船木氏に関する目立った情報
造船の名手
伊勢では記紀崇神・垂仁朝に、倭姫(やまとひめ=伊勢斎宮)元伊勢巡行の舟を取り仕切った記録
景行天皇は船木氏の多い近江に遷都し宮建設記事
神功皇后紀にも登場し船を仕切る。
多氏の祖・神八井耳命を祖とする。

伊勢水銀採集に関わる。播磨砂鉄採集に関わる。
明石郡船木村あり。住吉大社の記録に名前。小野市~河西市に拠点?
加古川の「かこ」は水夫の古語であり、船木氏が関係?

船→河川遡上→鉱物採集→ふな釘製造→祭祀者
「船木等本記」には「船木の祖・太田田神なり」ともあり、河内陶邑の大田田根子のことか?
大物主祭祀に関わったか?要再調査

石上神宮や淡路島にも関係。
多氏子孫なら九州派生氏族か?
参考 www.historyjp.com/article.asp?kiji=250
布奈木の郷 kamnavi.jp/log/funaki.htm
船木山古墳 要調査

「船木」地名は表記の違いもあれ、全国の海岸に散らばる。内陸部にもある。
もっとも船の木地名なら、船に使った用材を切り出したという意味で、すべてが船木氏に関与する地名かどうかは一考すべきかも知れない。そこに多氏とか神八井耳などに関与するほかの由緒があれば船木氏がいたと言えるだろう。なにしろ「ふなき」は漠然とした氏名でもある。いずれ要再調査



宗氏・惟宗氏
「宗氏(そううじ)は、日本の氏族のひとつ。中世から近世にかけて対馬国を支配した守護・戦国大名・近世大名の氏族。秦氏の末裔惟宗氏の支族だが、室町時代中期頃より平知盛を祖とする桓武平氏を名乗るようになった。 」Wiki宗氏

あくまでも中世からの対馬守護で、古代には記録がない。
一方大元の惟宗氏も平安時代から登場するので、どちらもそれ以前、対馬とどう関わったかがわからない。讃岐香川の惟宗直宗・直本兄弟らに始まる惟宗朝臣が最古の記録。

「また系譜は必ずしも明らかでないが在庁官人や郡司などに多くの名が見える。惟宗広言もしくは惟宗忠康の子・忠久は日向国に下って土着し、当地にあった荘園「島津荘」にちなんで島津氏と名乗るようになったとされる[2]。ただし忠久は源頼朝の落胤と自称して(後世の伝承)、島津氏は(名目上は)清和源氏ということになっている[2]。
また対馬の宗氏(のちに桓武平氏知盛流を自称する)[2]と神保氏と執印氏も惟宗氏の子孫とする。そのほかに安芸氏などが惟宗氏の子孫と自称した。」とWikiにはある。

1『古代氏族系譜集成 下』・・・「秦系氏族」の節あり(p.1411-1473)。
「 p.1418-1439に,「秦忌寸(一)、惟宗朝臣(一)」「惟宗朝臣(二) 島津氏(略系)」「惟宗朝臣(三) 飾西、中山氏」「惟宗朝臣(四) 典楽」「惟宗朝臣(五)、令宗朝臣」「惟宗朝臣(六) 宗氏」「惟宗朝臣(七) 神保氏」の項があり,それぞれ系図と,典拠とした資料・註があります。資料には「系図纂要」も挙がっています。
2『系図纂要』・・・いずれも系図のみ。  
(1) 惟宗氏
 13巻p.315-325「惟宗氏(醍醐天皇-)」
14巻「和気氏」p.121,7巻「紀氏(淑光-)」p.273,9巻「清和源氏 島津 薩摩鹿児島」p.287に「惟宗」の文字あり。
(2) 秦氏
 15巻p.493-509「秦氏(秦始皇帝-)」・・・目次では,長曽我部・薗・林・東儀・岡の項目あり。
 15巻「卜部伊伎氏(松室)」p.345,11巻「清和源氏 佐竹 出羽久保田(秋田)」p.270に「秦氏」の文字あり。」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000253898

項目や文字が見える・・・だけではその氏族との関係はよくわからない。また秦氏は名乗りだけなのか、血縁があるかも判別できない。

いずれにせよ秦氏を名乗るのなら帰化氏族なのだろうと想像するしかない。なまはんかに平安以後、自ら渡来人子孫だと名乗るにはなまなかな気持ちではあるまい。自負あっての名乗りであろうから、信じるしかない。

一時期、宗氏は福岡の宗像を本拠としたという記述もある。
「宗氏というのは、元々太宰府の官人で、それが後に武士化したものです。当時の本拠は筑前の宗像(むなかた)郡。で、さらにそのルーツをたどれば、惟宗(これむね)氏で、江戸時代、公式には平氏一族の平知盛を祖とするとしています(惟宗という姓は平氏系に多い)。 で、この惟宗氏が対馬守護・地頭の少弐氏の代官としてしだいに島での実権をにぎり、モンゴル襲来の際には宗資国(すけくに)が戦死しています。大河ドラマ「時宗」でもふれられました。この頃には、姓を「宗」にしております。」
www.uraken.net/rekishi/reki-nihon006.html


ただしこのサイトは出展がないので、確かめようがない。宗像地名との関与も資料がない。

※阿比留(あびる)氏
「現在の対馬でもっとも多い姓は「阿比留」(あびる)です。本土の人は「あひる」と読んでしまうこの姓のルーツは、平安時代まで遡ることができます。阿比留一族は交易などの実権を握って対馬で大きな勢力を持っていたようですが、鎌倉時代になると大宰府との関係が悪化し、惟宗(これむね)氏によって支配権を奪われます。惟宗氏はやがて宗(そう)氏を名乗り、鎌倉時代から江戸幕末まで600年続く対馬島主・対馬藩主の家系となりました。」

白村江時代(天智天皇飛鳥時代)
「白村江の戦いののち対馬には防人と烽が置かれ、山城も築かれて外寇の防備としたが、8世紀から9世紀にかけての新羅の入寇、11世紀の刀伊の入寇などしばしば戦火をこうむった。
飛鳥時代[編集]
 
金田城
島の首長について、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では「津島県直」と伝える。古墳時代にはヤマト王権がたびたび朝鮮半島に出兵しており、こうした状況は『日本書紀』、『広開土王碑文』、『宋書』倭国伝、『三国史記』の記載でも認められる。このなかで対馬の具体的な地名が登場するのは、『日本書紀』における神功皇后の新羅征討伝承であり、それにかかわって「和珥津(わにのつ)」の地名が登場し、対馬に屯倉を設置したと記述される。朝鮮側の記録としては、『三国史記』に新羅王実聖尼師今の治世7年(408年)に、倭人が新羅を襲撃するため対馬島内に軍営を設置していたことが記されている。 」Wiki対馬



結語
これ以上、以前の記録は「魏志」倭人伝になるが、そこに氏族名は一切ない。つまり宗氏については記録はここまでしか遡れない。従がって船木氏との古代における関係は不明である。

想像するなら、秦氏は船木氏や阿曇民の舟で倭国へ来ただろう。そのとき対馬には当然立ち寄るから、対馬の海人族の舟に乗り換えた?くらいしか。しかしその頃、対馬に宗氏はいないわけで、惟宗を名乗った秦氏の誰かから日本で枝分かれした氏族と言うことになろう。それが中世になって惟宗対馬支配を引き継ぐとなるか。それで宗と名乗ったか?また宗像にいたときに地名が宗氏の一文字を取ったか?すべて想像になる。

つまり船木、宗いずれも古代どういう氏族だったかは不明である。海人族だろうと考えるしかない。

では秦氏と多氏の婚姻は?阿曇と秦氏の婚姻は?
秦氏と多氏については昔いろいろ調べたし、ここにも空想記事は書いているが、なにしろ秦氏は渡来人であるとはっきりしており、多氏は皇孫をはっきり名乗っており、別氏族であることがはっきりしているので、秦氏なら勢力拡大のために誰とでも婚姻した可能性があるとしか言えまい。渡来人なら地位の向上のために倭人在地勢力との血縁は必要だろう。それ以上のことは証拠もないのにおいそれとは書けない。

織田や明智も同じことである。まずもって氏族はわかりにくい。系図を買ったりする武家ならなおさらである。あとは空想の翼を脳裏で広げて楽しんでいるしかない。小説ならいくらでも可能性は広がろうが・・・。神社伝承もあとからいくらでも作れてしまうし・・・。記紀に合わせた記述も山ほどだろう。ここまでだ。残念だが後世に譲る。



おまけ・なぜ信長遺体は消えたのか?
では信長の死骸はなぜ消えたのか?
もちろん空想でしかないが、光秀が本能寺攻めを決意するとき、一度単騎で本能寺の信長に面会したという最近の説に期待が持てる。そのとき信長は光秀とともに脱出している?とか。なんちゃってではあるが、ないとも言えまい。

二人そろって雲隠れ?それほど仲が良かったのは確かだ。だからあとから書かれた軍記や史書が勧善懲悪に潤色してあると考えてみるのも面白かろう。なにしろ『日本書紀』でさえ、蘇我氏をあれほど貶めている。

NHK大化の改新寸評
先日NHK「大化の改新」再放映があったが、門脇貞治監修で、かなり古い解釈になっている感は否めないものだ。今の教科書には大化の改新はほぼなく、律令制は蘇我入鹿らのやったことであり、『日本書紀』記述は藤原氏に都合よく書かれたと考えるのが一般的になっている。あの番組は、まずもってほとんど信ぴょう性がない。『日本書紀』記述の半分以上を信じる立場で描いてあると思うほうが良いだろう。入鹿が聖人だったとまではいかぬが、鎌足(あの頃は鎌子である)と同級学徒で、泣く泣く入鹿を殺すことになるという解釈はまあまあだが、実際は藤原氏が、正道を行っていた蘇我氏王権を引きずり下ろし、とってかわると言うのが乙巳のクーデターだろうし、鎌足が鹿島からやってきて惣領になるというのも怪しい話だ。鹿島神宮は春日神社より古いとはあまり思えない。逆かもしれぬ。茨城中臣から後継ぎというのはどうも現実味がない気もする。

一巳の変の中心人物は不比等ではあるまいか?鎌足とはやはり百済王豊璋であろう。

ま、これも空想に過ぎないが。
それよりも秀吉の六本指の本義や、三浦按針とエリザベス一世によるイエズス会との宗教対立、勢力争いが大阪城陥落に大きく関与したという説を証明していくほうが面白そうだ。もっともそれは古代史専科のKawakatuにとっては余禄。本道ではないが。三浦按針に関しては神奈川にいる学友研究家におまかせしたい。

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