前回は油揚げの形状の東西の違いを考えた。
その中からでは豆腐自体に違いがあったのではないかという疑問が新たに生じた。

すると豆腐だけでなく、油を食用とする時代まで考えねばならないことに気づいた。

ざっと書く。

小難しい引用などははしょる。

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まず豆腐。
豆腐が日本に来るのは遣唐使による。だから最初に豆腐が来たのは大和(奈良県)である(Wiki豆腐)。
最初は固い豆腐だった。

次に油は最初菜種油である(厚揚げの歴史)。
当初の油は燃料であり、やがて鯨油など各種、さらに江戸期にはろうそくが灯り取りの主流となったことで、油は食用にも使われだす。

●豆腐の一丁には規定がない!
実は豆腐には大きさの規定がない。だから一丁の大きさや重さは今でも全国でまちまちだ。
これは明治期に入った食パンの規定があるのと対照的。食パンは重さで一斤が、ざっとだが決められている。一斤はだいたい360グラムほどが一斤で、スーパーで切って売られている食パンは半斤(約170g)である。つまり明治以前には、食品度量衡がいい加減だったことになる。コメや酒などは秀吉が度量衡で升の大きさを統一したので規定がちゃんとある。と言うことは豆腐などは厳しく取り締まられなかったのだ。

それで全国的には、都市では品よく小さめで、地方ではどんと分がいい食べ物が多いという、今でもよくある事情に連なったわけであろう。産地で安くてやや質は落ち、輸入先は高かいが品質にバラエティ。これは流通のしかけである。

それで豆腐も江戸や大坂から離れるほど大きく切られた。
だから油揚げにするとやはり大きさに差が出た。

また油揚げの最初は豆腐をまんまで揚げる、揚げ豆腐からで、次に厚揚げ、次に油揚げと加工法が広がったらしい。で、どこからかと言うと名古屋説と長崎説があるらしい。

名古屋なら時代は室町、長崎なら江戸時代となっている。

しかし、筆者はこう考える。室町時代にはまだ油が食用には使われてはいないはずで、江戸期にようやく大量生産が始まったとWikiにはある。

となると長崎か?と言うと、ポルトガルのフライの影響かどうかは確定できないところがある。天ぷらの始まりもポルトガルの影響だと一般に言われてきたが、ならば長崎が早いのも納得するのだが、なにしろ豆腐は大和が古く、その後平安時代には、当然京に広がる。京都で揚げ出し豆腐が始まる可能性だってあるだろう。不明。

●なぜ京揚げは長いまま?昔は江戸も長かった!

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さて京揚げサイズだが、江戸期の江戸の稲荷寿司も最初は京揚げのように長いものに飯をつめて、切っていたらしい(Wiki稲荷寿司その他サイト)。その形が狐が丸まった姿と色合いなので江戸っ子は稲荷と名付けた。なんだか鯖ずしみたいだが、油揚げの稲荷が使われた理由は、江戸期の贅沢禁止=儒教的な、と仏教が魚介を殺生としたことが大きかったらしい。贅沢と生ものをとめられて、江戸っ子寿司屋は代用品として稲荷を思いついたのだ。で、江戸では「きつね」では生き物なので困るから、稲荷としゃれたわけだろう。京都で長いのは、おばんざい調理に切って使うから。それだけ京都人は精進としての油揚げをよく使うからだと言う(Wiki京揚げなど)



●稲荷神社のお狐様には最初ネズミの揚げたのを供えていた!
さて、そのお稲荷さんには最初、アブラゲではなくネズミを揚げて備えていた(NHKチコちゃんに叱られる)。狐がネズミをよくとらえ、好物だったからだ。しかしこれも仏教が殺生だと言いだして代わりに油揚げを備えたそうである。

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●稲荷がきつねになったのは秦氏の大辟神=うかのみたまだったから!
なお、狐をなぜ稲荷の神の使いとしたかと言うと、伏見稲荷の秦氏たちは、狐を「オオサケ・オオサキ」と呼び、理由は口が耳まで裂けていて、秦氏の神である大辟神との音の類似がある。だから全国大崎神社も大辟神社と考えてもよい。地名大崎も秦氏がいた地名である。その狐は、子供のえさを口にくわえて持ち帰るので、豊受=稲荷=うかのみたまで、神様に食事を用意する=神の使いとなったのである。そこからもともおとはいなかった狐の狛犬が稲荷神社には置かれた。そもそも稲荷は豊穣の農耕神なのが、きつねが置かれてしまったから、いつかしらおきつねさま=稲荷となり、秦氏=きつね→秦氏と阿部氏が婚姻して安倍晴明が生まれる=母親はきつね・・・と着想されていったのだ。

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また大阪のうどん屋では、きつねうどんではなく、うどんに稲荷を添えて出したそうだ(NHKチコ・・・)。それが受けて、じゃあ乗っけてみようとなってけつねうどんができあがる。だからけつねは最初は添え物だったからうどんに「けつね」をつけてくれと注文したわけで、大阪ではきつねうどんとは呼ばずに「きつね」単独だったのだ。



●鍋が丸かったから三角に!?
と言うわけで、油揚げの切り方が関ヶ原で違うのはまだ確とした理由は見えてこない。なんとなれば宮城県には大きな三角の油揚げを出す店があるという。三角が西日本だけとは言えなくなる。なぜ宮城県の油揚げは三角なのか、なぜでっかいのか・・・知らんがな。大きいのは地方の特色だが、なぜ四角文化の東日本で三角だったのか?さて、西日本の職人が移住したとか?伊達政宗は西日本から多くの技術者を移住させた過去がある。例えば鋳物師は姫路から招請して、岩手県で南部鉄器に発展した。姫路は鉄の産地で、渡来系鋳物師が針を生産。ゆえに姫路周辺はハリマ=針間=播磨国となった経緯がある。

この宮城のお店では、昔は油の鍋は丸かった、すると四角では揚げる効率が悪いので三角にしたと言っているそうだ。そうなの?じゃあどうして江戸では四角、京都は長方形かと聞かれてどうこたえるのだろう?


●センスだな
要するに職人のセンスや勘で、大きさも形も都合よく決まった、というのが最終結論である。



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