いささか主観的すぎる題名である。
なぜわざとそういう書き方をしたかは、柳田国男の次の言辞があるからである。
「つまりは「籠る」ということが祭りの本体だったのである。即ち本来は酒食を以て神を御もてなし申す間、一同が午前に侍座することがマツリであった。そうしてその神にさし上げたのと同じ食物を、末座に於いて共々にたまはるのが、直会であったろうと私は思って居る。」『日本の祭』昭和17年
諏訪春雄がこれをまとめて箇条書きにしている。
① 神迎え
② 神人交歓
③ 神送り
これが本来の日本人の祭りのノウハウであると柳田は言ったのだ。
新型コロナで、われわれは家に籠った。それでよかったということになるのかも知れない。
① コロナを迎え入れ
② 互いに感染交歓し
③ コロナを避けた
であるが、政治は結局はなにもしてはおらない。国民がただ神であるウイルスを畏れて隠れただけである。実のところ吉村も小池も「おねがいしただけ」であり、ほかになにひとつ科学に裏付けされた具体策などなかったのではなかったか?
つまり江戸時代までの日本人同様、神を恐れてひたすら引きこもった日本人の勝利だ。
籠ること、つまり精進潔斎して引きこもり、ごちそうを用意して神々を迎え入れ、互いに理解しあい、胸襟を開いて災厄を歓迎し、饗宴して、送り出した・・・まさに「祭った」のではないか?
ゆえにコロナが大したことがなかったと言えば、それはあまりも非科学的になる。
これは日本人が
① 「大自然を神とし」
② 恐れ敬い
③ 侵さない
という、ただそれだけのそもそもの生き方に戻ったことを意味する。
その証拠が、世界が籠った期間、地球環境は素晴らしくなったではないか?
縄文から続く、自然を最小限しか切り開かず、最大限に生かすノウハウ。それがゆえに世界的に見ても日本は感染災害が小さい国であり続けたのかも知れない。その自然観こそは自然=畏れるべき神だったからにほかなるまい。われわれはたくまずしてそうした古い価値観に戻っていたのだ。
籠ることがハレ。
穢である感染をさけることが実はハレの祭事。
だが東京の若者を見よ。すぐに元にもどってしまった。それゆえにコロナは東京だけに再び災厄をもたらしているではないか?マスク警察なんぞという、せこい自警団が東京に横行するとか、実にせせこましく、せちがらい、哀れな、ミゼラブルな世界である隔離都市東京。憐れんであげよう。
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