彼はなぜ小説家になれなかったのだろう?時々考えることがある。少なくとも彼女はそれを望んでいたのではなかったか?あるいは詩人でもよかったはずだ。

 けれど彼は自分の才能の活かし方を知らずにいた。そして社会に出てから、うまくいっていた会社をやめたあと、かなりの辛酸をなめたことが、彼から自信をうばっていったことも間違いがない。大都会で食っていくことは、地方よりも助けがない。地方から出てきた彼には、彼を支える友人や知人が決定的に少なかったのも事実だろう。しかしそれは彼女も同じである。彼女はオンナ一人で、知らない京都で教師になって、決して条件も良くない地域に赴任させられたが、負けなかった。そして友人を作ることにも長けていた。小さな体で、体力以上の仕事をこなした。すれが男の彼にできないはずもない。しかし、彼には心の中に生活のためになりたい仕事を選べないでいるもやもや、燃えカスがくすぶっていた。そして才能を信じられなくなっていった。それは最初に広告業界に身を置いてからだ。その会社で、彼は才能を存分に生かすことができずに過ごした。詩や小説と宣伝コピーはまったく別者だったのだ。


 それで食うということは、才能よりも性根や根性や継続が重要だった。それがクリエイティブの世界だった。思いつくままに、言葉を生み出せば売れる世界ではない。そこにはクライアントがいた。彼らの需要に応える文章と、文学ではまったく性格が違う。哲学とか芸術であればいいのではなかった。それは読者という不特定対数のマスの許容のない世界だ。商品を売ることが最重要な世界であり、自由に空想の世界を遊ぶゆとりなどない場所である。小説は少々、一般とは違う体験や考え方を売るが、広告は視聴者やクライアントを隔離した観念の世界ではない。短い言葉で商品のよいところを切り取る世界だ。その意味ではプロ、職人技である。


 彼は行き詰まり、行き場を失い、商売に逃げた。そしてそれは楽にお客に自分の小さな部分のよさを表現できる場所だった。彼のいく店は売り上げを倍増した。彼にとってそこは適所だった。楽しい場所だった。

 胃の痛むような創作、自分を絞り出すような表現はいらない。ただ自分自身をさらけだせばよかった。明るく、面白く、かっこよく、立ち振る舞える。そのままの自分が顧客に受け入れられる世界。それはクリエイティブではなくパフォーマンスだ。販売員は芝居、役者なのである。そして彼は若く、きれいな青年だった。それだけだ。おばちゃんや少女や女性に、彼は受け入れられていた。そして真摯に仕事に立ち向かったから、周囲の商売人やデベロッパーや経営者にも彼は神機があった。食堂の従業員でさえ彼を好きになった。はつらつと、若く、美しく、まじめだったからだ。ある店舗経営者などは自分の娘と結婚して会社を継がせようとしたほどだし、同僚や他の会社からの引き抜きや、一緒にやろうという声も何度もかけられた。わざわざ家にまでさそいにきた社長もいた。それほど彼は商売に向いていた。

しかしバブルははじけてしまう。多くの同世代の会社員たちが路頭に迷う時代が来てしまう。彼は目ざとく時代を見分けて、その前に会社を、商売をやめたのだ。それが失敗だった。それがなければ、二人は別れなくて済んだのかもしれない。そして思い上がりもだ。

 やめたあと、世間には思ったほどの採用や、景気のいい会社もなくなりはじめていた。これが彼の迷いと悩みの始まりだった。その世代で、会社がつぶれたりした経験がある人なら、だいたい理解できるのではなかろうか。公務員や教員ではなかなかわかるはずもない、時代の波だった。経済は、企業は、景気に左右される。それが運命だ。公務員ではわからない。

 彼の都会的なセンスや、生活感のないユニセクシャルな浮遊感あるおしゃれな感性が生かせるような仕事は、当時、なかったのである。初めての挫折である。Junは次第に自分を見失ってゆく。行き止まり。壁を乗り越えねばならない。時代に追い詰められていった。

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