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2021年ライブドアブログからこの記事及び添付写真にクレームが来た。
よってその写真と、褌関連記事をすべて非公開にした。
しかし学術的な内容の記事までも削除せよと言われたらそれは文化と表現の自由への憲法違反とみなしてこっちからライブドアブログを訴えるつもりである。


ライブドアブログはこの記事のどの部分を削れとちくいち指摘されたい。その部分はカットしよう。しかしそれが公衆のリョウジョクに触れると筆者が感じない場合、猛然と敢然と立ち向かうであろう。





犢鼻褌(とくびこん)=ふんどしについての民俗学
「「褌」の漢字は「衣」偏に「軍」と書くように、戦闘服に由来する。昔は布が高価であったことから、戦国時代では戦死者の身分は褌の有無で見分けを行っていた。当時は麻が主流であったが、江戸時代に入り木綿に代り、武士の他に一般庶民にも普及するようになった。一部の上流階層は縮緬などを用いていた。 第二次世界大戦までは日本人成人男性の主な下着となっていて、女性も着用することが多かったが、第二次世界大戦後、洋装化が進んだことや、ブリーフ、トランクス等の新しい下着が出現したことで、急速に廃れた。 」

「褌の由来は南方伝来説と大陸伝来説があるが、定説はない。南方伝来説の根拠は、東南アジア、ポリネシアや南米地区で六尺褌とほぼ同形状のものがあることから言われる説であり、一方、大陸伝来説は、中国大陸に「犢鼻褌」(とくびこん、たふさぎ)と呼ばれる、男性の局部が牛の鼻のように見える褌が日本に伝来したとの説がある。日本の祭事に六尺褌が多いのは、南方伝来の六尺褌が根底文化にあり、大陸文化との折衷が始まり、時代を経て簡略化された越中褌が生まれたとの説が一部で唱えられている。」
Wikiふんどし








中国の海人がしめていた犢鼻褌と倭人の関係
出典; http://homepage1.nifty.com/koshifumi/fdc-01e.html

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  褌の俗信と迷信
西畑六道              
     
                      
成 人 の 祝 い

●若衆入りする年になると、播州あたりでは「ヘコ祝い」というのをした。若衆入りの前日というムラもあるし、誕生日というムラもあったが、どちらにしても始めてフンドシをするわけで、それを祝って赤飯、御神酒などを供え、親類、友人などを招いて祝いをする。それで「フンドシイワイ」というムラも多いし、フンドシの代わりに「ヘコオビ」を贈るムラもあった。

このフンドシを贈るのは母方の姉妹からもらうのがよいというムラが多く、たいてい白布一反を贈ってくる。それを三宝にのせて床に祭り、紙幣、神酒などを供え、終わってからフンドシに作った。しかしムラによると、私の調査では播磨、摂津、丹波の国境地帯の山村に多かったのだが、若衆入りした息子に白サラシ一反に、米一升とか、紅白の餅とか、酒一升とか、ところによって違うが、それを持って母方の姉妹、それがないと父方の姉妹、それもないとムラの適当な家の女房にフンドシ始めを頼んでいる。頼まれた家では、だいたい女房だけを残して他の者は外出した。そこで訪ねてきた若衆は女房に白布を渡すと、女は白布ですぐフンドシを造り、裸にしてフンドシをしめてやり、締め方などの使い方を教えてやって、祝いの盃を差すというのが、だいたいの式次第になっている。しかし白布一反では余るから、フンドシを二巻作ってやる家もあるし、余った布で女の腰巻きを作るというムラもあった。ただしフンドシにも本式のシメコミと、略式の越中があり、古くは本式、だんだん略式に変わり、後にはフンドシもしなくなり、祝いもなくなってしまう。

●大阪あたりの商家になると、元服の階層性が極めて明確になり、盛大なフンドシ始め、マワシイワイをする家もあった。ヒイキのスモントリ(力士)招き、シメコミをさせるわけで、芸妓、幇間の賑やかな騒ぎのうちに行われる。あるいはソイブシする芸妓が、始めてしめてやるのもあり、フンドシもサラシなどでなく、緋縮緬の豪華ななものになるよう。

●ある山国の、更に奥の山村では、正月の四日とか八日とかの晩、十三か十五になつた息子に母親がフンドシをしめてやり、かつ性技を伝授したそうだ。オバサンが伝授するというのは諸地方にあるが、母親というのは珍しい。

●播磨、摂津、丹波の三国境地帯の山村には、いろいろと古い性民俗が残っていた。この地方はどこでも明治末、大正初頃まで13のフンドシ祝いが残っていた。明治42年生れの私ぐらいが、恐らく最後ではなかったと思うが、丹波、但馬に近い山村では昭和始め頃も残っていた。

 行事の内容はムラによって差があり、播磨の加古川流域では子供が13になった誕生日に、オバか、それに近い女からフンドシを贈られた。それまではパッチであったが、それからフンドシをしめるようになる。先輩に見せられると、うらやましかった。だいたい白布であったが、ムラによると赤布、これをアカフンといったが、赤色、黄色、赤茶などの色のものを贈ることもあった。これを母や姉などがフンドシに仕立ててしめ込みさせ、その晩に白餅、赤餅で祝い、フンドシを贈ってくれた家や近所の家へ配った。

 しかし山奥のムラになると、他のムラ、とくに母親の姉妹の嫁しているムラへ、白布とか、赤布一反に酒一升か二升、米一升か二升または重ね餅を添えて持参する。その家では当日、主人や他の家族は他所へ行き、オバだけが待っている。だいたい正午頃に着くようにするのが多い。行く家は、戸締めしている家もあって、今日、フンドシもってくるとわかる。しかし、それほどしないムラもある。

 ともかく家へ着いてアイサツがすむとオバは三宝にのせた反物を中心に酒と白米餅を供える。このとき八幡大神の掛け軸をかけるが、ない家は、天照大御神や春日大神の掛け軸をかけた。礼拝して酒を下ろし、子供と盃で三献する。次に反物を下ろしてフンドシを一組か二組か作る。子供を裸にしてフンドシを締め込んで、その作法を教えてやる。フンドシは本仕込みである。 すむと隣の間に連れて入り、初床の作法を教えてやり、性交の実施教育をする。フンドシを締めるときに般若心経を唱えるムラもあるし、フンドシを作った余りで自分のコシマキをとって使うムラもある。他の地方ではオバクレフンドシというムラもある。フンドシするまでに初交を終わっている子供もあった・・・」
古式に乗っ取った褌
(資料写真・越中文俊)
   
         
褌は古くから滝行、水行などの神事などにつかわれている。
また、若衆の「尻見せまつり」は、褌祝い、古来から伝わる
性風俗にも通ずるものがあると思う。(越中・記)

●褌祝、男女とも十三才になると初牛の日にトーサギユェー(褌祝い)をした。親もとからわこの日までに男の子にはフンドシ(六尺褌)、女の子にはコシマキ(腰巻き)を祝って来た。子供の家ではササゲや大豆を入れた強飯にニシメや寿司などを作って親戚などを呼んでもてなしたり、また、配ったりした。(千葉県安房郡富浦町史  田村勇)
 男のヘコ祝いは十歳で、長寿者等に花染めのヘコを貰う(山口県大浦)

●日本の習俗では古くから女性の織る布は男性を守護する神聖なものであった。ヤマトタケルは織技の女神である叔母のヤマトヒメから「御衣御裳」を贈られて成人の儀礼を終えた。この裳は体の下部につけるものである。太布の国の土佐(高知)では、近年まで成人になる祝いに、叔母から太布のフンドシを贈られるという儀礼が続いていた。また不織布のタパの国では、十四五才時の男子の成人儀礼でマロ(褌)が与えられるという。こうしていずれもカジノキから作った布でマラ(高知でも男根をいう)を覆うのである。女の祭りに七夕がある。高知では古くはカジノキ類で作った太布の糸を供えた。これは往古、七夕で竿に太布の褌をかかげた祭りの儀礼と同じ意味であると思う。「下学集」には、「男根衣也男根犢鼻ノ如シ故ニ犢鼻褌ト云也、普院咸家貧ナリ七月七夕ニ犢鼻褌ヲ晒シ以テ星ニ献ス」とみえている。

●成年式(マワシオヤ、ヘコオヤ)
 その仮親から褌を贈られる。岡山県阿哲郡では昔は黄色、長崎県などでは赤や絞りの褌であったという。このような習俗はなくとも男子成年の祝いのことをヘコイワイ・タフサギイワイ・フンドシイワイなどと呼ぶところは広く、この時を契機として褌を締めるようになるのである。これは生理的にも一人前の男になったことを意味し、婚姻の資格を備えた成年男子であるいうことの象徴なのである。特にこれをオバクレフンドシという。

●へこ親、 褌祝いにあたって頼む親方のことを九州北部一帯ではヘコオヤという。(武家では烏帽子親という)岡山県阿哲郡の山村では、十三歳前後に男子がマワシオヤ・フンドシオヤをとるのも同様の慣行である。そこでは子のほうをカナコという風があるが、ヘコオヤに対してヘコムスコという。長崎県東彼杵郡では、家を継ぐべき男児に限り郷中でもののわかった有力者に親になってもらう。すると赤いいろのヘコを祝ってくれる。子の方は盆暮れに餅を持って行く。祝儀不祝儀には親類なみのつきあいをした。あるいはヘコオヤが死ぬと棺をこしらえて贈る                           
●肥前杵島藤津両郡では、村の裕福なる顔役でしかも子供が元気に育つ家に、自分の子供を名義だけの養子にやる。之を「ヘコ(犢鼻褌)息子、キャフ(脚布)娘」と言う。こうすれば健康に育つと信じている。貰った方では、盆正月に男子なればヘコを、女子なればキャフを買って与える。

●帯解祝い、現在では女児が七歳になると、十一月十五日に盛装して、氏神社に参るのをかくいうているが、古くはこの儀が成女式として行われたであろうことは想像される。元服が形式に流れ、祝い事は早い方が良いという社会感情が、七歳まで引き上げてしまったが、男児の袴着ー民俗学的にいえば犢鼻褌祝いと同義であったに違いない。

●ヘコカキイワイ(兵児掻祝)昔は男児が十三歳になると、兵児(犢鼻褌)掻祝をなし、それから犢鼻褌を常用する習俗がある。そしてこの場合は概ね母方の叔母から褌布を贈るが、但し白木綿は禁忌であって、鬱金染めか、茜染めか、又は絞りの模様物に限られていた。白晒は成年者でなければ用いられぬ、近年まで北は奥州から南は九州まで行われていた。

●十三参り、全国的に広く認められる初フンドシ祝いという習俗がある。十三歳の正月に、男の子には六尺フンドシを、女の子には赤い腰巻きを贈った。男の子はこのフンドシを締めて氏神に参り、以後フンドシを常用した。



褌 の 風 俗 雑 記 帳 
「私の幼年時代の風習で、男の子が小学校にあがると、若衆小屋という所で合宿生活を半ば強制的に参加させられ中学に上がる六年間に、みっちりと上下関係が仕込まれ、まず「元服親」が決められます。これは血のつながりがない、村の住人から決められた人と義理の親子関係の契りを結びます。これは義理の親が死ぬまで関係が続き、祝儀、不祝儀には親戚なみの付き合いをします。その親が死ぬと棺桶を先導して担いだりします。それだけに元服親との関係は深いものがあります。私にも田舎には義理の親がおります。その元服式には、その義理の母親が縫った越中褌が贈られ、普通はそれから越中褌を本当の成人式まで締めつづけるのですが、私はその前から越中褌を着用していました。この親のことを別の地方では「褌親」「へこ親」(へこは方言で褌のこと)、「鳥帽子親」ともいいます。」

「また、私は今年前厄を迎えますが、現在では残念ながら前記の「元服親(褌祝い)」も、自分の田舎でも行なわれていないのが現状です。しかし所によっては前厄になった男性に、処女が縫った越中褌を贈り厄が開けるまで締めつづける風習も残っています。 もし、私の故郷に褌祝の風習が今も残っていれば、前厄の私に「褌親」が村の女性にお願いして、越中褌が届くはずです。だれか私に赤い越中を縫ってくれる女性はいませんかねぇ。話題は変りますが、最近見つけた本に、昔の旅人は山賊に襲われたときの用心に、越中褌の紐の部分に粒銀(昔のお金ですね)入れていたそうです。身包みはがされても褌までははがされなかったようですから、現在海外旅行の必帯アイテムのシークレットベルトといったところでしょうか?」
民族学伝承ひろいあげ辞典「風俗としてのふんどし」より
 http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16267938.html



儋耳・朱崖
海南島には黎(り)族と苗族の二種族が多くおり、苗族はもともと明代にここに警護のために置かれたヤオ族軍隊の子孫である。二種族共に犬祖伝説を持ち、黎族のものは「皇帝の娘の足のおできを黒犬がなめて命をすくい、その息子がやがて犬を父と知らず年老いて殺し、葬る。その後、人類が滅び、母と息子だけが残るが、神が二人に結婚させるため、母に顔に入れ墨せよと指示する。息子は母親とわからず結婚し、その子孫が黎族になった」というもの。

コメント
海南島は現在の広東省にあり、漢代に置かれた憺耳・朱崖(たんじ・しゅがい)両郡は倭人の風俗物産が同じと『魏志』倭人伝が伝えている。

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黎族は「里」「俚」とも書かれる。
いずれにせよ「り」と読む。

ここには犬とともに彼らの入れ墨習俗も描かれている。入れ墨は海人の特徴の一つであり、先に紹介したヤオ族の褌もまた白水郎の特徴である。

『翰苑』には「其の旧語に聞くに、自ら呉の太伯の後と謂う」とあり、これは倭人自身が語ったといわれ、出典は『魏略』である。『翰苑』は日本にしか残っていない。
呉太伯とは周の文王の参謀だった太公望の子孫ということである。太公望は中国内陸部の羌族の出で、元は奴隷であった。羌族も犬祖伝説を持つ。
日本には呉太伯を祭神とする神社がひとつだけある。鹿児島県大隅国正八幡である。
ここには隼人の狗仮面が奉納されており、神武天皇の皇孫を自称している。しかし、吉田東吾はそれを偽称だと決めつけている。

正八幡はもともと宇佐神宮の分祠である。大和の命令で宇佐氏族が隼人を攻め、多くの隼人を殺戮したこと(紀に言う隼人の乱)への償いとして、宇佐神祇族の秦氏支流辛嶋氏が建てたものである。ここで隼人と渡来人秦氏が関わってくる。

『隋書』倭国伝は筑紫国の東にあった秦王国の記述を遺している。秦王国がどこにあったかは定かではない。一説に周防説があるが、周防は穴門ほど古くない国名である。ただし、穴門は豊浦(とゆら)とも言い、仮宮が置かれたこともあり、宇佐の神領でもあった。豊前に多かった秦氏が秦王国ではあるまい。秦王国の秦は始皇帝の秦である。秦氏がこの字を使い始めるのは六世紀、酒公(さけのきみ)以降である。遣隋使の頃とほぼ同じ時期であるから、微妙である。

『隋書』には秦王国の民の習俗が「夏華」に同じか、とある。「夏華」とは中国南部、呉越を言う。
神功皇后紀には穴門の沙婆津より船に乗って皇后を迎える女首領・沙婆津姫が現れる。神夏磯姫ともいう。ここに「夏」の文字が現れている。このあたりの関連は未だに誰も未調査である。

三角形の褌、「犢鼻褌」は隼人に限らず日本人の特徴的下着であろうが、それは海人の風俗でもある。




また入れ墨は久米部や安曇、宗像、熊野・賢島の海女にもあった、いわゆる「黥面文身」(げいめんぶんしん)であり、特に久米部は目の回りに切れ長の墨を入れていたと、日本書紀にある。
民族学伝承ひろいあげ辞典「海南島・憺耳・朱崖、など」
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16267834.html


隼人の祖神・ホスセリと天皇家祖神・ホホデミ兄弟の話。
 兄ホスセリの釣り針をなくしたホホデミをホスセリは厳しく責める。ホホデミは海神からもらった宝玉で海水の干満を引き起こし兄を服従させる。いわゆる海幸・山幸の神話である。

この時ホスセリが行う服従の儀式が重要なのである。
ホスセリは三角形のしたばき(犢鼻褌・とくびこん。褌あるいは牛の鼻の先のように三角形のさるまた)を穿き、顔に埴土を塗りつけ「今からのちはこうして自分の身を汚してあなたの俳優(わざおぎ)になろう」と誓うのである。

「ここを持ちて、ホスセリの子孫である諸々の隼人たちは今に至るまで宮門を離れず守護し、代々、犬の吠え声をもって奉仕している」『日本書紀』
隼人の習俗にはこうした吠声(はいせい)・塗赭(としょ・顔を赤く塗る)・犢鼻褌(とくびこん)の三つに代表される。

コメント
現在「犬」のつく地名に隼人伝承、海人伝承、南方系神話、北方系神話などなどの影響は残っていないかは、つとに研究されるべきだろう。民俗学者谷川健一、松本信広などの研究を参考にされたい。また文化人類学者大林太良の著書、民俗学者・宮本常一なども読み返すべきである。

雄略天皇死去記事・・・臣従していた隼人ら、墓のそばで終日号泣し、食事もとらず、七日目には全員死んでしまった。

コメント
天皇の死で嘆き悲しむのは渡来人アメノヒボコの末裔、田嶋守(但馬守)にもあり、これが済州島の「泣き女」などとどうかかわるかは不明だし、まして隼人とどう関わるかも不明である。
民族学伝承ひろいあげ辞典「日本書紀の中の犬
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16267822.html



伊勢の海女ととくびこん
さて、志摩といえば海女、鳥羽といえば海人族である。
ご存知のように天武・持統天皇由来の諏訪遷都計画のおりに、鳥羽から対面する尾張の知多半島へ船で向かった経緯もあり、鳥羽といえばあわびについでフェリーでも知られる。
過去記事で海女に関して記事を書いたことがある。
民族学伝承ひろいあげ辞典「なぜ伊勢志摩サミットなのか? 海女・真珠・あわび・伊勢神宮」
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16241327.html




魏志倭人伝の倭人の服装風俗
 その風俗は淫ならず。男子は皆露紒し、木緜を以て頭に招け、その衣は横幅、但結束して相連ね、略縫うこと無し。婦人は被髪屈紒し、衣を作ること単被の如く、其の中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る。
(この風俗は長江から南に多い)
 
南方系の島嶼民や長江以南で特徴的共通衣服には「犢鼻褌(とくびこん)=ふんどし」がある。この下着は寒冷な北方には存在しない。いわんや日本では江戸時代、明治時代までふんどしを用いている。
 
衣服は一枚布を縫うことはせず、そのままぐるぐるっと巻きつけている。これも島嶼や長江やインドシナ風である。女性はポンチョのように一枚布の真ん中に穴を開けてすっぽりかぶり、両脇腹部?をとめているだけ。これは中南米から南島にもある。
 
このように倭人風俗はあくまでも南方系である。当時の気候が温暖だったために、縄文からの風習がそのまま受け継がれたらしい。しかもはだし。
「魏志細部記事にこだわる/へん豆・服装・纒向で出ない九州土器・以って死すなど」
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16245362.html


タヒチのふんどし「マロ」は六尺型
「フラを演じる際に身に着ける下着のことだ。アルファベットには無いのでキーボードでは正確には表記できない。男性はマロかパウを身につける。マロはふんどしなのだ。
パウはカパから作られる。カパとは樹皮から作った布地のことだ。カパは、カジノキ(クワ科)などを材料に作られる。織ることはしないので不織布なのだ。
カパはタパ(tapa)ともいうが、タパはタヒチ語なのだ。」一部編集しています。
ハワイの勉強日記さん http://www.kahale.jp/study08.html

※マロはとくびこん型つまり越中ふんどし=締め込み、ではなく、六尺型、あるいは前後ともに布があるふんどし。いずれもハワイ、タヒチなど島嶼の民族が多く着用する。

写真はいずれも「ふんどし談義」サイトさん http://wadaphoto.jp/maturi/japan15_2.htm
と、私、「民族学伝承ひろいあげ辞典」過去記事


ふんどし世界分布
日本  倭人~昭和戦後まで存続。今でも儀式、海開きなどで着用
琉球
憺耳 古代海南島の倭人
朱崖 広東省雷州半島あたりから会稽くらいまでの海岸部にいた古代倭人
台湾原住民?
東南アジア
ポリネシア
南米地区
ハワイ・トンガ
タヒチ
古代南インド
インドシナ
タヒチではアウトリガーボートの進水式には真っ赤や黒の六尺褌を着用する(NHKBS世界街歩き・ハワイ・タヒチ編)。

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このようにふんどし、締め込み、六尺などの服装は、民族衣装であり、その分布は広く太平洋からインド洋の海に関与する民族の特徴である。また地中海でも、古くは類似した戦闘用下着が存在した。民族衣装であると同時に、ふんどしは戦闘服であり、海などに出かけるときの命を懸けた場合に特に着用されたまよけ、意気込み、命を象徴する衣装だったと言える。海の民にそれが多いのもうなづけることだ。





結論

ふんどしは島人、海洋民、漁民の共通的下着、戦闘服。
特に赤は、命を懸けた男の勝負パンツである。