

東アジアに頑固に残存する女性蔑視、職業に卑しさを付着する思想が残存した理由こそは、儒教の導入と、それへの疑問なき愛着だった。昭和の戦争の影にもそれがある。いや、現代の人を見る処世術にさえ、それはいまだに残されていると言わねばなるまい。それは韓国、朝鮮民族に代表されるが、中華や日本にもまだそれがある。もおちろんキリスト教にも差別は山ほどある。人種差別と女性差別が残っている。レディファーストは、アメリカ人が野蛮であることの裏返し文化だ。女性を必要以上にあげつらえば、おとなしいという、男性の身勝手な思い込みから生まれたマナーだ。老人や母親にもそうである。それが社会通念になってはいるが、内心は有事になるとすぐ暴露する。

自民党の総裁選でも、やたらに女性、女性と候補たちが口にする。それも同じである。建前でしかない。本心は票取り、人気取りの妄言にすぎまい。実際には女性に社会へ出て、結果的に税金人口を増やすのが目的である。少年に選挙権を与えたのも、やがては税金人口に入ることを早めようと言う下心がる。それほど国家はどこも税を取りにくくなったのだ。そこへコロナ禍が来て、もはや中小企業、個人事業主、会社員、フリーターすべてからの税収が減ることは目に見えている。だから菅候補でさえも、いきなり消費税を上げる話を持ち出してしまうミスをやらかす。あとから慌てて「先の話だ」とつくろったが、本心はあれで丸見えになったと言える。三人とも、自民は自民。与党は与党。国家は存亡の危機に陥っているのである。小学生だって気が付くことだ。税収がなくなっているのだ。来年以後、それが現実になる。国家予算と借金は一気に増える。だから女性と少年には働いてもらわねばならないのだ。

ukiyodoko浮世床


スウェーデンは正しい。
コロナ対応もそうだし、女性100%が働く全人口税収義務制度だからだ。世界で唯一、彼らが早かった。そして東アジア人にはない「キリスト教自然主義科学」と「男女完全平等※」そして「個人主義」があそこにだけはある。特に個人主義は、キリスト教哲学から派生したにも関わらず、またほかの欧米自由主義国家では、コロナに対して「俺はマスクをしない自由がある」といったような一見困った、身勝手で日本的全体主義にはないことばかりが目立つのに、スウェーデンの場合は、はなから国民の大半が「一人暮らし」という引きこもりやすい個人主義政策になっているのがすごいのである。

※女性に勘違いするものが多いが、男女平等とはリスク(重労働や戦争や給与や責任、危険など)も平等だということである。決して男子が女子を尊重する(逆も)ことではない。女性の仕事を男性が肩代わりすることでもない。男女には向き不向きな仕事が物理的、生理的、肉体構造や機能的に、どうしてもある。それを互いに認め合い、しかしそれは決して変ええられないことのだ。すべてにおいて社会的に平等だということでしかない。

東アジアの儒教中心の古代~近世の生き方は、外見だけ民主主義にしてみても、この本物の個人主義がないのだ。日本人は中華とも朝鮮民族とも違って、人がやることと同じことをしないとはじかれる世界だ。これも奇妙だ。全体主義を前提にしたような「世間体」の社会であることが奇妙奇天烈なのだ。

日本人の99%はネットで言うフォロワーで占められている。オピニオンがいない社会なのである。だからデモ・テロが起こらない。ひとりがその周囲をいつも気にしながら暮らしている。監視して、監視されあって生きている。

実に奇天烈なのである。だから自警する小集団も現れる。マスク警察も出る。


その反動がストレスになり、コロナともなれば個人的、いや利己的不満が募り、我慢できなくなって
あおり運転や小犯罪や殺人になって現れるが、大陸のようなテロ行為や大集団デモにはならないのだ。それもひとえに利己的だからであり、個人主義的ではないからにほかならない。それがいいと思い、誇りにしているのである日本人は。無知だからだ。アジアは遅れている。まずそれを十分に認識せなばならない。まだ少年である世界の中で。



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村


にほんブログ村 旅行ブログ パワースポット・スピリチュアルスポットへ
にほんブログ村