過去記事の再掲載。
なぜ再掲載?
コロナウイルスのせいで考古学発掘が停滞し、図書館もストップしていたから。
そして、ブログの引っ越しで、過去記事がほとんど検索にヒットしていないから。
過去記事を全部再掲載するのは大変だが、評判が良かった記事はなんとか再掲載したい。


●京都ディープ 異界譚1 貴船の舌氏
貴船神社。
船の旧字は舩。
貴舩。

賀茂氏が祭祀するやしろ。
水の湧くところである。
往古、ここの水の祭祀をつかさどったのが舌(ぜつ)氏だ。

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舌氏家紋はひし形に八


舌とは、いらぬことを言わぬようにとという氏姓であると舌さんは言うが、実際はどうだろう?むしろ語り部であったのかも知れない。
語り部は、古代で、当然、中央の政権からある種、差別された氏族の職称である。これは世界的にもそうなのだ。
舌氏も当然、賀茂氏の眷属であるが、彼らが大和の葛城に入ったときから、鴨氏は水を扱い。水で祭祀する氏族だった。大和御所市の葛城山麓で、鴨都波という水を司る神を祭っていたのが葛城賀茂氏である。鎮魂しているのは出雲国譲りの1柱、八重事代主。この神がまずは海と水の神・エビスであるから間違いあるまい。

貴船神社の宮司を代々つとめてきたのが舌氏である。


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●京都ディープ本編1 貴船神社の仏国童子=牛鬼伝説と出雲国譲りの真実 菱形は天地四方
かつて貴布禰の社人には舌・鳥居・願などがあったと言う。
舌(ぜつ)氏は牛鬼(舌さん子孫は「うしおに」と読ませる)だったと言われる仏国童子の子孫を自称している氏族。貴船山の某所に磐座があって、そこに童子は降臨したと言う。かつて貴船神社宮司を代々世襲で務めてきて、やがて社家になったが、今は分家が一軒残るきりになり、近年、その子孫である舌勇治(ぜつ・ゆうじ)さんも亡くなったと西川照子※が書いている。


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鏡岩
http://kifunejinja.jp/access/kifunemap/detail.html



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貴船川源流・雨乞いの滝
http://kifunejinja.jp/access/kifunemap/detail.html

このサイトの方がわざわざそこを訪ねた記事が見つかったので、画像を貼っておこう。
鏡岩というらしい。かなり山深いところにあるという。貴船の水の源であろう。

「丑の年、丑の月、丑の日、丑の刻に、

貴船大神が天下万民救済のために、

仏国童子(牛鬼)を従者として

貴船山中腹の鏡岩に降臨した。」
「貴布祢雙紙」(きふねぞうし)
https://blog.goo.ne.jp/tabijinja/e/88b264eaae35788300803524d9d53075
 
「貴船神社に『黄船社秘書』という和綴の小冊子がある。表紙には「不許他見」と記されており、誰にでも安易に見せることは許されていない。社人・舌宗富により宝暦4年(1754)以降に著されたものと考えられ、内容に興味深いものが多く含まれている。そのなかに納められている「貴布祢雙紙」(きふねぞうし)は、社人・舌家の縁起を知るうえで非常に貴重なものである。
 
「貴布祢雙紙」によれば、貴船明神が天下万民救済のために、天上界から貴船山中腹の鏡岩に御降臨され、そのお共をしたのが仏国童子(牛鬼ともいう) である。ところが、この仏国童子がはなはだ饒舌(じょうぜつ)で、神戒をも顧みず、神界の秘め事の一部始終を悉く他言したので貴船明神の怒りに触れ、その舌を八つ裂きにされてしまった。そして貴船を追放され、吉野の山に逃げた。そこで一時は五鬼を従えて首領となったが、程なく走り帰って、密かに鏡岩の蔭に隠れて謹慎していたところ、ようやくその罪を許されることになった。舌家では、この鏡岩のところで「屈んで」謹慎をしていた岩だから、鏡岩を「屈岩」と書いて伝えている。この初代・仏国童子の子ができ、僧国童子と名付けた。
 
ある時、仏国童子が貴船明神の御弓、鉄にて打った面二寸三分宛の御弓を取り出し、二張まで折ってしまった。余りの悪事に怒った大明神は、童子の手を鉄のクサリ七筋を以って括ったが、少しもひるまず引きちぎってしまう。大明神は今度は二間四面の大石を膂(背骨)に掛け置いたが、童子はこれも苦ともしなかったので大明神は心を痛めた。この童子、食べ物は一日三升三合食べたが、百三十歳の時カミナリに打たれて死んでしまった。

二代目・僧国童子は少年の頃から丹生大明神(貴船大神と御同体)に奉仕していたが、後に吉野の五鬼を従えて帰り、父に代わって神勤怠りなかったが百二歳でなくなった。僧国童子の子を法国童子と云い、その子を安国童子と名付け、以上四代目まで鬼の形をしていた。五代目よりは普通の人の形となり子孫代々繁昌して大明神に仕えた。そして祖先を忘れぬ為に名を「舌」と名乗った。 (以下略)」
https://ja-jp.facebook.com/notes/%E8%B2%B4%E8%88%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE/%E8%B2%B4%E8%88%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%A8%E7%A4%BE%E4%BA%BA%E8%88%8C%E5%AE%B6-%E7%89%9B%E9%AC%BC%E4%BC%9D%E8%AA%AC/487935831259546/


ほかにも『黄船社秘書』の 「貴布祢雙紙秘伝之巻」に舌家の家紋に関する記載が見られるという。「舌」というものは、善用すれば理を弁じ、物を格し、道を講じ、和を謀るが、もし悪用すれば初代の如く秘を発き、密を洩らし、神を犯し、聖を汚すが故に、永く子孫を戒めるために、舌(ぜつ)と名のるようになった、という。

仏国童子は貴船の神が神代にここへ降りたときに、家臣として連れ添って降臨した。貴船の神は地上に降臨したら天上界のことは決してしゃべってはならぬ、ときつく言われていたのに、降りたとたんに人々にじゃんじゃん喋り捲ったものだから、貴船大明神はその舌を八つ裂きにしてしまう。

「ここにはもういられない」と恥じ入って、童子は奈良の吉野山に逃げ込み役の行者の配下の後鬼などの家臣を作り、隠棲。そのままおとなしくしていればよいものを、貴船恋しさに戻ってくる。で、この鏡岩に消沈して座っていた。大明神もさすがに哀れに思い三年後、これまた懲りないことに童子を家臣に戻してやった。(葛城の役の行者との葛城氏と鴨氏の婚姻関係をここに言っていると見る)

いつのまにかどこかの女性とちぎりを結んだのか子に恵まれる。それを僧国童子となづけたが、これまたおやじをしのぐ悪童ぶりで、大明神の大切な弓を二張、へし折ってしまう。大明神は怒って童子を七回りも鎖でしばるが、童子はものともせずにこれを引ききってしまう。どうしたもんかとあきれはてていると、百三十歳になった日に、落雷とともになぜか天上界へ去ってしまう。

仏国童子の子孫は五代目からは牛鬼の姿から人間の姿になり、姓を舌と名乗った。初代が舌香保登と言ったそうだ。家紋は菱形の中に八。舌姓はおしゃべりを戒め反省して、今後しゃべらぬように、菱形は口の形で、八は舌が八つ裂きにされた形だと言う。なぜ口が菱形かと言うと、舌氏百何代目かの舌佐衛門守(ぜつ・さえもんのかみ)の書いた「不許他見 貴舩人舌氏秘書」に、菱形は天地四方を表し、魔よけである。八は天地太平を表す」とある。


2組の対辺は互いに平行で長さは等しい 2組の対角の大きさも互いに等しい 対角線がそれぞれの中点で垂直に交わる Wiki菱形

まれな形状である。自然界には少ない。
真ん中で切ると二等辺三角形、つまり魔除けである三角鋸歯文が二つできる。

古墳の装飾、中国の墓の仏教壁画、武家の家紋、やくざの代紋、海人族の鯨面文身の幾何学模様などに使われてきた。花菱、剣菱、三菱、山菱などなど。

(ちなみに貴船神社の神紋は今は三つ巴と二つ葵葉だが、上賀茂神社は葵。おそらく徳川家のときにそうなったのであり(梶まつりから藤祭から葵祭りへの変化とともに)元は梶の葉ではないか?ならばそれはタケミナカタを祭る長野の諏訪大社も梶葉で同じとなる。梶は舟の舵に通じる。貴船末社に舵取り社がある。http://kifunejinja.jp/access/kifunemap/detail.html
ウカノミタマを祭ってある。諏訪は安曇氏やタケミナカタで海人族。貴船・上賀茂も海人族である。

賀茂大神=高龗神(鴨氏貴船神)=アジスキタカヒコネをサンカたちは「かじすき」とも呼ぶ。そして紙漉き職人が梶の葉を家紋とし、「かじすき」を「かみすき」と転化している。)

なるほど、やっと菱形の意味がわかった。魔よけなのだ。すると中国や九州の壁画に描かれる菱形もそういう聖なる形状なのだとわかった。ならば▲△と同じ意味だ。鋸歯文・連続三角文と同じくサメなどの魔物よけだ。つまり舌氏も鴨氏もやはり海人族なのだ。海士の刺青(鯨面)に描かれていた絵柄と同じである。そういえばやくざの代紋にも菱形は多い。彼らも最初は大阪天満の海人族漁師中卸だったからだ。


仏国童子が牛鬼の姿だったという伝承は、牛鬼が吉備の児島湾・牛窓の魔物だったことを思い出させる。児島湾もおそらく賀茂氏などの海人族の盤居する瀬戸内交通の要所である。牛窓の地名は児島湾に出没する牛鬼が「まどって出てくる」に由来するという。かつては小島半島は島で、狭い海峡に関を設けて海上通交料金を取る四国海賊が巣食っていた。藤原純友は彼らとつるんで謀反を起こす。のちの村上・越智・九鬼・潤島などの三島神=闇淤加美(くらおかみ・大山積神)を奉じた瀬戸内水軍はその子孫である。そういう伝統が義経の弁慶なども作らせたに違いない。何事かにつけて謀反や反駁するときに彼らはいつも関わっている。

願(がん)氏という氏族も貴船にある。貴船大明神は水・船・雨乞い、雷神であり、賀茂氏は水の管理者である。ゆく先々で船で河川を上り、水の湧く聖地を探した人々だ。だから下賀茂の二川合流の出町にも住まい、京都の治水というところで氾濫が多かった葛野松尾の秦氏の堰造営、高野・鴨川の治水という部分で合体するのだろう。のちに秀吉が鴨川開発のさいに、魚行商の今宮供御人たちが八坂にスサノヲ=牛頭天王を祭ったのも、そういう牛鬼伝説が上流の水源である貴船にあったからだろう。今宮はえべっさんだ。今宮恵比寿とは事代主のことなのである。えびすとは異界のものども=異常出産児=異形の出自のものどもを指すのである。つまり渡来や蝦夷やあらゆる異民族。それがげい面文身の「倭の水人」にも適用され、賀茂氏のアジスキタカヒコネ=高龗神(たかおかみ・鴨氏貴船神)=賀茂大神がこれを管理したのだ。「氏、首、人部、部」という秦氏と同様の家人構成を持つ。上は貴族・豪族から下は部民・海民まで何層ものノット血脈一族で構成される。

葵祭で、賀茂氏の玉依姫は上賀茂から下鴨へ「里帰り」するのだが、貴船に入るときには黄色い船に乗って淀川から鴨川を遡り、下鴨へ嫁入りする。秦氏という「丹塗り矢」異形の一族に嫁入りするために。そしてどの氏族にもいたはずの玉依姫は、託宣するシャーマンである。その願いが氏族の名となったのが願氏だろう。

また鳥居は船を表すものという。いわゆる九州装飾古墳の「もがり舟と鳥」やエジプトにもある鳥のとまった生命の魂の船であろう。願氏も舌氏も、そして鳥居氏も卜占や託宣を行うシャーマンだったに違いない。すると鴨脚(いちょう)氏もそうなのだろう。しかし鴨氏の祖神アジスキタカヒコネはなぜ出雲からやってきたのか?彼らも秦氏同様、伽耶滅亡のときに葛城襲津彦につれられて葛城に戻った氏族だ。そのとき着岸した場所こそが出雲なのだろう。出雲はコスモポリタン的な公共港だったのだ。古志三国の九頭竜川の継体大王=古志のヤマタノオロチがそこを奪うまでは。
出雲はフリーダムだった。


北の縄文人、南の宗像や安曇、朝鮮のさまざまの人種が共有していた港=神門(かんど)だったのだ。そこを奪い、鉄の武器で平定したのはではスサノオだったのか?それはつまり新羅の人か?
山口県土井ヶ浜や鳥取県青谷上寺地には、スキタイ系渡来人の遺骨や痕跡があり、いくさがあった痕跡がある。騎馬遊牧民が立てていた中国北東部の紀元前6000年前の遼河には、環状列石を作る北方系文化があって、秋田や青森の縄文人と交流していた。では彼らウラル系遺伝子を持つ人々が出雲を奪ったのか?『日本書紀』はそれをあとから大和の手柄にしてしまったのか?

京都は奥が深い。
遡ると何に出くわすかわからぬ歴史がある。
新しい首都が古い首都のうそまで暴いてしまう。
そして日本人3万年の歴史まで、秘所として隠し持ち続けている。
●京都ディープ2 朱雀権現堂聖徳太子像と安寿と厨子王と「お岩木さま一代記」と敗北者の歴史
●説教節「さんせい太夫」と森鴎外の「山椒大夫」
「岩城の判官正氏の御台所、その子安寿とつし王(厨子王)が、帝から安堵の令旨を賜るべく都へと向かう途中、人買いにたぶらかされて親子離れ離れに売られ、姉弟は丹後の長者「山椒太夫(三庄太夫)」のもとで奴隷として辛酸をなめる。姉の安寿は弟を脱走させたため山椒太夫の息子・三郎によって凄惨な拷問を受けた末に殺されてしまう。つし王は神仏により救われて出世し、山椒太夫父子に苛烈な復讐を行う。」

あらすじ
「平安時代の末期、陸奥国の掾であった平正氏は、上役の罪に連座して筑紫国へ左遷された。妻と、安寿・厨子王の幼い姉弟は、正氏に会いに行く途中、越後国で人買いに騙され、離ればなれになってしまった。安寿と厨子王は、丹後国の苛烈な荘園領主・山椒大夫に売られ、奴隷としてこき使われるようになる。やがて、成長したふたりは、荘園から脱走することを考えるようになった。そしてある日、安寿は厨子王に脱走をすすめる。厨子王は都への上洛を果たし、関白藤原師実の知遇を得て丹後に国司として赴任(実際は遥任であるが)、厨子王の脱走とともに入水した姉の菩提をとむらうとともに、丹後一帯での人買いを禁止。山椒大夫はやむなく、奴隷を解放し賃金労働者として雇うようになる。その後、母が佐渡国にいると聞きつけた厨子王は、佐渡にむかい、盲人となった母親に再会する。」
「世に知られた安寿・厨子王伝説をいかにして小説『山椒大夫』に仕立てたかを随筆「歴史其儘と歴史離れ」で鴎外自らが具体的に語っている。それによると、伝説の筋書きを基にしながら、登場人物の年齢から実際の年号を振り当て、そのうえで辻褄が合わない、あるいは鴎外の好みに合わない部分に小説的な脚色を加えていったと述べている[1]。鴎外は小説化にあたり、安寿の拷問や山椒大夫が処刑される場面など、原話で聴かせ所として具体的に描写される残酷な場面はほとんど切り捨てている。また、賃金を支払うよう命じられた一家が、その後むしろ一層富み栄えたというのも森鴎外のオリジナルである。」Wiki山椒太夫

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「「いわき市」に「安寿と厨子王 誕生の地」という名所が、いつのまにやら できているそうな。
 「安寿と厨子王」の物語は、元々は 中世の「説教節」で丹後(現京都府)地方の伝説 『さんせい太夫』。それを 森 鴎外が 小説『山椒太夫』にし、映画にも なって広まった。

 森鴎外の『山椒太夫』では、二人が住んでいた所を「岩代国」としている。ところがどっこい「岩代国」と いう国は、明治2年になってできた国なのだ。 平安時代には無かった。平安時代は「陸奥国」一国。 江戸時は「陸奥の国」と「出羽の国」だった。そして、 戊辰戦争直後の明治2年、陸奥国は「岩代国、磐城国、 陸前国、陸中国」の4カ国に分けられた。しかし、それも わずか3年だけの ことだったのだ。

 福島県の西半分が「岩代(いわしろ)国」、東が「岩城(いわき)の国」である。
さて、「安寿と厨子王」の原点である「説教節」の『さんせい太夫』では、二人の父を「岩城(いわき)判官」と している。この「岩城判官」という名から、「いわき市」が安寿と厨子王の生誕地と 名乗りをあげた。
しかし『説教節』では、「岩城判官」は「奥州50郡を治める平正氏」とし、伊達の郡(こおり)、信夫(しのぶ)の庄の住人」というのだから、「安寿と厨子王」の住居は、
 「現在の福島市や三春町周辺」となる。福島県の中通り地方だ。そして、その近辺でも、あちこちに「伝説の地」の碑が建てられているそうな。そもそもは、この話は、まったく荒唐無稽な創り話なのだが。」
https://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/e/b83936b4709d510eeb039abb2fb1bc79

福島浜通りと言えばあの大震災・大津波の震源地的な場所でもある。漁師町だが、古くは以前も書いたかと思うがそういうことがあっておかしくない地域だった。いやそもそも漁師町の、その地域の隔絶された場所・・・岬の突端や、山で囲まれた小さな海岸には、全国的に古いままのサンクチュアリ的場所がまだ多い。それは歩いてみたらすぐにわかる。津波はそういう場所に必ず来るし、そういう場所にはある種の特殊な近代施設も同居する。これはここを長く読まれた人や民俗学に詳しい方なら、暗黙の了解事項だろう。
安寿あんじゅと厨子王ずしおうの物語
「この母子像はあの有名な森鴎外の小説「山椒大夫さんしょうだゆう」にでてくる姉の安寿(万寿まんじゅ)と弟の厨子王(千勝ちしょう)、そしてお母さんの旅の姿です。

今から約1000年の昔、いわき地方を良くしようとする仕事についていたお父さんの平政道たいらのまさみちは、小山田おやまだ(今の山田町)の桜を見物に行った帰り姥うばヶ岳たけ(近くの水道バックのところ)でおそわれ命を落しました。
 次の年、母と子は家来の大村次郎と召使めしつかいの小笹こざさをともなってお母さんの実家のある信夫しのぶ(今の福島市)に逃れましたが、途中大村次郎は追っ手と戦い戦死してしまいました。
 主従の一行はお父さんが殺されたことを訴えるためにさらに都(今の京都)へ向かいました。
ところが途中越後えちごの国(今の新潟)で悪者にだまされて母と子は別々の船に乗せられ、安寿と厨子王は丹後たんごの国の山椒大夫という人買ひとかいに売られ、お母さんは佐渡へ売られてしまいました。

 召使の小笹は船から身を投げ自殺しました。
 安寿と厨子王のつらい生活が3年ほど続きました。

 水がぬるみ草が萌もえる季節がやってきました。
ある日、安寿は自分の身を捨てて厨子王を山椒大夫のところから逃れさせました。
やがて立派に成人し朝廷に仕える身となった厨子王は、人買いを禁止してよい政治を行ない、父の仇あだを出羽でわ神社付近(東田町あずまだまち)で討ちました。
そして盲目もうもくになったお母さんと佐渡で再会をはたしました。
いわき市のこの金山町かねやままちの周辺には安寿と厨子王にまつわるゆかりの地が沢山あります。
 親子、姉弟のかたく結ばれた愛情を物語るこの母子像の姿は、永くのちの世まで伝えてゆきたいものです。」
 平成12年 金山の昔を伝える会(説明板より)

安寿と厨子王
「安寿と厨子王丸[1](あんじゅ-ずしおうまる)は日本の童話。『安寿と厨子王』とも言う。悲劇的な運命にもてあそばれる姉と弟を描く。
中世に成立した説経節『さんせう太夫』を原作として浄瑠璃などの演目で演じられてきたものを子供向けに改変したもの。ゆかりのある各地で民話化している。近世になり絵本などの媒体にて児童文学ともなっている。」Wiki安寿と厨子王
http://www.geocities.jp/bane2161/anjyutozusiou.htm
「山椒大夫」「安寿と厨子王丸」の話はもともと説教節など、全国各地に存在した話を森鴎外が脚色した話。だからそもそもどこの地域の話かどうかわからない。
どこからこういう「人買い」譚が出てくるのかと考えれば、古代から、坂上田村麻呂の蝦夷討伐や、アテルィの戦いなどで蝦夷が俘囚となり西日本各地へ連行移住させられるという、政治的な人種の均一化=同化政策があってのことではなかろうかと考えている。
東北には説教節の一種「お岩木さま一代記」という形でイタコの口承で伝わっていたらしいと西川照子は言う。

京都の南にある朱雀権現堂には、厨子王丸が背負っていた皮籠(かわこ)が残されているそうな。

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http://webheibon.jp/sekkyoubushi/2014/09/post-19.html
朱雀は陰陽五行の南の方位で、京都では七条朱雀を言うが、七条大路と旧朱雀大路との交差点・七条七本松交差点あたりである。筆者が40数年前、塩小路東大路から大学へ通っていた道沿いにある。
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現在の権現寺参堂。https://blog.goo.ne.jp/korede193/e/009a350f9fe0da87fe55355045edf40d
源為義の墓があるので有名らしい。
 「『三代実録』によれば、この地は「三災不動の地」といわれ、疫神祭がおこなわれる地であった。
 権現寺の寺伝によれば、実際に平安時代から鎌倉時代にかけて災禍に見舞われなかったという。
 保元の乱後、源為義(みなもとのためよし/源義朝[みなもとのよしとも]の父)はこの地で斬られた。
 『保元物語』には、為義が斬られたのを知った為義の妻がこの地を訪れたが、何の名残も見えなかったという記述がある。
 鎌倉時代以来、この地に祇陀林寺(江戸時代中期に「権現寺」に改称)があり、「朱雀権現堂」「朱雀地蔵堂」と呼ばれた。
 寺の前には源為義の塚と供養塔があった。
 権現寺は明治四十四(1911)年、梅小路貨物ヤードの整備に伴い、七条通と七本松通との交差点を下がった地点に移転し、源為義の塚と供養塔も寺とともに移転した。」
http://www.mutsunohana.net/miyako/oji-koji/shichijo-suzaku.htm?201708

しかし京都に平安京ができた頃までは、京の朱雀と言えば今の八幡市のあたりにあった巨椋池(おぐらいけ)のことである。いわゆる三川合流の大湿地が、平安京の南の鬼門。よく言えば守りの要(かなめ)だった。それで岩清水八幡宮が置かれたわけだろうが、四至(しいし)の守護に聖獣(玄武=船岡山・朱雀=おぐら池・青龍=鴨川・白虎=山陰道入り口老の坂か愛宕山)を置いた、中国の四神相応思想が元である。この思想は古くは5・6世紀古墳時代の筑紫にすでにあり、畿内では、確かなところでは7世紀の高松塚やキトラ古墳に描かれている。

で、その後今の七条通と旧朱雀通りの交差点が朱雀とされ、ここに権現寺が置かれた。中世には京都は小さくなってしまったのだろう。秀吉の頃にはおぐら池も干拓され、鴨川も治水工事されて、お土居も造られ、さらにコンパクトに様変わりした。

それが今の朱雀権現堂があるあたりか?聖徳太子ゆかりの寺院と言われる。ここのお顔が真っ黒な聖徳太子像が、なぜかはしらねど、「説教節」の金勝地蔵に重ねられ、太子像は厨子王の姿であるという俗説に。権現寺伝承にも同じことが書かれた。どうもそのあたりは後世の混乱があるようだが、厨子王のような人買いされた物語と聖徳太子伝説は、どうも結びつきやすいものらしい。

西川照子『幻の京都』より 

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往古から信者に触られて顔が真っ黒になった聖徳太子像

さんせい太夫そのものが、そもそも起源がよくわからぬお話だし、聖徳太子伝説は京都の秦氏の得意とするおはなしだから、ここに見事にそういう混成した伝承が残ったのだろうか?厨子王の名が、太子の玉虫厨子を思わせたからだろうか?ほんらい「つし王」と濁らないそうなのだが。厨子を背負っていたのは乞食坊主や阿弥といった厄払いの徒で、それをシャーマンとしての太夫とも呼んでいたのが中世から近世である。家康の父や、秀吉の父がともに阿弥であった。

「やっくはらいましょ」と年末の落語でよく出てくるのが風来の阿弥である。ほかの噺に、籠ではないが「いかき」などのざるを売りあるくものが出てくる。(「米上げいかき」)


年末年始に「しょうけ」「いかき」「ほうき」「みのかさ」「箕」あるいは正月の注連縄といった竹やしゅろで編んだ「あらもの」を行商するのは、主として「ちゃせん」「箕作り」「竹細工」などの埒外の賎民であったわけだが、結局のところ京都の南のはじっこの朱雀権現寺なんぞには、そうした人々が「駆け込む」「逃げ込む」サンクチュアリとしての機能があったのかも知れない。これは西川や師匠の梅原、あるいはそのまた師匠でもある柳田らも感じていたことではないか?

蝦夷俘囚にしても、出雲の阿国にしても、秦氏にしても、逃亡者、敗北者である。聖徳太子の大元である蘇我氏もそうだし、物部氏や和邇氏もそうであろう。そういうすべてを聖徳太子は救う存在だという、一種の現実逃避がそこにはありそうだ。すべての厄を、忘れさせてくれる救いが、民衆には必要だったのである。スケープゴート(みせしめ)の正反対の観念。つまり救世観音の救世とは、西欧で言う救世主なのではなかったか?
はてさて、古代は日本が狭かった。そして京都は懐が深い場所だった。どうやらそれは秦氏がそこにいたからかも知れぬ?

丹後でも岩木山でも、この人買い話の主役はもともと安寿のほうだった。安寿は神としてお岩木山の山頂の神として祭られている。

「ツィゴイネルワイゼン」予告編をひとつ前の記事に貼り付けた理由もそこにあるのよ。
次回は安倍晴明墓所はいずこ?

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