メソポタミア文明、今回はシュメール人の死生観、信仰について自分なりの解釈を書いておきたい。最初はウルクの大杯を扱うが、その前に・・・。筆者はメソポタミアのシュメールにも、ここの二大河川の源流である地中海側のウバイドやレバントにも、これこそが新人「最古の文化の発祥地」という確証に満ちた匂いを、実はいまだ感じとってはいないのである。もっと古い文明、文化が必ず西アジア地域から出るはずだと待っているのである。
昨夜NHKBSプレミアムでアフガニスタンの美術をやっていた。このブログですでに扱ったことがある新羅系歩遥(ほよう)付金冠が出てきた。しかし学者は飛鳥とアフガンについては語るものの、肝心の新羅については触れないままであった。アフガニスタン西部からペルシア東部は、遺伝子分析における最初の出アフリカの基点であるが、残念なことにメソポタミアや地中海レバントほどには発掘が進んでおらず、いまだにシリアの最古の都市遺跡より古い遺跡の発見情報が届いてこない。紛争の多い地域ゆえに考古学の手もなかなか入り込めず、残念であるが、いずれ国が落ち着けば、必ずもっと古い文化の遺跡が見つかるはずである。


レバントに到達した最初の人類は旧人ネアンデルタールだった。
第二次つまり新人クロマニョンの出アフリカこそがわれわれホモサピエンスの最初の道だった。当時は緑地だった平坦なアラビア半島海岸線をとおり、彼らは西アジアアルサンジャンあたりに最初に入植。しかしここにまだ定住の痕跡はなく、すぐに彼らは三つの方角へ四散してゆくとされる。その中で、ペルシア湾北岸を北上した新人は、ペルシア湾からティグリス・ユーフラテス川を北上して地中海へ出ようとする。しかしそこにはすでにサフール洞窟などに住まうネアンデルタールがいたのだった。一部は彼らと混血し和合して南欧へ向かうが、ほとんどの新人はここから川をとってかえしたと考える説が欧州考古学では一般的。それがウバイド文化やシュメール文化になったのだろうか?



嘆きの門を越えて到達した西アジアのこの場所は、周囲を山岳に囲まれるため、農耕・放牧には最適ではなかったから、おそらく新人は、ひとつはインド洋に面した海岸を西へ向かいやがて南下してインド南部からインドシナ、やがてはそこから南太平洋の島々へ船で拡散した古モンゴロイドたちの大元となり、いまひとつはペルシア湾沿いに北上してたどり着く肥沃なティグリス・ユーフラテス流域をめざし、アッシリアやアナトリア文化人へとなっていったはずなのだが、そうするとメソポタミアの前にあった地中海側のもっと古い文化が南下してメソポタミアのシュメールへ移動していく経路とは逆向きになってしまう。


アフガンの新人たちはもうひとつ残された道となる山岳のはざまにある狭い緑地をかいくぐってカスピ海で出たあと、草原と海岸沿い二つの原始シルクロードを切り開きながらアジアへ拡散するのが整合的だったと見えるのである。ということはつまり、アフガン・イランの新人こそはわれわれアジア原種の祖だったことになるのである。

では果たして地中海のエジプトや南欧の文明を彼らは作った人々ではなかったのか?という非常に巨大な難問に突き当たることになるだろう。この問題を解明した学者はいまだに存在しない。欧州は欧州の、エジプトはエジプトのそれぞれの起源を中心にものを考えてきたために、西アジアというさらに古いはずの秘部を見逃してきた。最近になってようやく欧州考古学や人類学は西アジア人こそが自分たちの最古の先祖ではないかと検証を始めたのである。そしてそれは遺伝子による人類の出アフリカコースとまったく矛盾しない。だから今後も西アジアがメソポタミアをさかのぼるアフリカ以外のすべての人類分岐点として注目されるはずである。もしそこにウルやウルシュよりも古い都市などが見つかれば、これまでの四大文明は大きく書き換えられることは間違いないのである。

Y染色体遺伝子上あらゆるアフリカ以外の民族の分岐点は西アジア

そのために最も迷惑な存在がISの仲間でもあのビン・ラディンの作った組織タリバンとイスラム原理主義なのである。ゆえに中東よりも西アジア各国の安定を求める立場であり、オバマとイランの協調関係樹立は歓迎するものであるし、アフガンやパキスタンといった騎馬遊牧民族国家の西側自由主義との協調関係の一刻も早い実現を願うものである。これらスタン諸国こそはスキタイ文化の基礎を創った人々であり、やがてトルキスタンと融合し、フンやウイグル、匈奴、元帝国へと発展してゆくアジアとのハイブリッド民族の原型であるし、また欧州コーカソイドとも融合混血してその血脈を北アジアひいては新羅、あるいはまた極東日本にまで(北アジアの環境変動や中国との軋轢から)移動させていった可能性へと、それこそ無限の民族・遺伝子移動の可能性を秘めた人々だと考えているのである。

日本史から古代史研究に入った筆者が、なぜ世界史のはじまりに興味を抱くのか?それは西アジアの死生観や信仰や文化こそが日本の渡来の民「秦」の古い古い原点としてあった可能性を今こそ検証するがためである。

日本は旧世界の東の最果てにある。
筆者には、日本至上主義のような考えは毛頭ない。
むしろ日本こそが世界最新の文化・人種のふきだまりであると考えている。日本は新世界を除けば、世界で最も新しく、そして集約的な歴史の集散地である。
私たちは世界の新参者だ。

そう思うことこそが、偏らない、正しい分析の基盤になる。
そうすれば、かつての誤った皇国史観や帝国主義や植民地主義などの恣意によった日本民族最優秀のようなおごりたかぶった戦争愛好者にならない方法であるとすら考えている。
民族主義は常に偏狭で、視野の狭い、ヘイトしか生み出さなかった。われわれは差別意識を開放せねばならない。そうしないと地球も人類もその滅びのスピードは速まるばかりであり、人類はいつまでも野生のサルから脱皮できないままで滅亡するだろう。
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ただしこれはY染色体遺伝子分析による仮説であり、核DNA分析の結果がもっと充実してから出てくるだろう真の人類拡散経路が今後発表されることも念頭に置く必要がある。

アフガニスタンの歩搖のある金冠と鮮卑・慕容氏と日本
歩搖(ほよう)金冠のアフガニスタンと東アジア・日本の類似についてこれから書くので、先年発見された福岡船原古墳のこのブログの記事(2013年11月)を再掲載しておく。
元記事原文http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55971010.html
藤ノ木古墳の歩搖、あるいは朝鮮・中国・鮮卑などの歩搖金冠様式が、テュルク、あるいはスキタイ系騎馬民族によってもたらされる経路を知っておきたい。


「福岡県古賀市教育委員会などは24日、古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初め)の同市の船原(ふなばる)古墳遺物埋納坑で出土した馬具「金銅製歩揺付飾金具(ほようつきかざりかなぐ)」が国内に類例のない形状であることが分かったと発表した。」
西日本新聞2013年11月25日(最終更新 2013年11月25日 00時09分)
 
出土状況
つぶれていた
 
 
 
3Dスキャナーによる復元
 
 
●船原(ふなばる)古墳群(福岡県古賀市)
 
 
 
古賀市の遺跡http://www.city.koga.fukuoka.jp/guide/history/003.php
古賀市立歴史資料館
電話:092-944-6214 Eメール:bunkazai@city.koga.fukuoka.jp.
出土物
蛇行鉄器http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54375741.html
杏葉・甲http://lunabura.exblog.jp/20913640/
 
 
●馬具装着図
中国・鮮卑族の冠。木の枝を模し、歩くと枝葉が揺れることから歩揺冠(ほようかん)と呼ぶ。
五胡十六国・南北朝時代、鮮卑族が王権を形成し、それが引き継がれて中国貴族の冠となった。
http://curren.sakura.ne.jp/curren/curren/on_game/DOL/100104_2DOL.html

 歩揺付飾金具は、国内では沖ノ島(同県宗像市)や藤ノ木古墳などで単体は出土しているが、複数の金具がセットになったものはなかった。田中良之・九州大大学院教授(考古学)によると、これと似た構造は朝鮮半島の新羅で見つかっており、「船原古墳の埋葬者は新羅と独自のルートを持っていた豪族の可能性がある」と分析する。
http://www.nishinippon.co.jp/nlp/showbiz_news/article/54293


北朝鮮の発掘情報がないので、高句麗とのもっと深い交流資料がわかっていない。発掘次第では新羅より高句麗の可能性がある(Kawakatu)
 
 
【冠】より
… 漢文化の浸透する以前の匈奴,鮮卑などは頭部を覆ったり周囲を飾る金製の冠を用い,王権の象徴とした。4世紀以降の鮮卑,高句麗,百済,加羅,新羅では,以前の匈奴や鮮卑の制をうけつぎ,歩揺とよばれる金片をちりばめた金製の冠を用い,そのほかに羽根をつけたり樺を付した冠があった。とくに古新羅の墳墓からは,多くの金製の優品が発見されている。…
http://kotobank.jp/word/%E6%AD%A9%E6%8F%BA
 
 


●参考遺物
 
【中:Jin guan shi】
晋・南北朝|金銀・玉器>金冠飾(歩揺冠) 
西晋時代
1957年遼寧省北票県房身村晋墓出土
金製品
幅17.5cm 高さ14.5cm 重さ37.4g
遼寧省博物館蔵
南北朝時代に、北方遊牧民の鮮卑慕容部の人々が歩揺冠とよばれる冠を好んでいた。慕容という部族名も彼らがこの冠を好んで着用することから、まず「歩揺Jとよばれ、後に発音が訛って「慕容Jとなったという。以後、歩揺冠は北方民族に採り入れられ、貴族の冠となった。この金冠飾は、歩揺冠の立ち飾りである。これは葉と枝の茂る金の樹木のような形をして長方形の金板の上に立つ。金板の真中に凸稜があり、両側に透彫による雲文が配置され、周囲に突刺文がいっぱいめぐっている。金の樹木は七つの枝に分かれ、枝ごとに桃形の葉を吊す環が嵌められている。冠をかぶった人間が歩きだすと、樹木の枝は歩調と風に従って揺れはじめる。故に「歩揺Jと呼ばれていたのである。出所:『中国の金銀ガラス展』
http://abc0120.net/words/abc2007073105.html
http://abc0120.net/book/abc0011.html
 
船原古墳(5)
同じものが宮地嶽古墳に奉納されていた?
両古墳は同族だった?
http://lunabura.exblog.jp/20913640/
 


 
 

 
 
 
●筆者感想
古墳に付属する遺物埋納孔を持っていること自体が大豪族だったことを偲ばせる。
歩揺は北方系騎馬遊牧民の特徴的装飾である。
船原古墳は古賀市という立地、七世紀の古墳、沖ノ島に多く出る歩揺冠などから七世紀胸方君徳善を出す宗像一族の墓と推測する。
宗像氏は、胸や肩にいれずみがあり、これを魔よけとした海中に没して漁労採集した海の氏族の子孫であろう。
つまり倭人伝が言うところの「倭人」とはまさに彼らである。
宗像君徳善は七世紀天皇家に妃をさしだし、突然のように日本史に登場。
その大古墳宮地嶽古墳(歴代二位の長さの石室を持つ)からは窓に使うほどの大きさの西洋ガラス板など、特殊で絢爛豪華で、正倉院をしのぐような海洋交易の品々が。
沖ノ島遺跡からは国宝級遺物が大量に見つかっている。また宮地嶽古墳からは高句麗様式の王冠が出ており、宗像氏が近畿よりもかなり古くから北方アジア諸国とつきあっていたことは明白である。
 
福岡県宮地嶽神社古墳伝世品
高句麗様式の王冠はここからしか出ていない。近畿地方の王冠は百済様式で新しい。

北アフガニスタンのティリア・テペ王墓の6号墓の女王あるいは王妃らしき木郭墓の中から、新羅南部の慶州に特化するほどよく出てくる金銅製歩搖付金冠(ほようつききんかん。垂飾冠とも)にそっくりな金冠を発見してから、筆者は一週間随分わくわくしながら、その来し方を想像してきた。






新羅慶州北道金鈴塚古墳出土歩搖金冠




奈良県橿原市藤ノ木古墳出土金銅製歩搖付金冠レプリカ

アフガニスタンのティリヤ・テペ6号墓出土王冠は新羅慶州の歩搖付王冠に影響か?

「ティリヤ・テペは北アフガニスタン、アレクサンドロス大王が遠征したバクトラ(現バルフ)とアレクサンドリア・マルギアナ(現メルヴ)の中程に位置している。粒金細工の装身具が出土したサルマタイの住むクラスノダルやロストフよりも東南方にある。



『アフガニスタン遺跡と秘宝』は、出土品にはヘレニズム、パルチア、バクトリア、スキタイ、インド、中国、匈奴など、ユーラシア各地の文化の影響が見られる。1世紀のクシャン朝初期か大月氏の墓と見られる。なかで、シルクロードの各地に見られるものが、スキタイ系の黄金製品である。
スキタイは、黒海の北の沿岸にいた騎馬民族であった。紀元前7世紀頃、ギリシャ民族がこのあたりに植民地を開き、ふたつの民族の交流がはじまった。ギリシャは穀物や毛皮・奴隷を求め、スキタイは工芸品や葡萄・オリーブ油を求めた。スキタイの特色とされる金銀工芸品は、スキタイ貴族の要請に応えて植民地にいたギリシャの工人が作ったものであったといわれるという。」
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画像の多くもこのサイトから転載しました。


ティリア・テペはアレクサンドリアに近い。

歩搖(ほよう)とは先の記事にあるように、歩くと揺れるので歩搖と呼ばれる飾り(垂飾)であり、近世にはカンザシもそう呼ばれた装飾である。仏教では瓔珞(ようらく)や垂飾、あるいは髪飾りもあるが、歩搖のような木の葉的なちらちらと揺れる飾りはない。アフガニスタンなどの「スタン」が後につく国々はインドや中国に隣接するので、影響を与え、与えられがあったとは思える。中国の金冠でも歩搖状の垂飾飾りは仏教壁画などで見ることがある。アフガニスタンと言えばバーミアンの石像が有名だし、アルカイックスマイルのような形式も西から東へ伝わっている。それを伝えた人々と金冠歩搖を伝えた人々は、コースは違ったとしても同じスキタイ・テュルク系の騎馬遊牧民であることは間違いない。しかし上記引用文が言うギリシア工人の作とはあまり思えない細かな細工がこの王冠にはしてある。ギリシア以前、そこにはマケドニアという国家があり、ヴェルギナ、カサンドラ(カッサンドレイア)という都市から、やはり歩搖付の工芸品が出ている。ここが工人の起源地かも知れない。


アフガンからカスピ海を通り、ヒマラヤ山脈の北側を通るシルクロードのステップロード沿線には、代々多くの遊牧民族が国家を形成しており、東へ行くほどに東アジア人との混血度合いを深め、烏丸、鮮卑などと魏志東夷伝が書いた人々は、匈奴や東胡、月氏、烏桓、烏孫などの異民族とよく似た種族だったことだろう。現在の中国ウイグル自治区の人々がそうであるように、いまや彼らの多くがイスラームを信じるムスリムであり、遠い祖先はバクトリア地方など原西アジア民族だったことは確かであろう。


西アジア各国や旧ソ連からの独立国、また旧高句麗の範囲だった北朝鮮など、多くの地域が発掘困難なところであるため、歩搖装身具の発掘は勢い東アジアに偏ってしまっているが、将来スタン各国やほかの地域からも発見があるはずである。

とにかく現状で歩搖付の金冠・装飾品が集中するのは旧新羅の南部、慶州に偏っている。新羅とは言いながら、この地域はまだ新羅が国家として成立する以前(斯蘆 しろ時代)には、むしろ伽耶連合の影響の強い地域である。伽耶(加羅)はコスモポリタン地域で、さまざまの小国家が連合しており、異民族、外国人が同居していた。その最南部、日本海沿岸に金官伽耶があった。これが新羅によって滅ぼされて倭国に王族ご一党が逃れてくる。おそらく奈良の藤ノ木や新沢千塚や、福岡県古賀市の船原古墳、宗像の安曇族などの豪族に影響を与えたであろう。いやそれ以前から互いに交流関係にあったはずである。



沖ノ島歩搖付金銅遺物

沖ノ島から出ている遺物は、ほかにも新羅慶州の王墓の遺物とそっくりなものが多い。




歴史上、金の歩搖を大変愛した人物と言えば莫護跋(呉音:まくごば/もごばち、漢音:ばくこばつ/ぼこはつ、拼音:Mòhùbá 生没年不詳)である。
莫は魏時代の鮮卑(せんぴ)族の族長で、あまりに歩搖金冠を気に入りかぶったので名を「ほよう」の音をもじって慕容(ぼよう)と改名したと記録されている。

「景初2年(238年)、司馬懿の公孫淵討伐に功があって率義王を拝命され、棘城の北に建国する。
時に燕,代の地方では歩揺冠(歩くと揺れる冠)をかぶる者が多く、莫護跋はこれを見て気に入り、髪をまとめて歩揺冠をかぶったので、諸部は彼のことを歩揺と呼ぶようになり、その後音が訛って、慕容となった。
彼の死後は、息子の慕容木延が後を継いだ。」


後漢時代の鮮卑の版図


紀元前二世紀

この慕容氏からやがて有名な族長・慕容廆 ぼようかい Mù róng Wěi が登場する。鮮卑を憎み大単于(冒頓氏)を壊滅させ、東晋を滅ぼし、単于は鮮卑というよりも、ツングース語とテュルク語の混ざった言語を用いる匈奴あるいはモンゴル民族のことかも知れぬ。
先祖である鮮卑族・・・これもはっきりとはしない連合体だったようで、ツングース系モンゴル人も、あるいはテュルク系やスラブ系やもまじった騎馬民族連合体だったようで、その前は今の内モンゴルの東部にいた東胡族から分かれたようである。このテュルク系やスラブ系をたどっていくと、西へ西へとよく似た種族国家が代々、遊牧国家として記録がある。いわゆる烏丸・鮮卑も加えて烏孫、月氏、スキタイへたどっていける。そのコースがやはり紀元後4世紀くらいにフン族を生み出したであろうカスピ海周辺地域と、もっと西側のバルカン半島へと分かれてたどり着くことになる。バルカン半島はいうまでもなくトルコ=テュルク民族を含めたスラブ民族の故郷であり、カスピ海沿岸から東はスキタイ系「スタン」国家の地域である。この「スタン」はドイツ語ならシュタットであろう。英語ではシティとなっていった国、地域をさす言葉である。トルキスタンと言えば集団、民族の名になる。

つまりほぼ同類の騎馬遊牧民族である。人類がアフリカを出て最初の分岐点で彼らは民族を分化させていったが、バルカンではアナトリアという最古の国家を作り、アッシリアやエジプトと対等、それ以上の戦いをした最古の製鉄国家である。彼らの影響を対岸のギリシアやエジプトはもろにうけて、そこから製鉄、鉄剣のいくさが世界に拡散した。つまり王冠や歩搖愛好趣味も一緒に東西へ広がるのだ。その担い手が騎馬遊牧民である。特に東洋へは、アッシリアに敗れて分離したアナトリア製鉄・彫金工人が大量に逃げ込む。彼らは鹿と太陽の女神キュベレをステータスとしスタンダードという象徴にしていた人々だった。



だから鉄=シカ、そして太陽神信仰はこのときから中国、朝鮮へと伝わり日本の製鉄開始時代である弥生時代も始まるのである。新羅の金冠や中国の絵画に、それ以後シカの角型のものが多出しはじめる。これが日本の古墳時代に三重県松坂市の宝塚古墳などで出土するV字型威杖の原型であろう。


だから中国からの青銅器とほぼ同時に鉄も倭国へ入り、青銅器は早々に鉄器に切り替わるのが日本の有史以前金属器時代の特徴である。倭人もまた製鉄=鹿をステータスとした。鹿の皮袋は世界中で製鉄のふいごとなり、角は再生のステータスとなった。それが治金工人が金属を溶かし再生させる技術者としてのシンボルが鹿であり、農耕民の太陽神なのだ。
要するに最も遅く大陸文化がたどり着くのが日本であり、それはまた短期集中型で、完全な形で入ってきた。稲作もまったく同じである。最初から菜畑には江南の最新鋭の水田が作られている。あとから伝わることのそれがメリットである。代々の苦心惨憺があまりなしにいきなり文明が開花する。それは今、ようやく西欧科学と近代化を取り込もうとしている中国やインドやブラジルもまったく同じだ。いきなり短期間で西欧化し、しかしそのために無理と矛盾が生じる。70年かけて西欧化した現代日本は非常に運がよい。さらにそれによって生じた資源の枯渇も、日本は中国やらのようにはいきなり経験するはめにならなかったので、対応策をたくさんはぐくむことにも成功した。

一方、アフガン周辺は最古はパルティァの領土であり、彼らもパルティアン・ショットという独特の馬上から振り返りざま矢を打つ名手であった。つまり今のイランであるが、彼らも砂漠の貿易商でもあり、海のシンドバッドでもあり、スキタイ系?騎馬遊牧民をも含んでいたのだろう。
自主的に製作した上図を見れば、歩搖や金冠の伝播コースがシルクロードであることは一目瞭然である。正倉院までつながる絹の道は、それ以前にも鉄の道・たゆとう王冠の道だったのである。


歩搖は先に書いたように西欧にも伝わっている。
マケドニア、ギリシアの遺跡で、先に書いたヴェルギナやカッサンドレイアからも木の葉の形の揺れる装飾をつけた王冠が出る。



地中海で対面するからだが、それだけではない。形式こそ違うがやはり垂飾をたらした冠や腕輪はゲルマンから、西欧州に移動したケルトを通じて南欧へと拡散してゆき、フランスやイタリアや英国王や騎士たちの金の王冠・ティアラ・ブレスレットの趣味にも影響を与えるのではなかったか?




日本では東国茨城の三昧塚古墳からも歩搖付王冠が出土。まさにアフガンの金冠の歩搖にそっくりだ。

      金銅製馬形飾付冠。茨城県・三昧塚古墳、復元品
いわゆる日本にしかないリボン(蝶型装飾)を前面に配置した様式は藤ノ木と同じで、形も藤ノ木と同じ伽耶・慶州系「広帯二山式」である。歩搖は最下部に小さいがずらりと並ぶ。広帯二山式冠は倭国では5~6世紀雄略~継体大王の地方豪族へ下賜した冠形式の威信財なのだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56806224.html
茨城県地名と継体大王の関係は大阪府の茨木地名でつなぐことができる。











旧高句麗の領域である現在の中国北東部からも出土する。


同じく遼寧省房身遺跡出土の四角形の王冠にも。
この正方形は頭部にかぶられ、歩搖垂飾が王の顔面を囲むように揺れる。こうした中国王の四角い帽冠様式は、西欧の大学の学帽に取り込まれたか?


それとまったくそっくりさんは奈良県新沢千塚126号墳で出土した。しかもこれは禁制品で金銅製ではない。純粋のゴールドの板金である。新沢の被葬者はいったい誰なのか?5世紀関西では和歌山の岩橋千塚と並ぶ最古の群集墳であることはすでに書いた。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/57314860.html
推定されている氏族は、秦氏とともに伽耶から来たとされる漢(あや)氏である。

金工技術の来た道

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54676038.html


さて、これらの歩搖ブームの主がすべて慕容氏の祖先である鮮卑族であったかどうかだが、まず時代が遅すぎる気がする。東アジアへ拡散させたのは彼らでよいだろうが、そもそも歩搖そのものは莫が入った東胡あたりにすでにあったもので、それを莫は気に入ったのであるから、それ以前からすでに鮮卑か東胡の別族がモンゴルあたりへ持ち込んでいたのである。ということはやはりその大元は慕容氏以前の紀元前の遊牧民によるものであろう。それが世界の東西に中近東から拡散したのだ。そして慶州とそれらの地域をつなぐ遺跡遺物には、慶州の石積木郭墓というものがあるのである。


新羅の石積木郭墓

この墳墓形式もまたアフガニスタンにはあるのだ。



ここだけではない。
木郭墓は世界中に存在する。日本の九州にも近畿にも、ケルト世界にもである。




またこういう冠帽が新羅慶州にある。

これは日本の鎌足と百済王余豊璋の大織冠にそっくりである。



小さな装飾品もそっくり。








さて、福岡県古賀市の船原古墳は、ちょうど継体大王や磐井の君の時代に相当する古墳で、その主は継体や筑紫の君らともえにしのあった宗像氏の前身であるかとも思える安曇部の族長だったかと考えているが、金官伽耶とも百済とも同じ倭人系海洋民として安曇は長く半島を行き来し、全国に海外の文化や珍品を持っていったことで継体大王以前から九州や日本海、近畿の王家に寵愛された部族だった。それが継体が死んでしまうと安曇は部民となり大和王家から見放されてしまったのだ。それが数百年後、なぜか突如として復活したことがある。天武天皇壬申の乱以後のこと、宗像氏という海人族の族長がいきなり天武に妃をさしだせた。『日本書紀』記述の不思議はここに極まっている。

最後の一文はmaruhi !fan専用の「続きで」よんでください。
九州国博黄金のアフガニスタン関連記事にエントリーしたので、あまり過激なことはここには書けませんから。^^;

突厥・スキタイ・契丹などにはポール墳墓という共通の幼児埋葬風習があることは以前書いた。
 

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50876790.html?type=folderlist
これをキルギス・フール(キルギス人の墓)と言うが、今回のは碑文である。
 
 
前回発見された場所は同じモンゴルでもずっと西部。今回は東部のはじっこのドンゴイ。
なにがわれわれにとって重要なのかと言うと、契丹・突厥・スキタイなどトルキッシュ遊牧民のバイカル湖遺伝子が重要なのだ。つまり日本人の起源に遊牧民がかかわったとするなら、その痕跡が極東に必要なのだ。



前方後円墳の源流はスキタイ・匈奴・高句麗の積石塚にあり ノイン・ウラ古墳群
◆四隅突出型墳丘墓と高句麗積石塚
内モンゴルウランバートル オラーン・オーシング遺跡に見られる「1号ヘレクスルKh-1」
 
「日本海沿岸の出雲や越を中心に、弥生時代から古墳時代にかけて見られる四隅突出(しぐうとっしゅつ)墳も、朝鮮半島をはじめとして、東アジア古墳文化の流れの中でとらえねばならない。このことは四隅突出墳が発見された当初から言われいたことでもあった。
 四隅突出墳の源流は高句麗の積石塚にある。」
小林道憲 『古代日本海文明交流圏 ユーラシアの文明変動の中で』 世界思想社 2006
 
小林の意見の底流にあるのは、NHKと森浩一が1994年に出版と番組化した『考古紀行 騎馬民族の道はるか―高句麗古墳がいま語るもの 』や、全浩天『前方後円墳の源流』未来社 1991などがある。
http://www.amazon.co.jp/%E8%80%83%E5%8F%A4%E7%B4%80%E8%A1%8C-%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%81%AE%E9%81%93%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%8B%E2%80%95%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%BE%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE-%E6%A3%AE-%E6%B5%A9%E4%B8%80/dp/4140801492

http://www.miraisha.co.jp/np/isbn/9784624111281
 
 
◆前方後円墳、前方後方墳の源流はスキタイ系クルガン墓にあり
 
内蒙古自治区和林格爾後漢墓

「奈良県桜井市纏向遺跡の勝山古墳、纒向石塚遺跡(弥生墳丘墓の意味だろう Kawa)、ホケノ山古墳、巻野内石塚遺跡(同じく)などは、三世紀初頭から中ごろにかけて築造されたと思われる日本最古の(プレ Kawa)前方後円墳であるが、これらの形式とで残は高句麗起源と考えられる」(小林)
「高句麗人は、現在の中国東北地方に住んでいた夫余族の分かれであり、もとは農耕も行っていた騎馬遊牧民族であった。高句麗系の積石塚の源流も、匈奴の営んだ積石塚を経て、北方ユーラシアのエニセイ川流域あたりのスキタイ系騎馬遊牧民族の墳墓に求められる。また前方後円型墳墓も、その源流は遠くユーラシアの草原の民に求めることができる。。例えば匈奴が営んだ紀元前後百年ほどにわたるノイン・ウラ古墳群には、前方後方型であるが、表面には石が敷かれた墳丘がある。さらに、それは、アルタイ地方から南ロシアにかけて見られるスキタイ系クルガンに、その源流を持つと思われる。」(同 小林)
 
ウランバートルの北方120km、前方後方形のノイン・ウラ24号墳
墓室が地下に位置する

 
これら森や小林の意見を画像入りで紹介しているサイトがいくつかある。
前方後円墳の起源 http://www.geocities.jp/taru638/page008.html
新井直樹のホームページhttp://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/pic1209.htm
http://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/pic1197.htm
 
さらに源流を遡り、バルカン半島トラキア(トルコの前身、アナトリア地方)に求めるサイト
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Afterlife/04/0400.html
参考ノイン・ウラ古墳の調査報告
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/.../1/jor021_1_90.pdf
 
 
 
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http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Afterlife/04/img/04fig18s_a.gif
コプリンカ,第13墳墓 Koprinka,tumulus no.3
トラキアの墳墓
 
 
これまで筆者が考えてきた前方後円墳の源流は、日本の広瀬和雄を初めとする大和至上主義者たちの「前方後円墳国家」にあるような、大和中心的な、一律的な、古墳形式の大和の許可制とか、それに伴う神獣鏡の分配などといった、あたかも弥生時代末期から大和が全国を席巻していたかのような大和至上主義に始まる了見の狭い見方ではなく、前方後円墳の発生も、国家の発生も、東アジア及び西アジアの動向の影響を受けながら、全地球的な、世界史的な人間行動学にみあう、動きのなかのひとつの移動とみて、九州には九州独自の古墳の始まり、出雲にも出雲の始まり、丹後や北陸にはまた独自の始まりがあり、大和もその北陸、丹後、若狭の高句麗型積石古墳の影響を受けた日本海文化の終着点の一つに過ぎないことを認識せねばならないのである。
 
神獣鏡も古墳形式も、決して大和が強大で配布・許容したのではなく、それはむしろ大和が地域の特産物である翡翠や輝石などをほしいがために、物々交換の道具として発明された渡来技術だったのであり、つまり大和には地方が持っている名品に等しいだけの価値ある天然特産物も、国産技術もなかった・・・だから輸入された海外技術によるステータス作りとして神獣鏡を作り始めたのである。プアだったから貧しいなりの創意工夫であった。
 
古墳の様式である横穴式石室の派生が半島経由でまず九州ではじまり、その伝播コースが瀬戸内航路を選んできたのは、途中にある吉備王国の中継文化という面が存在する。それまでの大和の前方後円墳の石室は密閉型の竪穴式であり、これは単なる穴を掘ってそこに棺をはめ込んだだけの狭小空間であって、神話にあるような黄泉の胎内巡りを空想させる空間とはとても言えない。玄室や玄道や開閉式入り口を持った九州式の横穴式石室だからこそ考え付く神話であると言える。ということはそれが大和で一般的になった6世紀を、イザナミ神話は遡れないことの証明にもなるだろう。
 
この横穴式石室がいつ九州にやってきたかというと、それは福岡県鋤崎古墳・老司古墳、佐賀県谷口古墳などの4世紀後半である。この様式を遡れば先のスキタイ系クルガン墓やトラキアの前方後円型墳墓にたどり着くのだろうか?どうやら画で見る限りそうではなさそうである。匈奴のノイン・ウラ古墳の石室は墳丘の地下深くに最初に掘り下げられた地下にある。これは大和の墳頂に竪穴をうがって棺をはめ込むやり方ともまた違っている。

匈奴やスキタイの様式が、高句麗を経て海を渡る間に、大和の竪穴式石室に変化したとするならば、記紀の言う出雲の土師氏たちの四隅突出が持っていた墳頂に穴を掘る高句麗式の方形墓様式の影響があったのかも知れない。ノイン・ウラで出土している埋蔵物の装飾品などは高句麗の装飾に共通する、東北アジア的なものが多いようだ。
 
「最後に、 著者は 「鈴記』 においてノイン ・ ウラ古墳群の出土品の. 特色を、 つぎのように結論する。 川 出土の遺品は、 中國の 漢代とくに前漢の中期から王奏時代に. わたる所産とみとめられるものが大部分を 占める」
 
「さらに墓室内に安置された木棺についても、 樂浪古墳の木棺との同類性を指摘したのち、 ノイン - ウラ古墳の構造を要約して、 つぎのようにいう。 ,墓室は基本的には、 中國の戦國時代以來の木室境や樂浪郡の漢代木室境とほぼおなじ形式で、 地下ふかくうがたれた坑内に木材で墓室を構築し、 前方には出入のための坑道をっくり、 坑のうえを封土でおおうたものである。 ただし封土が載頭方錐状で、 前方後方墳的外形を呈し、 その封土の外面が礫石でおおわれている. また室内の装飾が壁吉でなく、 あたかもいまの蒙古人のテントの内部のように、下に敷物をしき、 周壁を布帛で飾っ ているなどは、 中國のそれと相違する点であると。封土の外面が礫石でおおわれていたり、 御室内の装飾が蒙古包の内部を模していることなどは、 さきに筆者 (田村) らの調査した契丹の帝王陵である慶陵とも相似していることをおもいだす。 著者も注意しているように、 これがアルタイやパイカル州の遺跡におけるものと同似だとすれば、 基本的には中國の木室墳の形式によりながら権、 その半面には北アジ ア遊牧民の墳墓の様式をもとりいれていたものと考えられるであろう。」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=1MvERcq8gaoJ&p=%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%A9%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4%E5%87%BA%E5%9C%9F%E5%93%81&u=repository.kulib.kyoto-u.ac.jp%2Fdspace%2Fbitstream%2F2433%2F152599%2F1%2Fjor021_1_90.pdf#search='%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%A9%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4%E5%87%BA%E5%9C%9F%E5%93%81'
 
 
つまり匈奴の墳墓は西のスキタイよりも、より中国漢の様式や埋蔵品に近い嗜好性をみせていて、その始まりが西のアナトリアやカスピ海沿岸のトルキスタンやスキタイに始まったとしても、騎馬民族が東へ移動する間に、中国や東アジア文化の影響を受けて微妙に変形した、それが高句麗でさらに半島的になって、日本海をダイレクトに渡って福井・富山湾~琵琶湖~大和に入ったことになるのである。それは同時期に九州に入ってきた南朝鮮的な横穴式石室ではなかったということである。
 
ということは日本の竪穴式が持っている天に近いところに祖霊を置く祭祀様式、埋葬様式は高句麗系であり、本来は漢の地下埋葬だったことがわかる。そうなったのはモンゴル草原から高句麗に入るときに夫余族の考え方が、同じ遊牧民としての匈奴やスキタイに近いために先祖がえりしたとも考えられる。
 
 
 
つまりこれを列島にやってくる文化全体として捉えれば、九州と近畿では最初からやってくるルートも持ってきた人種も違うことになる。大和の最新技術は最初から日本海経由の、つまりあの継体大王や息長氏の得意なコースでやってくいる。卑弥呼の時代からそでにそうである。そして九州のようには、直接、漢と顔を合わせない、北魏や燕や高句麗を仲介とするつきあいが続いたということである。三世紀後半になって、ようやく公孫氏朝鮮が倒れることで、畿内地方政権は漢のサロンに突如として登場し、耳目を集め、あたかも公孫氏の南方系鬼道と神獣鏡のまじないをまねしたかのような要求で、魏王をとまどわせ、面白がらせることで、かえって、運の良いことに極東で最も有名な「変わり者国家」として世界の「花モノ」「興味深い時代遅れな」「前世紀の遺物国家」として興味本位に語られ始めることとなった。それはまさに中国神話の蓬莱扶桑の世界に見えたのだった。道化者邪馬台国。朝貢外交とはこういうものである。弱いものは道化を演じる。それは太宰治が書いた『人間失格』を彷彿とさせる。

●パルティアン・ショット
「パルティア(漢語で安息(アスカ)国。のちにササン朝ペルシア)は遊牧民が政権中核を構成した国家であり、弓と馬の扱いに秀でていた。そのため軍隊の主力にも軽装騎兵を採用しており、機動力を生かした戦いを得意としていた。軽装騎兵は槍や剣ではなく弓で武装し、一定の距離を保ち矢を放って敵を苦しめた。


こうした軽装騎兵を効果的に活用するためパルティアは接近した白兵戦につながる会戦をできるだけ避け、戦闘になっても会戦で決着をつけようとはせずにすぐに退却した。退却するパルティア軍は追撃する敵に逃げながら矢を放ち、その損害に敵が浮き足立ったり高速移動に敵の戦列が対応できずに戦闘隊形が乱れると、取って返して再び攻撃した。
こうした戦法は特にパルティア独自のものではなく、スキタイ、匈奴、モンゴル帝国といった遊牧国家の戦争に共通したものであるが、ヨーロッパに古典文明を伝えたローマ帝国が本格的に対峙した遊牧民勢力がパルティアだったため、ヨーロッパ人にとって遊牧民の戦法は、パルティア的なものとして記憶されるようになった。 このようなパルティアの戦い方から逃げながら馬上から振り返りざまに打つ矢のことを「パルティアンショット」と呼び、現代では転じて「捨てぜりふ」の意味になった。こうした馬上の弓術は、パルティアの後継政権であるサーサーン朝の帝王の狩猟図像などに記録されているものを、今日でも見ることができる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88

●最古の騎射派生地はウクライナ地方のスキタイから
「スキタイ(Scythae, Skythai, 希: Σκύθαι)は紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族および遊牧国家。スキュタイ、スキュティア人、スキティア人ともいい、その土地をスキュティア、スキティアと呼ぶ。「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称でもあり、スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続けた。」

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          パルティアン・ショット


●騎射
「騎射は世界史的にはスキタイ文化(紀元前8世紀~紀元前3世紀)の初期から存在し、この疾走する馬上から矢を射るという特異性から古代ギリシア人はケンタウロスを想像したと考えられている。」

    (中略)
「日本において馬が登場するのは4世紀以降であり、考古学的には6世紀の古墳から挂甲、直刀、鏃、馬具が一括して出土するようになる。文献においては『日本書紀』の雄略天皇記で騎射の記述がある。雄略天皇が即位する前(456年)、有力な皇位継承候補だった市辺押磐皇子を狩猟に誘い、天皇が「弓を彎き(ひきまかな)ひ馬を驟せ(はせ)」偽って皇子を射殺したという。これが日本での騎射の初見であると思われる[1]。雄略天皇は5世紀の人物であるので、騎兵の成立時期にすでに騎射の技術があったことを示している。」




「騎射(きしゃ)は、
紀元前8世紀頃にスキタイ人により始められる。騎馬遊牧民の彼らは牧草を求め常に移動しながら生活、また屢々馬に跨がり他民族と闘っていたが、彼らのこういった生活文化の中で自然的必要性から騎射は開発・発展して来たものと考えられる。騎射はすぐに中央アジアの遊牧民の間に波及し、フン人、アヴァール人、マジャル人など同様の騎馬遊牧民に次々と取り入れられ、後に[[モンゴル人]にも及び、古代世界に普及して行った。

●騎射三物
「騎射三物(きしゃみつもの)とは馬上の弓術、犬追物・笠懸・流鏑馬を総称して言ったもの。元々は武者が騎乗から敵を射抜くための稽古法で、それぞれ平安時代〜鎌倉時代に成立する。武士の中でも騎乗が許されるのは一部の武士のみということもあり、馬上の弓術『騎射』は武芸の中でも最高位のものとされ、中世の武士達は武芸練達のために様々な稽古をした。」
△犬追物 いぬおうもの
△笠懸 かさがけ
△流鏑馬 やぶさめ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E5%B0%84%E4%B8%89%E7%89%A9

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           流鏑馬
●弓馬兵
「移動中の馬上に於ける弓射は両手を必要とするため、騎手は高度な馬術スキルを要求され、またそれに対応する馬の訓練もしなければならないため、必然的に弓騎兵は馬術に優れ鞍や鐙などのより進んだ馬具を持つ遊牧民によって構成された。スキタイ人、サルマタイ人、フン族、マジャール人、トルコ人、モンゴル人の弓騎兵が有名で、これらの部族との戦いで大きい損害を受けていた漢民族、ローマ人なども弓騎兵の編制及び雇い入れを行っていた。趙の武霊王の胡服騎射(騎馬民族風の服を着て、騎射を行う)は有名である。

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※日本の武道用の馬は遺伝子追跡では、朝鮮半島から輸入した中型馬が起源である。それ以前の日本原産種は皆小型馬ゆえに騎馬には不向きであった。半島から中型馬騎乗術とともにそれまでに東アジアのステップロードを伝来していた弓馬術(西欧が言うパルティアン・ショットなど)も到来したと考えてほぼ間違いあるまい。


(日本原種の小型馬(トカラ馬・日向馬など)は生物移動学的な南方経由、中型馬(アラブ種?)はその後の戦略的な北方輸入である。大型馬(サラブ種)は軍馬・競馬用で明治以降の輸入。)


また日本の地形状、日本で騎馬戦がやりやすかったのはまずは蝦夷の騎馬が有名だった東北地方、やがて水田よりも畑に適していた関東の台地に農耕用役馬が入った。これが関東武士団にとって至便であったために、坂東武者といえば騎馬軍団が定着。戦国時代までにそれまで古代から高句麗系などの馬牧を持っていた諏訪や阿蘇の「生贄用」の馬育成技術も役馬や騎馬戦用に変化したかと思える。諏訪の馬牧技術はやがて隣国の甲斐武田氏によって簒奪され、武田騎馬軍団の噂となった。しかし実際に武田騎馬郡がそれほど多くの馬を使った騎馬軍団を持っていたかどうかは、実は不明である。絵画では確かにそのような描かれ方をしてはいるが、実際に織田信長と対戦した長篠の現場には馬遺骨の痕跡がなく、同時に織田鉄砲隊が放ったはずの鉄砲弾丸の痕跡も少ない。どうやら日本人は源平以降の軍記物の講談話をあまりにも信じ込まされてきたのではないかと最新考古学は警鐘を鳴らしている按配である。
(もっとも馬遺体は食用に、弾丸は再生用に、それぞれ再利用されたために痕跡がないのではないかと筆者などは考えるものである。)


◆スキタイ・突厥の馬術は朝鮮経由で飛鳥末期の天武朝日本へ
アスカはパルティアから?
参考になるサイト
●流鏑馬の歴史的派生の信頼できるもの
大日本弓馬会」武田流弓馬道
「三韓は大和朝廷に臣事、入貢の礼をとることになりますが・・・中略
こうした我が国の内乱状態(蘇我・物部宗教戦争)を知った新羅国(辰韓)は好期到来とばかりに兵を挙げ、まず高麗国に侵攻しこれを従え、その余勢をかり百済国に攻め入り、平城、漢城を占領するという擧にでたのです。このため百済、任那国は大和朝廷に援軍要請の書を送りましたが、肝心の国内が紛争中であったために僅かに九州の兵の一部や、寄せ集めの兵を派遣するのが精一杯の状態でした。その結果、壊滅的な敗北を喫したのです。そのような結果に心を痛めた天皇は、かつて三韓平定に苦心された神功皇后、応神天皇の二柱神を豊前国宇佐の地(現在の宇佐八幡宮所在地)に祀り、天下泰平、五穀豊穣を祈願すると共に、その神前に於いて馬上から三韓に准えて三個の的を射さしめたのが『流鏑馬神事』の起源となったと伝えられています。
奈良時代以前に見られる歴代天皇の中で流鏑馬神事に力を入れられたと思われるのは、冒頭に記した『日本書紀』による天武天皇で、長柄社に於ける「馬的射」であり、また、奈良時代に入ってからの流鏑馬は中々盛んに行われたようで、流鏑馬神事が全国に広がったものと思われます。
さらに、信濃国諏訪大社に関する古代からの伝説、祭事などを記述した『諏訪大明神絵詞』(群書類従本)などの随所に流鏑馬に就いての記述が見られます。延暦二十年(801年)の坂上田村麻呂を征夷大将軍とした東夷征伐軍に参加した信濃諏訪神領の官兵が、奥州の地で流鏑馬の妙技を披露し、邪賊退治のために全軍の士気を鼓舞したという話などを伝えています。」
http://www.yabusame.or.jp/html/t_yabusame_J.html

ヒンドゥー教の神々についての一覧ときれいな画像はこのサイトがすでにあり、数ある中でも一覧性ではここが群を抜いている。
http://ganga-jal.com/hindu-god.html

中国・チベット・ネパール・ベトナムなど、インドに最寄のアジア国家で、それぞれの仏教にヒンドゥーの神々の姿・形・性格は習合していることは、誰でもよくご存知のことと思う。

日本にも動物の姿の神々やガルーダ(カルラ)・不動明王・牛の乗った大地母神など実にさまざまの影響がある。日本の中央政界ヤマトの場合、多くは百済経由が最初で、次第に唐から直接入ってきた。
これはアジアだけのことでもなくて、西欧社会へもある程度の影響があった。
要するに国によって取捨選択に好みがある。
中国のフィルターを通して持ち込まれる朝鮮半島と日本では、基層の部分で中国の道教と習合した「密教」の神として入ってきて、国内で選別が起きている。
では理屈はともかく本場インドの美術品で源流を見ておこう。


クリシュナー神は青い体で描かれる。
また腕をいくつも持つ魔王ラーバナも蒼い。
青は魔界であり、死者を意味している。その源流がここにある。
それは静脈の色であり、黄泉の住人であるという観念は記紀の神々にも存在する。
赤鬼・青鬼などもそこから生まれてくる。
腕が多いということは技術者なのであり、道具を持つ手なので、阿修羅などもまったく同じに民衆が指示した。

ケートゥは蛇体で、西欧の女悪魔に等しいし、西王母も蛇体である。

悪魔は総称して「アスラ」と言う。
聖なる重要な神々は九つの惑星になぞらえられる。
九つという数字が重要なのだろう。それは九つの太陽などの射日神話にも反映されている。
シヴァ神の半跏像は弥勒を生み出す。


最高神ブラフマンは仏教にも取り入れられており、東アジアでは梵天となっている。
こうしたヒンドゥーの、非常に人類初源的な部分(愛欲・欲望・戦争・争い・いざこざ・混沌)をそのまま形象化した神々は、とりあえず民衆にはわかりやすく、すぐに共感を得たことだろう。それが宗教の体系化という国家事業の中でのちに格付け・仕分けされ淘汰され、権威化と美化と崇高さを増した表現に画一化してゆくのは世界中同じである。

宗教といえど国家に抱えてもらわねば生き残れないものである。
いかに国家に媚を売るかが本質に必ず隠されている。
当然、人気の高い神だけが日本中央では淘汰された。しかしながら地方へはそれがダイレクトに入ってくることが多い。つまり多くは海人族の舟貿易の産物であり、中央がまだ脆弱だった時代までには、たいがいが対外交易で入り込んできた。だから地方へ行くと、中央にはないような神が、もとの姿で残っていることが多い。

先の記事で古墳に描かれた蓬髪の、剣を持った持衰のような男など、その構図はどう見ても不動明王に近い。原初、神は魔よけであり、同時に災いを呼ぶ災厄でもあった。つまり自然神・災害神=祟る神なのである。祟るから逆にそれを魔よけにする。毒をもって毒を制すであろう。

筆者はすべての人類の信仰の大元にあるのは西域であろうと考えている。スキタイという騎馬を手繰る民族の大移動の範囲こそが、こうした文化の拡販とリンクしている。地上では馬とラクダこそが船であった。海人の船と馬こそは聖なる、繁栄の象徴である。しかるに古墳の画像、埴輪の画像に頻繁に船と馬が登場するのである。
インドの神々は、仏教を生み出す源流にあり、そこに南朝で神仙思想が合体したのが中国密教であろう。そしてインドの神々に影響を与えたのがスキタイやアッシリアやアナトリアやのいわゆる西域・中近東から生まれた人類の出アフリカ以後最初の思想である。東西世界の観念が互いに往来したことは間違いないことだが、そのどのルートを使っても必ず西域は通過せねばならなかった。いや、むしろ中近東の古代の繁栄は、その位置的なところにあるのだ。すべての物流と精神性がここを通過した。ラクダと馬と船がここから出発し、東西を行き来するのである。

日本人の海外からの文化の取り込み方は自由自在で気ままで、それほど源流の規範やマニュアル、神格規定にとらわれないところが顕著だ。


結局、やってきた人種が世界一雑多だったから、取り込まれた神々の解釈もばらばらで、それが面白いことにひとつにまとまろうとせず、ばらばらがばらばらのまま、それもこれも全部許容し、習合し、なんでもありなのであるが、それがまさに現代東京という混沌を表しているのが面白い。

規則にまじめな人など明治以前は侍になるしかないのが日本という島国だった。明治以降、西欧式政治や法律がそれをがんじがらめにしはじめる。現代などすでに行き着くところまできていて、あきれるほどの世界に冠たる規範にやかましい国として、先進国からではなく、混沌のままの途上国から尊崇を受けている。しかし、そもそもそういう清潔な、規律正しい社会こそが、日本人を脆弱で応力のない国民に仕立て上げてきた。自転車は車道を走れと厳しく取り締まれば、次に増えるのは自転車の死亡事故であることはわかりきっている。戦後は自転車専用道を歩道に作って結果歩行者を危うくしてしまった。そうしたなんでも規制、なんでも抑制の考え方こそが全体主義を呼び覚ますのであるまいか?
一事が万事は官庁の大好きな思想であろうが、そこに海人族の融通無碍など微塵もみられない。日本人はすでに世界で最もイヌ化した、しつけをよく護る国民である。
わがままものはスサノオにされて、黄泉の国に隔離されるのが日本である。

スキタイ番外編・「東胡強くして月氏盛んなり」
スキタイ研究に欠かせないのが北方三大勢力だった東胡、月氏、匈奴の区別。
匈奴の首長は「単于(ぜんう)」である。
筆者はこの単于を字のままに解釈して「ひとりでも行く」、つまり英雄を指す言葉だと思っている。
しかし、この当時、匈奴の単于「頭曼(トゥマン)」という人物のトゥマンとはテュルク語のテュメンを中国人が表記したものだという説もある。
このテュメンというペルシャ的な名前は、八世紀の突厥(とっけつ)碑文や六世紀突厥初代・可汗がそれに相当する姓ではないかとも言われてはいる。
トゥマンには冒頓という太子がいた。いわゆる冒頓単于(ぼくとつぜんう)のことである。
冒頓は月氏の人質となっている。それは実は父親である頭曼が考えた戦略だった。冒頓は先妻の子、頭曼は後妻を娶りその子を太子にしたかったのである。それで冒頓を人質にしている間に月氏を攻めれば、月氏はは太子を殺すだろうと・・・そう考えたのだと言う。(林俊雄)
しかし賢い冒頓は馬を盗んで逃亡してしまう。計画はおじゃんになった。
対面上、それを褒めないわけにはいかない頭曼は、仕方なく彼を1万騎の連隊長にした。
これが大間違いで、冒頓はその連隊を鍛えに鍛え上げてついに父親を討ってしまう。こうして英雄冒頓単于が歴史に登場する。どこかしら武田信玄のような話である。それは当然、日本の軍記物のベースはおおよそが中国の故事から本歌取りしてある。つまり信玄の父殺しは虚像の可能性が高い。^^
冒頓は鏑矢で父を撃つ。
かぶら矢とは切っ先の矢じりが二股に分かれた矢である。
東胡王は父単于の死を聞いて、無理難題を冒頓に持ちかける。頭曼自慢の駿馬を欲しいと言って来た。
周囲の大反対を抑えて、冒頓は快く馬を渡してしまう。
東胡王は増長し、今度は単于の妻・・・つまり冒頓の母を欲しいと言って来た。ところが冒頓、これまた惜しむことなく差し出してしまう。
当然、相手は弱腰とふんだ東胡王はついに侵入を開始した。
すると馬や母のときに冒頓が言ったように、家臣はみな「どうせ土地は惜しくないからあげましょう」と口にした。そのとたん冒頓は激変し「土地は国の基本である。どうして与えられようか!!」と毅然として、国中を駆け回り、東胡を撃破してしまったと言う。
こうして冒頓単于と匈奴はその勢いで西の月氏をも打ち破り、黄河の南を併合する。
この月氏のいた場所は現在の新疆ウイグル自治区にあたり、楼蘭からカザフスタン一帯は月氏の領分だった。
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パジリク古墳の男女遺骸(横臥屈葬)と月氏国王と姫の絵。
風俗をよく見て!ズボンはいています。ところがスキタイの息子だったヘラクレスはズボンをはいていない。ライオンの毛皮を頭から被っていると書かれた。つまりギリシャ人が見たスキタイの曲解であることがわかるので、ヘロドトスの記述はだいたい聞きかじりだったと見てよい。
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その後も冒頓の子、老上単于は月氏を攻め続け、ついに王を殺してその頭骸骨を酒盃にしたのだという。
さて、これまた信長のエピソードの大元がここにある。要するに中世以降の軍記はみなコピーである。
月氏はその後西へ移動。バクトリア地方に移住する。この主力を「大月氏国」と呼ぶ。
中近東に仏教文化を持ち込んだのは、そこを支配した大月氏国の影響である。
アフガニスタン北部の爆破された岩窟仏像も大月氏国の一部族・クシャンが造った。
このクシャンは1世紀以降、大月氏に代わってここを治めた。パジリク古墳は月氏の墓であるという説がある。
さてその後冒頓は遊牧国家匈奴を強大にしていくが、ついに中国であの劉邦と対決することになるのである。項羽を倒した漢帝国に立ち向かってきたのである。
騎馬軍団・匈奴は漢の歩兵を圧倒し、劉邦は慌てて和親条約を結んだ。これが司馬遷が書いた漢帝国が匈奴に対し対等な立場を許してしまう露払い戦争だった。
「東胡強くして月氏盛んなり」とは司馬遷の史記の記述である。

くれぐれも申し上げるが故・江上波男氏の著名な著作のタイトルとなった「騎馬民族」と、この記事の「騎馬遊牧民」には使用上の注意が必要である。
スキタイ・・・ユーラシア大陸北アジアのステップ地帯に広く住み、馬を用いて遊牧する騎馬遊牧民。
紀元前8~前7世紀に歴史に登場。その出現記録はカフカス、黒海北方の草原地帯及び西アジアである。彼らときわめて類似する民族が中央アジアからモンゴル・中国北部までも含めた東方文化もスキタイ系と呼ばれることが多い。カフカス・黒海北方のスキタイを「狭義のスキタイ」、モンゴル・中国北部スキタイ系までを含めて「広義のスキタイ」と呼んでいる(林俊雄)。
スキタイは極めて高い芸術性を持つ装飾品の数々を残しており、彼らが野蛮・破壊者としてきたこれまでの一方的な決め付け方はすでに見直されている。その要素には東西の幅広い各文化との触れ合いがあったことがしのばれ、騎馬による移動者の、舟の民に匹敵する大陸交流がしのばれる。つまりスキタイを侵略者と見た場合にはどうしても騎馬民族侵略説が生まれてきたのであるが、今では、それは間違っていた、文化交流も存在し、騎馬遊牧民が決して侵略するのみの西欧的民族ではなかったというのが常識となっている。


中国の前3世紀に彼らは「匈奴(きょうど)」として歴史に登場しているが、しかしその風習・見掛けはあまりにもスキタイに似ており、中国から見れば彼らは蛮族、イテキであり敵国であったので、おそらく同じ集団、あるいは非常に近いスキタイ系だと思われている。
広い目で見ると、彼らは地球の気候によって遊牧に最適な場所を求めて、国境に関わらず大陸を南下、北上、東西移動していたに過ぎない。そして人口・経済力の上では漢帝国にはおよびもしないのに、なぜか漢は匈奴を対等とした。

文字は持たず、自ら残した歴史記録もない。紀元後6世紀に入りようやく文字を持つ。しかし彼らの記録は東西の哲学的人物・・・司馬遷とヘロドトス(幸いなことに二人ともに古今きっての名文家)によって記録された。その実態は


①農耕を行わない生粋の遊牧民。
②家畜とともに移動し、定住する町・集落は持たない。(海人と非常に類似する)
③弓矢に優れ、男子は全員騎馬戦士。
④機動性に富んだ戦術で、現実的、即物的。敗北を認めるとすぐび撤退する。(無駄な深追いはしない)
これらの特性はいわゆる定住農耕文化とはまったく正反対である。
特に城郭を持たない、町がない、基地がないということは定住農作民にはまったく考えられない生活だったことが彼らを異民族・イテキにしていった。
大陸的城郭を持たない点は確かに日本もそうである。
そして日本人の中にあるバイカル湖民族の北方系の血脈は、彼らも媒体者だった可能性は或る。しかし、日本人の北方系遺伝子の来訪は非常に古く、1万年もさかのぼる。つまりスキタイや匈奴になってゆく人々の遺伝子が一旦中国北方や半島北方に入り、そこから南下してやってきたわけで、騎馬民族説のような3~4世紀にはそのような移動の証拠は一切ない。
以上参考文献 林俊雄『興亡の世界史 スキタイと匈奴 遊牧の文明』講談社 2007

このスキタイシリーズは、騎馬遊牧民族の歴史とフン族、そしてその世界的移動と時期、それによって融合して伝播した東西文化、そして最後にそこから日本との共通点があるかどうかまで連続させるつもりである。おつきあいのほどを。なお、記事公開は必ずしも連続するわけではなく、あいだにほかのエピソードを入れながら、気分を変えながら継続させて行くのでこれまたよろしく。極力ビジュアルで分かりやすくして参りたい。

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さて、今までのところ”スキタイ系騎馬遊牧民”が”万が一””日本に来た”とすれば、時代はせいぜい紀元前8世紀以降と考えざるを得なくなる。あくまでスキタイとしてはである。

日本人のY染色体及びDNA遺伝子に含まれる北方系C3遺伝子が来訪したのは、2万年前のまだ海が凍っていた時代だ。はるか昔の話。スキタイのいた前8世紀以降時代とは、まったく時間軸を異とした”別世界の出来事”なのである。これではのっけから騎馬民族来訪説などは成り立ちようがない。
だから、いずれ日本との類似に言及するとしても、そこには人間の来訪とか、騎馬民族来訪による倭王時代5世紀前後の国家統一とか、日本人の先祖とかいう次元にはつながりそうにはないと先に申し上げておく。ただし文化が縄文時代・弥生時代・奈良時代に来た可能性は高い。

そして、スキタイは大陸世界の文化の運び屋であったことは事実である。
これは常に日本人起源を考える上でネックになることだが、縄文時代以後、大陸と日本の間には日本海という大きな”湖”が常に立ちふさがってきた。しかも温暖化で海面が非常に高かった。
ゆえに日本に時代を経てやってくる文化の多くは、中国、半島を経由した「間接的」伝播となる。つまり来るのは加工品や装飾類であるが、人間そのものの到着はまれであり、来たとしても彼らが生き残り子孫、遺伝子を残して行く可能性はほとんどない。しかも女性はまず渡海しなかった時代はかなり長く続き、DNAもYも残る可能性は皆無なのだ。


にも関わらず、われわれの中には北欧原住民やバイカル湖犬戒(けんじゅう)等の血が存在する。
スキタイ研究は倭五王につながるわけではないし、遺伝子が日本に来訪する2万年前の北方系人々ともまったくつながらないが、残された北方系C3と北欧C3がどうやって出会い、どうやって匈奴になって東アジアに移動し、そしてどうやってアジア人たちと混合したかという、現代の人種差別問題の原因分析にもつながる重要なステップ・ロードにおける大イベントの出演者なのだ。


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ここからは絵で見ていきたい。そのほうが言葉を重ねるより、懸命な諸氏にはわかりやすいだろう。
このふたつの画像、上はスキタイと匈奴とその時代の世界。

下は各遊牧民族国家と同時代の世界の歴史年表である。
つまりヘロドトスが生きていた時代=前5世紀には騎馬遊牧民はカスピ海とバルカン半島の間、黒海沿岸をうろついていた。それがもとは中央アジアの前8世紀から西へ移動する、あるいは別のスキタイがそこにいたことになる。


前2世紀には東へ匈奴が出現する。
こうしてみると東のスキタイと西のスキタイは、中央アジアから時代を経て東西へ分かれたと見て取れる。もちろんその時間差は300年近くある。そしてスキタイが果たして匈奴と同じ人種だったかも明確ではない。しかしながらその持っている文化、習慣、墳墓様式、騎馬などなどのすべてがまったくそっくりに記述された。

最も明確なことは、どちらも積石塚を持つことである。墳墓の内部形態は時代、場所で変遷するが、外見は赤い石などを重ねた円墳(ヘルクスル)で、周囲にスポークという自転車のスポーク状の放射状環状石列を持っている。そしてランドマークのようにそこによりそうように、シカのレリーフを刻まれ、時計のように並べられた放射状環状列石の中心に立っているのが「鹿石」という石碑である。おそらくこれによって誰の墓であるかがわかるのだろう。
積み石塚のヘルスクルはモンゴル語の「ヒルギスフール」=(キルギス人の墓)。ヒルギス=キルギス、フール=墓である。ロシア人考古学者が学説に用いた聞き間違いが今はそのまま使われている。

鹿石

ヘルスクルを背景にしたモンゴルの鹿石。モンゴル中西部ドゥルブルジン=アム遺跡
鹿石は以前は墓であるとはまったく思われておらず、たんなる円墳被葬者のオベリスクだと考えられてきたようだ。何度か発掘はされたが、ステップに多いプレーリー・ドッグ(げっ歯類哺乳動物)の巣になっていることが多く、始末の悪いことにこの可愛い直立するのが大好きな、ネズミの仲間は、石の下の暗がりと湿気が好きな上に、丈夫な歯で骨を食い尽くしてしまうので、いつもからっぽな穴しかでてこなかった。それが2005年、日本の考古学グループ(林俊雄隊長)によってついに骨片が見つかった。それは子供の骨が散乱した状態だった。それで鹿石も墓であることがわかったのである。
このことは意外なことに、日本の縄文時代の東北に多い環状列石(大湯などが著名)も、墓であるという説を生むこととなった。それほどよく似た構造だったわけである。


ちなみに、自転車のスポークの語源は、いまのところ不明だが、荷車、馬車などの車輪にスポークをつけたのは西アジア人が最初とされ、その語源もこの放射状環状石を指す言葉の印欧語だという説が欧米では非常に人気がある学説だ。特に欧州やアメリカの考古学界では、ちょうど日本の邪馬台国ブームのように、印欧語族原郷解釈が大流行しており、インド・ヨーロッパ民族こそが白人の起源だと考える方向が国民全体に親しまれており、つまり遊牧騎馬民族やトルキスタン、突厥などの研究が、日本とは比較にならぬほど受け入れられている。その研究で時の人になり、マスコミに持ち上げられる考古学者がアンソニー、テレ-ギン、レヴァインなどのスター考古学者である。

スキタイは、これまで書いてきたように中央アジアを発してユーラシア大陸の東西に遊牧を広げていったが、その文化は一貫して積み石塚円墳の埋葬に代表される共通文化である。
西に拡大したスキタイは、ギリシャやバルカン半島、西アジア諸国、そしてローマなどの中近東から西欧の文化を取り込み、また遊牧文化と食肉文化などを西欧各地に伝えていった。
一方東に広がった匈奴は、中国、モンゴル、フンに影響を与えた。
だから当然、墳墓や埋葬形式に違いが出てきてもおかしくない。ところが、東西変わらずに積み石円墳を持ち、鹿石を置く。
その埋葬物や、遺物を見ていこう。




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スキタイとその周辺国

最後の画像は石人である。古墳の近くに立って魔よけ?のように邪気をはらっているのは日本の九州に多い石人と同じ効果がある。
いずれも絢爛豪華で金、銀、銅、ルビーなどの貴金属で、多くはヘラジカ、グリフィン、丸まった形の獣、ヤギ、羊などをあしらわれている。中でも銀製の壷にはスキタイの騎馬工程が刻まれており、世界の乗馬の創始が彼等であったことを思わせる。
なにゆえ彼等が馬で遊牧したかは、そこに野生馬が群れていたからに他ならない。
野生馬は当初、食用にもされている。
そして馬の首と頚骨を整然と埋葬した墳墓が多く草原地帯に点在する。
スキタイも匈奴も城郭や町を持たなかったために、都市理論が適用できないが、ヘルクスルの点在とその周囲の培塚?群の点在は、ある程度のキャンプ地があって、そこが都市とは言えないまでも意味ある場所であったことが考えられる。


これらの装飾品はあきらかにヘレニズムやローマ文化の影響、あるいはアッシリア、ペルシャ、ヒッタイト、シュメール、エジプト、レバントなどなどの西欧・中近東文明の影響を受けている。これがいわゆる西のスキタイ=狭義のスキタイの持っていた文化である。
これが匈奴になると、前二世紀前後の漢文化の影響を受けて金印や銅鏡が混合してくる。しかしその絵柄は虎やヘラジカなどがあしらわれ、やはりどこか印欧文化のにおいがする。
気がつくのは、猛獣が丸く円紋化されていること。また想像の生物グリフィンの多様。イノシシ、ヤギ、ヘラジカ、虎などのアジア的動物の絵柄。そして乗馬の絵柄が実に多い。騎馬民族で狩猟民だったことがよくわかる。
ヘロドトスはスキタイには四種類あって、その中に農耕スキタイとか農民スキタイとかが出てくるが、おそらくヨーロッパ人はスキタイと中近東のペルシャ系民族や突厥を混同していた可能性もあり、前5世紀の記述の中には、どうもすべてがスキタイのものではなかった文化様式も混ざっている気がする。
それは匈奴が、中国ではきちんとほかと分けられていた前2世紀の司馬遷の記述とはかなり違っていい加減な記録の気がする。
ヘロドトスはスキタイの祖先をなぜかギリシャのゼウスと、アジアの川の娘に設定しており、しかもそこからはヘラクレスという英雄が生まれたことになっている。あきらかに前5世紀段階では、西欧人の見方はできるだけ自分達に近い人種として捉えようとしていた・・・つまりその戦力を恐れて懐柔したがっていた傾向が見えてくる。
対する中国は、匈奴をこれまた対等として扱い、好物?である虎の金印や鏡を授けている。よほどスキタイ民族は勇猛果敢だったのだろう。
そして匈奴もスキタイも同じようにツインテールの姫であるエキドネという上半身は少女、下半身は双尾の蛇という偶像を崇拝したようである。これはいわば中国の西王母とか伏義と女カを連想させ、こうした女神信仰の東西伝播に大きく彼等が関わったことが見えるのである。

圧倒的に多くの欧米人は、自分達白人種の開始が、中近東イランにあったと考えている。そこはかつての言い方でコーカソイド白色人種とモンゴロイド黄色人種・・・いまで言うヨーロッパ人とアジア人の分岐点でもあって、のちにスキタイと呼ばれた騎馬遊牧民が派生した場所でもある。つまり欧米人はプレ・スキタイ民族が自分達の祖先であると考えたいようである。日本人とは発想が180度変わる思考であるが、実はそれが正しいような按配である。
私達は学校で、人類の文化・文明は四大文明から開始されたように教えられたが、現在は、中国の長江文明をはじめとする、さらに古い発祥元があったことがわかっており、それは世界も同じである。過去の常識は忘れてください。

スキタイの鹿石・日本の死産児墓甕葬・土井ヶ浜・古代ギリシアやローマ、インドなどには死んで生まれた胎児を魔よけとした共通辟邪観念があったと思われる。
これは最初に昭和二年に考古学者の先駆けである長谷部言人(はせべ・ことんど)が言い出し(「石器時代の死産児埋甕」)現代では広島大学文学部、美術史、文化財保護部調査官だった木下忠が書いている(『埋甕』)。


スキタイの鹿石もそうだと思うのは筆者である。私のスキタイ分析→
「鹿石は以前は墓であるとはまったく思われておらず、たんなる円墳被葬者のオベリスクだと考えられてきたようだ。何度か発掘はされたが、ステップに多いプレーリー・ドッグ(げっ歯類哺乳動物)の巣になっていることが多く、始末の悪いことにこの可愛い直立するのが大好きな、ネズミの仲間は、石の下の暗がりと湿気が好きな上に、丈夫な歯で骨を食い尽くしてしまうので、いつもからっぽな穴しかでてこなかった。それが2005年、日本の考古学グループ(林俊雄隊長)によってついに骨片が見つかった。それは子供の骨が散乱した状態だった。それで鹿石も墓であることがわかったのである。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50876790.html

また土井ヶ浜遺跡の着飾った子供の遺体も、やはりなんらかの邪気を払う力が信じられ、あのように美しい特別な着物を着せられたと言うのは金関丈夫である(「魂の再生 子供墓考」)。
ここでは幼年一期の子供の遺体だけが着飾っていただけでなく出土の場所が東トレンチに偏っていた。それはなんらかの意味があった・・・。
さらに島根県八束郡鹿島町の古浦遺跡でも、弥生時代前期初頭の地層に、遺物にまじってひとかたまりに集められた仰臥屈葬(ぎょうがくっそう、あおむけにして手足を折りたたんだ)一歳児遺体があった。
小児遺体についての報告書は別府大学の故・賀川光夫氏の詳細な調査記録がある。(「縄文時代のカメ棺」)
長谷部が調べた宮城県牝鹿郡の沼津貝塚では、10例中9までが早産、死産児だったと書いている。
岩手県大船渡市大洞貝塚の甕棺葬では6例が八ヶ月、九ヶ月死産児が1、9または10ヶ月の死産児が3、10ヶ月の死産児1、初生児1だとされた。

古代ローマ、ギリシア、インドなどで、まだ歯が生えていない乳幼児だけを火葬にせず埋葬した。
サモエードは一歳児以下の子供はトナカイの皮にくるんで木の枝にかけた。
など諸外国の例もあるという。
つまり乳幼児の死は、その悲しみゆえに特別な呪を持つと期待されたのではないか?
それが母の再生願望であることも大いに考えられ、幼児死体、はかなくも死んだ死生児(水子)の命が聖なるもの、帰ってくるものであるという観念がそうさせたとも考えられる。
これは時間と場所を超克した親の愛と呪に少しも変わりがないことの証と言っていいのかもしれない。

3 クリスマスはイエス・キリストの誕生日か?
答えはもう「違う」ということになるだろう。
しかもイエス生誕の日が12月25日だったというのも西欧ではまったく不明。
もうひとつおまけに言うならば、イエスが西暦0年生まれというのも実はまったく信じられていない。
■「キリストの両親は、ナザレからベツレヘムまでの110キロの道程を4日かけて旅した、と言い伝えられている。この旅の途中で、キリストは誕生するのだが、妻は身重の体なのに、なぜこのような長旅を強行したのか。」 
■「それは、当時支配者側であったローマ人が、課税のための人口調査を14年に一度実施していて」
■「この時期がちょうどこの人口調査の期間に当たったからである。」
■「つまり、両親は人口調査に応えようとして、夫の生まれ故郷であるベツレヘムに向かっていた。」
    荻原雄一『サンタクロース学入門 ひもとけば愛!』高文堂出版 1997
この時期は厳冬期のうえに雨期だった。
聖書にあるような羊飼いの野営はありえない。
普通なら人口調査は租税に関わる秋の刈り入れ終了後の遅い秋と種まき前の春先に行われるはず。だから聖書記述は疑わしくなる。そこで初期キリスト者たちはキリスト生誕日は3月28日、4月2日、4月19日・・・あるいは11月8日、11月18日とさまざまに語ってきた。まして当時、誕生日を祝う習慣などまだなかった(福嶋正純・福居和彦「クリスマスの習俗Ⅰ」)。
■キリスト生誕日を12月25日と定めたのは4世紀中ごろのローマ教皇ユリウス1世だ。徹底的に調べたうえでの決定だと言う。命日の3月25日から来たか?
しかし実際には「このような数字合わせよりも、実際的な理由は別の所に見つけられるようだ。古代ヨーロッパから、土着宗教(民間冬至祭など)などの異教徒が祝ってきた冬至祭のど真ん中に、キリストの生誕日をぶつけて、異教徒を取り込み、改宗させるもくろみだったのではないだろうか。」(荻原)
■当初から北欧などのクリスマスはキリストのためのミサという性格よりも、飲めや唄えの大騒ぎで、あいまいなお祭であった。
今なお、各地のクリスマスは原始民間信仰の土着の精霊が登場し、まったくキリスト教の色合いがないのはこれまで紹介したとおりである。
まして、その習俗は、まるで欧州的でもなく、むしろアジア的でさえある。
これらの民俗風習が始まる背景には、もしかしたらギリシャ時代からカスピ海周辺に番居していたスキタイや、東洋と西洋のハザマにあったアナトリアなどの習俗が関与した疑いがある。
■ギリシャ神話の登場人物・ヘラクレスがスキタイとの混血児であったように、中近東の風俗はあたかも白人がそこから出てきたような印象を抱かせるのである。そして今、その欧米人たちが、中近東を自らの祖先の出身地と考える風潮は、非常に強い。
■本家本元のイタリアでさえ、農耕神を祭る冬至のサトゥルナーリア祭はドンちゃん騒ぎで飲み明かす。
■さらにこれが諸外国となると、キリスト教信者以外は、ほとんどすべての地域が飲んで騒いでするだけで、イエスの誕生などすっかり忘れられてしまっているのが実情なのだ。
■つまりキリストの誕生日が12月25日だと本気で考えている人などは世界にほとんどいない。
■さらには西欧の学者でさえ、その誕生が西暦3~4世紀のことだというのがもっとも流布している。
■北欧の冬至祭が先のような状態であるのは、キリスト教布教によるということはまず間違いないだろう。宗教は民間信仰を取り込んだ。布教という名の下に。聞こえはいいが、ならばなにゆえ、その宗教にはいくつかの敵が生まれてきたのか?
現地人の反発を恐れたがゆえに古い先住の祭風習を完全否定しなかったのではないか。
ということになる。
古代宗教が、まだ生まれていないなかった祭祀から切り放たれた「王」を生むまで、それは統治者・王でもあった時代がある。シャーマニズムが原始キリスト教にはまだ残っていた。布教とは同時に租税(お布施)徴収でもあった。だから王は宗教を政治から切り離した。そしてバチカンにはバチカン銀行が残った。
その過程で、遅れた民間の風俗は、完璧には消去されず・・・そうすれば反乱になる・・・これはもうまったく朝廷の隼人取り込みとそっくりの構造である。日本の神宮・神社の成立を重ね合わせれば、まったくおなじことである。宗教は争わず、多大な流血は嫌う。だから王のようには目に見えないが、影でさまざまな極めて人間的な暗躍があったことだろう。
西欧の民間祭礼も、アジアの祭礼となんら意義は変わらない。それが残されたことが重要である。民俗の残存を許したことは宗教としてのキリスト教の評価できることだ。例えばそれがイスラム教だったら、仏教だったらどうなったかと考えてみるのも面白かろう。
要するにキリスト教徒でない私たちは、クリスマスを酒飲んで、子作りに励む日としても一向に差し支えはないようである。
これがイスラム教なら、もっともっとストイックである。酒など一年中一切飲まない。しかしやるとなったらとことん相手をやっつけてしまう。あきらめない。なぜなのか?
仏教はすべてを許す。いや、極めて個人の中に埋没し、哲学するだけである。
ヒンズー教は?




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ニュースなどを見ていて思うことは、人間はこと信仰となるとまったく周りが見えなくなるということである。それは古代から同じで、未だにガリレオは間違っていたという人さえいる。科学はまだ若く、しかも若くしてエネルギー枯渇に苦しんでいる。片方はすべてを包括するのが真実だと言い、片方は細分し切り刻まねば真実は見えないのだと主張する。しかし、その両者が握手しなければ人類は自分を乗り越えられないだろう。サンタクロースと精霊が一緒に登場する祭は、かつてはキリスト教による圧迫のあかしだったが、いまやそれは双方和解の象徴とならねばなるまい。
精霊たちの形はキリスト教の悪魔のイメージへと取り込まれた。山羊、角、魔物たちは子供のしつけする豊穣の精霊だったにすぎない。それが悪魔にされたのは、まったく日本で鬼がそうされたのと同じ、先住民圧迫の歴史を今に伝えているのであろう。ことほど左様に強者は弱者を搾取する。それもまた人類の歴史なのだろう。
救世主はその人間の仕方のない馴致された観念を解放してくれねばなるまい。



「ある種のウイルス保有者がどんな種目のウイルスを持っているか、で人類学的な系統を推定しようとする分野がある。しばしば目にするものの一つはATLという病気を起こすHTLウイルス、もう一つが本稿で考えてみよう、理解を深めてみようとするJCウイルス(JCV)だ。」
主たる参考文献は:
(1) 『JCウイルスからみた日本人の起源と多様性』余郷嘉明・北村唯一・杉本智恵。『日本列島の人類学的多様性』SCEIENCE OF HUMANITY VOL. 42収載
(2) 『アイヌから検出されたJCウイルスDNAの系統解析』余郷嘉明、鄭 懐穎、長谷川政美、杉本智恵、田中新立、本庄健男、小林伸好、太田信隆、北村唯一。『ANTHROPOLOGICAL SCIENCE (JAPANESE SERIES)』VOL.111 NO.1, 2003 収載
★★「参考文献(1)にて、日本人の2%ほどが、コーカソイドに多いJCV型を持っていることから「太古に於けるコーカソイドの東へ向けての大移動の波のひとつが日本の東北地方、日本海側に至り・・・」という解釈を提示している。」
★★「参考文献(2)においては、アイヌの一部が東北シベリア先住民やイヌイットから検出されるJCV型を有していることから、「データ規模が小さいため、アイヌの起源に関して早急に結論を導くと、誤りを犯す可能性がある。」と用心しながらも「いかにJCVゲノム型解析がアイヌの起源の解明に役立つかを示したかったから」として敢えて提示されたことは:
■つまり
1東北アジアから渡来した複数の人類集団が現代アイヌを築いたこと
2ヨーロッパ人に近縁の東北シベリア先住民の祖先集団が現代アイヌの中核となったこと
3縄文人を形成した集団や起源が新規な東北アジア系集団も現代アイヌの形成に寄与したことなどが示唆された。」

http://www.dai3gen.net/jcv00.htm

論の基盤になったJC系統樹がこのサイトにある。参照されたい。
★★「トートロジーであることも問題だし、更に、その定義は良いのか。後にヨーロッパ人や日本人に分化することになる「祖」をコーカソイドと呼んで良いのか。ヨーロッパ人に分化した後のヨーロッパ人をコーカソイドと呼ぶべきではないのか。この系統樹の読み方は、ヨーロッパ人と日本人が保有するJCウイルスには共通の祖がある、ということだ。」

「宝来聡著『DNA人類進化学』のp73には次のような推定が図示されている。即ち:
490万年前にヒトとチンパンジーが分岐した。
14万年前にアフリカ人とその他が分岐した。
 7万年前にその他からヨーロッパ人と日本人(アジア人、としても良かろう)が分岐した。」

★★「JCウイルスとしての進化系統をおさらいしてみると、大本の祖から三つの系統A,B,Cに別れ、
C系統のウイルスはアフリカのみにあり、
A系統のウイルスは欧州型、日本型(Jpn)、極地型(Arc)などに分岐した。
B系統の一部はアフリカに残り、他からは欧州に広がった型、アジアに広がった型が分岐している。そのアジアに広がった型からの変異型が太平洋諸島民、アイヌ、日本人などに広がっている。」


■しかしながら・・・
「「さて、参考文献(2)はJCV人類学の最新の(2003)知見に触れることが出来るものであろう。引用した系統樹を参照願う。ここでは、アイヌの1人が東北シベリア先住民やイヌイットから検出されるJCV型(Eu-a/Arc)を有していること、3人が「コーカソイド」と祖を同じくする型を保有していることなどから、次のような考察がなされている。


但し、「データ規模が小さいため、アイヌの起源に関して早急に結論を導くと、誤りを犯す可能性がある。」と注意を促しながらも「いかにJCVゲノム型解析がアイヌの起源の解明に役立つかを示したかったから」として敢えて提示した、としている。
東北アジアから渡来した複数の人類集団が現代アイヌを築いたこと
ヨーロッパ人に近縁の東北シベリア先住民の祖先集団が現代アイヌの中核となったこと
縄文人を形成した集団や起源が新規な東北アジア系集団も現代アイヌの形成に寄与したことなどが示唆された。 」

■Kawakatu的結論
JCウイルスデータによるサンプルが少ない。
特にアイヌの一人や三人では心もとない気がする。あくまで特例の感はある。
このサイト管理者が書いているように
「日進月歩する研究であるから、データが少ないながらも何らかの見解、見通しを提起して頂くのは歓迎だし、データが少ないから危険はある、との認識を告知しているのは好感が持てる。が、しかし、もし、万一、何らかの先入観、恣意性が働いていたら大変に困る。 」
ということになろうか。断定はまだするべきではない。
いずれにせよDNA遺伝子研究からはアフリカを出た人類の祖先が中近東あたりで欧州人とアジア人に分岐し、そこから東アジアへ移動する間にもう一度、中近東~ヒマラヤ北部~バイカル湖~モンゴル草原の間のどこかでトルコ系白人種の血脈を持ったスキタイ?とアジア系の遊牧民との間で混血が起きたのではないかと考えられる。もちろんこれらからもステップロードにおける小さな分岐と融合が
あっただろう。アイヌと日本海側ブリヤート系?人種との間には類似はあっても、違いも大きく、それらが決して同じ来歴を持つとはいえないことがわかっている。つまりアジア大陸北部のどこかでアイヌは相当早期に分岐して北海道に入っている。つまりアイヌはより孤立した原アジア人種のようである。日本海側(新潟・山形庄内地方、秋田、石川、富山など)のコリヤークやケット人的血脈とアイヌにはその分岐にかなりの時間的隔たりがある。
ひとつこれだけは言えることは、アフリカから出たとき、すでに欧州人とアジア人にはその底流に共通するJCウイルスなりDNAなりが存在したはずであり、アジア人のすべてにいくらかの欧州人的先祖がえりが起きても不思議はないという着想を許容することである。


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その後、スキタイや匈奴といった、アジアの草原のどこかでコーカソイドと再び出会う可能性を持った部族遊牧、騎馬民族が「媒体」となって東アジアの環日本海沿岸部に小さな分岐した孤立民族が生まれたか、それともそうではなく少数コーカソイドの直接の移動があったかだ。

人を見ても、犬を見ても、その来歴は複数あってもすこしもおかしくないことに気がつく。
そもそもが列島にやってくる人々は多種多様で、日本列島の複雑な地形では、それらがなかなか出会うことなく孤立した固有種を保てる条件がそろっているのだ。だから日本人起源は非常に複雑化、重層化の道を進んでいると言える。


しかもそれらの出会いが本格化したのは、実は戦後である。つまりわれわれ日本人はこれからこそが、今こそが、まさにDNA平均化の途上にあるのである。日本人の顔つきはまだばらばらで、世界でも多種多様な骨格を持つ稀有な国である。それだけ出身地にばらつきがあったということである。同じ縄文人でも、南西諸島、九州南部・北部、日本海側南部・北部、太平洋側東北人、関東人はばらばらである。しかもそこに渡来が来て関西人ができ、その後、朝廷による平定の過程で巨大な人種のシャッフルが起こっている。ようするに一見強硬な征服過程に見えていたそれらのあとからのシャッフルは、実は大きく「日本人」の同質化に貢献したのである。そして明治の屯田制度などもやはり貢献した。また今の交通網の整備、大学進学や越境就職などのグローバルな動きこそが日本史上最大のシャッフルであろう。日本人はどんどんシャッフルされ、均質化してゆく。結局はそれが県民性を消してゆくのだが、実はそれこそが平和な世界への最短距離なのかも知れない。血が混じるということは、観念やこだわりも混じるということ。それでいいのだ。

前に書いた中国山東省臨シ遺跡の白人遺伝子を持った数十体の遺伝子の系統樹があったので貼り付けておく。
前記事 白人が来た道

臨シ人は現代、2000年前、2500年前の三つの交代が起きているが、最古のものはトルコ人から直接つながる突厥やウイグルやスキタイ民族に共通し、その中にコーカソイド形質が混入していた。

「2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝 WANG Liらは、約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨シ住民から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果を発表した。それによると、三つの時代の臨シ人類集団が異なる遺伝的構成を持つことが明らかになった。
 
約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないものであった。
 
 この研究により、2500年前にユーラシア大陸の東端に現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団が存在していたことが明らかになった。
また、2500年前から2000年前の500年間に臨シ集団に大きな遺伝的変化が生じたことから、過去に人類集団の大規模な移動があったことを示唆している。」
http://www.amezor.to/shiso/080907143515.html
 
 
 
 
 
「【北京29日傍示文昭】29日付の中国各紙によると、陝西省西安郊外にある秦(紀元前221―同206年)の始皇帝陵の副葬墓から出土した約2200年前の人骨が、ペルシャ系とみられる20代の男性のものであることが分かった。古代中国と古代ギリシャ・ローマとの間に開かれた陸上交通路「シルクロード」ができる前に、中央アジア以西の民族が中国中部まで入っていた事実が明らかになったのは初めて。専門家は「従来の学説より約1世紀早く、東西交流史を塗り替える発見」と指摘している。


 
■2200年前のDNAを鑑定
 28日、中国・西北大の考古学者らが明らかにした。発表によると、副葬坑は2003年、等身大の兵士像などで有名な「兵馬俑(へいばよう)博物館」から約500メートル離れた場所で見つかった。陵墓建設に従事した労働者を埋葬した墓とみられ、約50人の遺骨を発掘。一部をDNA鑑定した結果、一体はペルシャ人かクルド人と同じ遺伝子を持つ男性であることが分かった。
 
 これまで、古代中国と中央アジア以西の民族の接触は、秦の後の漢代以降に始まったとみられていた。研究者は「西方から強制的に連れてこられて陵墓建設に従事させられていた可能性もある」と指摘している。
 
 陝西省考古研究所の段清波研究員は「シルクロードができる前に、すでに東西交流が行われていた可能性もあり、東西文化の交流史に大きな意義がある発見だ」と話している。
=2006/06/30付 西日本新聞朝刊= 」
 
 
 
 
「はるか昔にコーカソイドが北京の東まで来ていたという。河北・遼寧・内蒙古あたりに紀元前6000年頃の興隆窪文化、前4500年頃の趙宝文化、前3000年頃の紅山文化と呼ばれる龍と玉の文化があった。そこで碧眼の象嵌をした女性(女神)像が出ている。コーカソイドとモンゴロイドとの混血人により「龍」の文化がうまれたのである(安田氏の本を以前紹介した)。
 
 中原の文化の代表である前4000年頃の仰韶文化も、西域の影響を受けた彩陶に特徴のある文化であった。元々、旧石器時代に黄土高原には人が住んだ形跡があった。しかし旧石器時代の末期には2000年間の空白期がある。この間の紀元前6000年頃は、黄河中流域の磁山・裴李崗文化と呼ばれる粟の栽培に特徴のある文化があった。再び黄土高原に住めるようになり西域からの影響を受けて麦作農業となったものが仰韶文化である。先に書いたように前6000年には東北地方までコーカソイドは来ていたのであるから、より西域に近い黄土高原にも当然入っていたのである。埋葬も頭を西を向けている。」
 
 
 
「1985年、紅山文化に属する遼寧省西部の凌源・建平の県境にある牛河梁(ぎゅうかりょう)遺跡で、紅焼土に埋まった堆積層から、珍しい「女神廟」と積石墓群が発見された。今から5575±110年前の数価を持ち、問題の女神廟は遺跡の最も高い場所にあり、数多の泥質彩塑女神像や動物塑像のほか、この地独特の彩陶の祭器や建築材なども見つかっている。
それらの中でも特に注目されるのは、廟の円形主室の西側で発見された一体の彩塑女神の尊像である。総体的に見ると、方円形の平たい顔で、頬骨が突起し、目は斜めに吊り上り、目のくぼみは浅く、鼻すじは低くて短く、鼻先と鼻翼はは円頭状で低平であり、鼻孔はやや上に反っている。
以上の容貌から明らかなように、モンゴロイド系人種に属するものと判断されている。ところが女神像の目は驚くことに青い玉がはめ込まれているのである。そのことをどう理解したらよいのであろうか。」
『古代中国と倭族』鳥越憲三郎
 


 
「中国当局は、遺伝子検査の結果を受け入れて、中国のタリム盆地で1980年代に発見された、4000年前の貴婦人のミイラと3000年前のミイラをコーカソイド(白人)と認めた。この地域やってきた人類はこの白人が最初で、東アジア人より1000年も前のことであった。
 
中国当局は当初この結果を認めるのを躊躇していた。その理由は政治的なもので、新疆ウイグル自治区の最初の人類は白人ということになると、イスラム分離派に理論的根拠を与えるというものだ。
 
ミイラと関わってきた西欧の科学者Victor Mairは、「現代のDNAと古代のDNAのテストの結果、ウイグル、カザフスタン人、キルギス人などの中央アジアの人々は、東アジア人とコーカソイドの混血である」という。
 
中国から出た最初のコーカソイドのミイラは、Yingpan Manという2000年前のもので、東京江戸博物館に展示されたという。」
 
 
 
 
東トルキスタン中央部、天山山脈と崑崙山脈に囲まれた大盆地・タリムのタクラマカン砂漠地下から、大量の遺骸が出土したのは2002年のことである。
さらに、DNA鑑定によって、最下層のミイラは、モンゴロイド(東洋系)とコーカソイド(白人)の混血であることが分かった。
ローランではすでにコーカソイドの家族のミイラが出土していた。
ここは人種の交差点。それはすでに古代から存在した。

土井ヶ浜人の白人形質 山東省臨し(りんし)遺跡の白人 スキタイの道と長江文明人の船旅と日本人の道
「2000年に東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、約2500年前、2000年前の臨淄(りんし)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨淄住民から得た遺伝子(ミトコンドリアDNA)の比較研究の結果を発表した。それによると、約2500年前の春秋戦国時代の臨?住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨?(りんし)住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、現代の臨?住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないものであった。これによって、古代の「中国」の住民を構成した人間集団が現代の中国人集団とは異なる集団を含んだ多様な構成を示したのではないかという仮説が浮上してきている。」

ここにある臨淄遺跡とは山東省にある。





「「弥生人」を中国史に位置づける
最後の部分を引用。
> 一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長(形質人類学)らが、山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、北部九州や山口県で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致した。
 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、約二千年前の中国・山東省臨錙(りんし)の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、遺伝子の配列が特定の部分で同じ人がいることを確認した。
 一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。」


臨淄の白人系つまりコーカソイド遺伝子に近似する遺伝子の持ち主は、筆者はおそらく北方から回ってやってきたスキタイやコーカサス民族やテュルク民族のような遊牧民が持っていた遺伝子ではないかと想像している。この遺伝子が日本の日本海側にやってくる。それが秋田県民などがしきりに言い募ってきた「白人の子孫」の発祥のルーツだとつきとめた。(この分析はスサノオ騎馬遊牧民分析として何年かあとに書くことになるだろう。お楽しみに)

山東省の2500年前の臨淄人の遺伝子が、人骨から得られたミトコンドリアDNA分析の結果その65%までが白人だったという結果が出たわけだ。そして、しかも地球乾燥化によって北方民族の侵略を受けた黄河文明の畑作牧畜文明人たちが長江中流域の稲作文化地帯へ南下したために、河口部へと追い出されていった長江文明人と同じように、彼ら臨淄の白人的形質を持つ人々もまた「黄河人によって差別されて」しかたなく東シナ海から対馬を抜けて日本海山口県の土居ヶ浜に移住したのである。


長江の越文化人たちは東西南北へ四散しただろう。
そのうち南下したのが今の少数民族たちである。ミャオや苗やイ族である。
さらに山東省南部にあった越人は、インドシナのベトナム北部に入り南越を建国したが、中国の圧力で南越の国名を禁じられ今の越南(ベトナム)に国名を変えて定着した。
同じ基層遺伝子は日本の縄文人も受け継いでいる。
これが日本海の越前・越後の「えつ」のルーツではないかと安田喜憲は妄想している。
あながち否定しがたい。
「えつ」はしかし日本では「こし」から来ており、「こし」訓読を音読しただけかも知れないが。

こうして日本海側のコーカソイド形質の謎は解けたことになろうか。
それにしてもその道のりは、なんとスキタイの発祥地である西アジア、カスピ海・黒海・アラル海まで遡るのだ。人類は西アジアのシリア周辺で最初の枝分かれをする。そして騎馬遊牧民となった人々は欧州の東側を抜けるときに白人やトルキスタンとの混血をしながら(ヘラクレスもそうだ)、エベレストを右に眺めながらバイカル湖まで到達。ここで北方系アジア人の元ができあがる。彼らは寒冷化で南下して、一部が北海道経由で東北縄文人となる。一方中国から南下したものたちは「船の技術を手に入れ」東シナ海を長江河口部から船出して日本にたどり着くのである。




もちろん古い形質のままの長江人(彫りの深い古モンゴロイドたち)もまた、船で日本海を北上して中にはそのまま陸風されアイヌとなったものもいたことだろう。

日本人はるかな道・・・
それは決してひとつではなかった。


●またこのサイトはややぶっとんだ歴史観で面白い。
「パルティアン・ショットとは、紀元前に中東を支配した強国「パルティア大国」の兵士が得意とした射撃。これは、似ているのでは無く、遠い昔黒海のアタリにいた遊牧民族から、日本が受け継いだ馬術です。大雑把にいうと、、パルティアは、漢民族からは「安息」とよばれ、アスカとよびます。また、この地域にいた遊牧民族を「スキタイ人」とか「サカ人」といいます。」
http://tanzao.sblo.jp/archives/20120719-1.html
ただし飛鳥・明日香地名のパルティア(安息=アスカ)由来説は一読の価値ありか?

アイアン・ロードNHKスペシャル
1月13日(月)、NHKスペシャルで『アイアンロード』が放映された。
人類の生活に大きな変化をもたらした鉄の伝播について、愛媛大学のアジア古代産業考古学研究センターの国内外での調査活動が取り上げられるそうです。続く2月には、歴史秘話ヒストリア、BS4Kスペシャルでも、それぞれ放映されます。
pic.twitter.com/ZtP4sRQXYT

鉄器時代
鉄器時代(てっきじだい)は、デンマークのクリスチャン・トムセンが提唱した歴史区分法の1つ。主に利用されていた道具の材料で時代を、石器時代、青銅器時代、鉄器時代と3つに区分する三時代(時期)法を採用し、鉄器時代はその中の最後の時代に相当する。

鉄の利用は鉄器時代の開幕よりもはるかに古く、紀元前3000年ごろにはすでにメソポタミアで鉄は知られていた。ただしもっとも初期には融点が高いために鉄鉱石から鉄を精錬することはできず、もっぱら隕鉄を鉄の材料としていた。その後、エジプトなどでも出土例がみられるが、精錬の難しさや隕鉄の希少性などから利用は多くなく、武器や農具としての利用は青銅を主としていた。

最初の鉄器文化は紀元前15世紀ごろにあらわれたヒッタイトとされている。ヒッタイトの存在したアナトリア高原においては鉄鉱石からの製鉄法がすでに開発されていたが、ヒッタイトは紀元前1400年ごろに炭を使って鉄を鍛造することによって鋼を開発し[1]、鉄を主力とした最初の文化を作り上げた。ヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な武器にし、オリエントの強国としてエジプトなどと対峙する大国となった。その鉄の製法は国家機密として厳重に秘匿されており、周辺民族に伝わる事が無かった。しかし前1200年のカタストロフが起き、ヒッタイトが紀元前1190年頃に海の民の襲撃により滅亡するとその製鉄の秘密は周辺民族に知れ渡る事になり、エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になる。カタストロフによってオリエントの主要勢力はほぼ滅亡するが、その後勃興した、あるいは生き残った諸国はすべて鉄器製造技術を備えていた。同様のことはエーゲ海地方においても起きた。紀元前1200年ごろにギリシアの北方から製鉄技術を持つドーリア人が侵入し、ミケーネ文明の諸都市やその構成員であったアイオリス人やイオニア人を駆逐しながらギリシアへと定住した。この時代は文字による資料が失われていることから暗黒時代と呼ばれるが、一方でアイオリス人やイオニア人を含む全ギリシアに鉄器製造技術が伝播したのもこの時代のことである。

ヨーロッパにおいては、地中海沿岸のイタリア半島中部には紀元前1100年ごろからヴィラ・ノーヴァ文化が栄え、紀元前750年ごろよりこの文化が都市を形成してエトルリアの諸都市が成立した。中央ヨーロッパにおいては青銅器文明後期の段階にあったハルシュタット文化が紀元前800年ごろに鉄器を受け入れ、紀元前450年ごろからはかわってラ・テーヌ文化が栄えるようになった。インドにおいての鉄器時代は古く、紀元前1200年ごろには開始されたと考えられている。

ウクライナから中央アジアの草原地帯においては紀元前800年ごろよりスキタイが勢力を持つようになるが、スキタイは鉄器技術を持っていた。




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製鉄と鉄器のバイカル湖~東アジアへの伝播を担ったのは騎馬遊牧民だったということになる。スキタイ、トゥルク(トルキスタン・突厥)、ウイグル、匈奴、モンゴルを経て、西日本よりも早く縄文人・蝦夷に伝わったと考えられるのは、『日本書紀』に鉄を海岸に置いておいたら蝦夷が交換品を置いて、鉄を持って行ったという記事があるからだ。コーカソイドやトルキスタン系の遊牧民が、北方ステップロードをはるばると運んで、鉄器の威力をルート上の民族に知らしめたことが大きいだろう。縄文人がアイヌであったならば、北海道にそれはいち早く到達したと言える。なんとなればアムール川沿線には大陸アイヌがいたのだから。アリュートやツングース系列の彼らなら、九州弥生人よりもずいぶん早くに簡易製鉄は可能なのである。蕨手刀の持ち手のハサミ持ち手状の飾りは、メガネのようで、スキタイの剣に似ているし、馬上で使いやすいように身が傾いているのも、縄文人の騎馬や狩猟文化にも通じる。

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要するに北の縄文人やアイヌを、日本民族ではないなどと考えている麻生さん的な古臭い頭の人であった明治時代人は、日本人単一民族をしきりに言うたが、それは実際には文化の統一性の話であって民族の単一性のことではないのだ。そして縄文やアイヌのDNA・・・つまりトルキスタンからスキタイ、匈奴の血脈、モンゴル人の文化が縄文から伝わっていて、日本人の血脈には彼らのものが少なからず混じっていることを肯定しなければならないことを証明することになる。以上Kawakatu

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