スキタイ(希: Σκύθαι (Skythai), 羅: Scythae)
「スキタイ(希: Σκύθαι (Skythai), 羅: Scythae)は紀元前8世紀〜紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していたイラン系[1][2]遊牧騎馬民族および遊牧国家。スキュタイとも表記する。スキタイの居住地をスキティア(スキュティア)と呼ぶことからスキティア人(スキュティア人)ともいう。「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称でもあり、スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続けた。」Wikiスキタイhttps://ja.wikipedia.org/wiki/スキタイ



○スキタイの資料
最古はヘロドトス『歴史』に始まりはヘラクレスとある。ヘラクレスは下半身蛇、上半身人間の怪物とトュルクあるいはペルシア系人間の子供。
碑文なら『アッシリア碑文』においてスキタイはアシュグザあるいはイシュクザーヤと記される(紀元前7世紀)。
中国では匈奴。

ペルシア人はユーラシア大陸で最古の人類という説が現代定説化している。アフリカを出て最初にパミールに入った人類は、それ以前にもシナイ半島を通ってメソポタミアに入ろうとしたが、そこにはすでに旧人ネアンデルタールがいて、あるものは追い戻され、あるものは捕虜になり、これと混血するものがいた。つまり二度以上の出アフリカ説があり、これが最も整合性があるとされる。

一回目の人類は、そうやって混血することでシュメールに生き残り、ヨーロッパやアジアに拡散する。一方二度目のペルシアに定着した人々も拡散、両者の混血も起こる。最も濃厚に人種・人類が集まりいよいよ混血した場所がバイカル湖。そこにはネアンデルタールもデニソワも住んでいたが、なぜかあとからきたスキタイ、モンゴロイドとも融合化?その子孫がわれわれアジア人。デニソワンと混血した子孫は南下して中国南岸柳江から海へ出てポリネシア、オセアニア、台湾、琉球、小笠原、ハワイ、そしてついにはアメリカへ渡った。(渡ったのよ絶対に)
大陸のプレート移動で、アフリカのマダガスカルに北米のサルが渡ったこともあったわけだから、ポリネシアンがアフリカへいけてもおかしくない。彼らは沖縄へもトリガーボートで三日で行った連中である。だから似たような英雄叙事詩的伝説も伝わる。
「日本の民話・伝承について考えるとき、これまで多くの研究者が指摘してきたように、中央ユーラシアの遊牧民の民間伝承を避けて通ることはできない。本稿では、ユーラシアのテュルク系民族に語り継がれてきた『アルパムス・バトゥル』、『ナンバトゥル』・『エメラルド色のアンカ鳥』、『勇士エディゲ』、『ジャルマウズ・ケンピル』、『大ブルガルのクブラトの遺訓』などを取り上げ、日本に、これら中央ユーラシアの伝承・民話とよく似た伝承・説話が存在することを具体的に提示した。これらの話は、中央ユーラシアと日本の民話・伝承の比較研究に大きな示唆
を与える適例であるといえよう。古来、遊牧騎馬民が駆け巡った、アルタイ地方を中心とする中央ユーラシアの草原地帯に、日本の民間伝承の起源を解く鍵があるかもしれない。」坂井 弘紀サイト「中央ユーラシアと日本の民話・伝承の比較研究のために」



スキタイの習慣では、馬は、足を上にして埋葬されており、頭部だけが切断して一緒に埋められる。埋葬武具もすべて折り曲げてある。これも同じで、死者の愛馬があちらでまた生き返り走り出すという発想だったらしい。どうも南方風俗ばかり見ていては、日本にあった北方系文化を見落とすことになるようだ。


0e677dc7
日本人とスキタイ・騎馬民族
眉がつながっている女性がいる。日本やスペインにもいる。
彼女たちが騎馬遊牧民スキュタイの子孫だ。かつてはステップをバイカル湖まで広がった。寒冷地対応していない。



ところが日本人は小さい民族。騎馬民族の血脈を引いた新羅人よりも小さい。小さくなった最大の要因は江戸時代だが、縄文時代でも世界的には小さい。弥生人も小さく倭人と呼ばれていた。朝鮮民族との違いがそこ。理由は南島人の血か?

言語の文法ではウラル・アルタイ言語のSOV型であるのに、祖語の中にオーストロネシア語が混ざる。つまり日本語は両者のクレオール(混血)言語(孤独語)である。古い縄文語はもしかするとインド・ドラヴィダ系SVO・単音節のクレオールだった可能性もある。アイヌ語もSOVだが、日本語が単音節であるに比べて、接合節である。アイヌ語も琉球語も日本語の影響でかなり変わってしまっているだろう。
世界の騎馬民族遺跡一覧 騎馬遊牧民族スキタイは山背秦氏か?日本へ来たのか?
騎馬遊牧民族スキタイは日本へ来たのか?
世界の騎馬民族遺跡一覧
 スサノヲ神話・秦氏・紀氏とスキタイ風習の類似
騎馬遊牧民は秦氏か?

●アキナケス式銅剣 (触覚式柄頭銅剣)
「…刺突と斬撃のための両刃の武器。権威や宗教的な象徴としての機能もあった。
[ヨーロッパ,西アジア]
 銅剣とはいえ,ほとんどの材質は青銅である。もっとも銅剣のはじまりはすでに銅器時代の末期にみられる。ハンガリーやユーゴスラビアにおけるブチェドールVučedol文化に属するものである。
これらは剣身の元部に短い茎(なかご)がつき,ここに別材の柄(把)(つか)を目釘でとめたり,紐で緊縛するなどして固定する形の短剣である。…」コトバンク
いわゆる騎馬遊牧民スキタイ様式の銅剣で、日本の考古学では「触覚式柄頭銅剣」と呼ぶ。グリップエンドに渦巻き状の触覚のような装飾がある剣。
出土している場所(世界)は以下の通り
ロシア・・・チェルトム・ルイク古墳
カザフスタン・・・ペスシャトル古墳
中国・・・吉林省烏拉街、
     同・西荒山屯、
     同・汪屯、
     遼寧省西岔溝、
     河北省小白陽、
     内モンゴル自治区毛慶溝各遺跡
北朝鮮・・・平壌市土城洞墓
韓国・・・大邸(テグ)
日本・・・対馬市タカマツダン遺跡、
     同・サカドゥ遺跡、
     佐賀県唐津市柏崎遺跡
1ec4700c

●三翼式青銅鏃 さんよくしき・せいどう・ぞく(やじり)
翼が三方向についた銅鏃。
「…スキタイ高塚の発掘は18世紀に始まり今日に至るまで継続され,レニングラードのエルミタージュ美術館を中心に多くの金銀製の華麗な出土品が収集されている。

 考古学上のスキタイ文化の特色は,
(1)アキナケス型の剣,三翼式青銅鏃(直進性にすぐれ,命中率が高いとされる),闘斧,投槍,ゴリュトス(弓矢筒),札甲などの武器,
(2)轡(くつわ)などの馬具,
(3)動物意匠の特異な装飾美術,
とされる。これらの文化的要素の成立については,今日なお研究者の間に意見の一致をみないが,先行する木槨墳文化の伝統の上になんらかの外来の要素が加わって成立したのではないか,という見解がしだいに有力になりつつある。…」コトバンク
3d584484
ロシア・・・アバカン
      ミヌシンスク
カザフスタン・・・ペスシャトル古墳
モンゴル・・・ホフド、
      ウリヤスタイ
日本・・・壱岐市原の辻遺跡、
     福岡県那珂川町安徳台遺跡
     福岡市姪浜遺跡
     福岡市クエハマ遺跡
     島根県出雲市姫原西遺跡
     兵庫県芦屋市会下山遺跡
     宮城県栗原市伊治城跡
●冠樹木状立飾 かんじゅ・もくじょう・りっしょく
(日本では新羅式歩揺山形金冠などといわれてきたが本来はスキタイ様式。いわゆる藤ノ木型王冠)
王冠に神樹の装飾がある様式。新羅~スキタイ様式
歩揺式王冠の一種

ロシア・・・ホラフチ古墳、ティリャ・テペ、サルマタイ女王墓
カザフスタン・・・イッシク古墳
中国・・・遼寧省(旧北燕国)北票房身二号墓、同・馮素弗墓、同・三燕(旧鮮卑)喇嘛洞IM七墓、内モンゴル自治区ダルハン・ムミンガン(烏桓・鮮卑・エヴェンキ族など)
韓国・・・旧新羅天馬塚古墳・瑞宝塚古墳
日本・・・藤ノ木古墳

●銅鍑(どうふく) 
1~3世紀の青銅の鍋。湯沸し。
スキタイや匈奴が使っていた携帯用鍋
取っ手が両側にある。オルドス式ともいう。
ロシア・・・トゥバ(バイカル湖西南部)モンゴル人種の族
「エニセイ川源流域は古くより匈奴、鮮卑、柔然、突厥、回鶻、黠戛斯、モンゴル帝国など多数の国家が興亡した地であり、テュルク語系諸族のほかモンゴル語系諸族、サモエード語系諸族、ケット語系諸族などが雑居していた。伝統的にシャーマニズム信仰が浸透していたが、18世紀ごろよりモンゴルを経由してチベット仏教(ラマ教)が伝来し、これに伴い他のテュルク系と比較して、モンゴル系と同化する傾向が強くなった。19世紀末には露清間の係争地となり、1914年にロシア帝国の保護領となった。」Wikiトゥバ人
カザフスタン・・・イッシク古墳、ペスシャトル古墳、クルチン
中国・・・吉林省老河深、新疆ウイグル自治区新源県、内モンゴル自治区ホリンゲルほか多数
北朝鮮・・・麻線村東山坡
韓国・・・金海大成洞古墳、金海良洞里古墳
日本・・・長崎県対馬市上県町佐護クビル出土(東京国立博物博所蔵)
http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=4926
●馬冑 ばちゅう
馬の顔面よろい
韓国・・・釜山市東萊区福泉洞10号墳
     陜川慶尚南道 玉田M3号墳加耶時代・5世紀 国立晋州博物館蔵
日本・・・和歌山県大谷古墳(九州式石棺あり、紀氏古墳か)
     福岡県古賀市船原古墳https://mainichi.jp/articles/20161029/ddl/k40/040/470000c
     埼玉県行田市埼玉 将軍山古墳
https://blogs.yahoo.co.jp/nagurikann05/64098246.html


大陸では北魏などの鎧馬騎俑や高句麗の鎧馬壁画に表現されている。
馬冑をスキタイが使用したかどうか不明だが、「馬面 ばめん」ではヒットする。
「馬の額や鼻をおおう馬具の一種。防御と装飾を兼ねている。スキタイなどの騎馬民族が使用していたものが,中国に広まったものと思われる。革,青銅製。日本では古墳出土のものはごくわずかで (和歌山県大谷古墳) ,埴輪の馬にもその着装の様子を示すと思われるものが若干あるにすぎない。平安時代の唐鞍 (からくら) に着ける馬面は銀面と呼ばれ,鍍金銀製で額に挿頭花 (かざしのはな) を飾ることがある。 (→馬具 )   」コトバンク馬面
「うまづら」が検索の邪魔をする。藤田まことに用はないのに・・・。
黒海北岸ソロハ高塚に近いツィンバルカ古墳から2点
b アゾフ海北岸、ベルジャンスク古墳から金製動物闘争文馬面が出土。ツィンバルカ出土の金製グリフィン文馬面とまったく同じ形態
その他多数 参考http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=kfIIPlgCdXEJ&p=%E9%A6%AC%E9%9D%A2+%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4&u=jswaa.org%2Fjswaa%2FJWAA_07_2006_035-045.pdf#search=%27%E9%A6%AC%E9%9D%A2+%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4%27

●積石・木槨・刳抜式木棺
材木を敷き詰めた天井・床・壁を持つ墳墓
韓国の大成洞(テソンドン)古墳に代表される遊牧民様式。
ロシア・・・バジリク古墳、サビリク古墳など
カザフスタン・・・ペスシャトル古墳
モンゴル・・・ノイン・ウヲ古墳
中国・・・新彊ウイグル自治区阿拉溝
北朝鮮・・・平壌梧野19号
韓国・・・慶州皇南洞古墳、中山里古墳、金海大成洞古墳、釜山福泉洞古墳
日本・・・奈良県桜井市ホケノ山古墳、鳴門市萩原古墳

その他のスキタイ的風習
●動物糞を燃料にする
●断熱材として糞を壁に塗る
●馬を犠牲に殉葬する
●動物のの皮を剥ぎ敷物、衣服にする
●振り向きざまに馬上から弓を打つ(パルティアン・ショット)
●武器を折り曲げて副葬する
●ファイアンス製玉 (エジプトのとんぼ玉、ガラス以前の素ガラス)を持つ
糞を利用する風習は、日本神話のスサノヲがアマテラスのイスの下や、戸口に糞をして塗りたくった行為に似る。またスサノヲの所業は、その多くが農耕、田んぼを壊す行為で、騎馬遊牧民にとっての敵への行いに相当するという考えもある(山口博)。

マハーカーラは象の皮を剥いで首に巻く
もともと動物の皮を剥ぐのは、羊などを常食としていたスキタイの風習である。したがって日本で大黒天は音で大国主(だいこく)と混同したが、記紀はむしろスサノヲにこそそのイメージが持たされていた。ゆえに大国主は『日本書紀』一書ではスサノヲの子孫とするケースも。
確かに山口の説にはスサノヲ=騎馬遊牧民とするだけの整合性はありそうに見える。
『日本書紀』は、スキタイ風習を持ち込んだ秦氏と、それを船に乗せてナビゲートしてきただろう紀氏の「スキタイ王」のイメージを、出雲ではただの農耕神だったスサノヲにかぶせて日本の神のひとつに変化させた・・・スキタイ的な人々=北方系ツングースや渡来新羅人らを取り込んだのであろう。つまり3~4世紀には近畿に帰化して定住した人々があり、彼らの荒ぶる性格をよく表現できるキャラクターを探していた。それ出雲風土記の地方神スサノヲだった。

ところが地元出雲では、スサノヲはただの地方神であり、大切なのは大国主と熊野大神であった。もっともそう言い立てるのはヤマトが国造として送り込んだ出雲国造の読み上げる「神賀詞 かむよごと」であり、出雲国風土記の編纂は地元のさほど位も高くない人々であった。これは風土記編纂的には出雲だけの異例なことである。残存する豊後や肥後や播磨や常陸国の風土記編纂はすべて、朝廷が送り込んだ役人によっ速やかに仕上がっている。出雲だけが遅れたのも、そういう事情からだろう。国造たちの言うことを在地有力者たちが聞かなかった可能性が大きい。


つまり彼らには、中央史書編纂における国譲りなどを許容する代わりに、風土記だけはがんとして譲れぬディール(取引)の肝があったに違いない。

しかるに記紀のスサノヲは、あくまで風雨と荒々しい荒神であり、性格の中に騎馬民族的な風習や伝承を植え込んである。それ持ち込むのはまず蘇我氏時代の秦氏による「国記」「帝記」があったはずだ。だがそれは『日本書紀』編纂完了後、おそらく焚書されたに相違あるまい。国に複数の史書はいらない。王が二人いてはならぬように。しかし天武の意思で作られた『古事記』はさすがにすぐに焼いたりできず、そのうちに藤原氏は不遇時代になってしまう。

また熊野大神というのは、スサノヲではなく、その子孫だったイタケル=つまり紀氏の祭る始祖神のことであろう。熊野の山に樹木を植えたのは和歌山の大谷古墳被葬者たち、海草郡の紀氏たちであったはずだ。紀氏の始祖はだからスサノヲなのである。

では、スキタイ=騎馬遊牧民は日本に着たのか?
それは、その子孫としての山背秦氏たちが、自らを月氏、大月氏の子孫として弓月王を上げていることで読めるだろう。少なくとも、秦氏の中で山背秦氏だけには、スキタイの血脈、DNAがあったのではないか?ほかの秦の民のことは知らない。葛野太秦の河勝以下、松尾秦氏などにはおそらく?
とにもかくにも、スサノヲの持っている台風と治水と、そして馬の皮をはぐ行為=遊牧民的なハイブリット構造が神話にだけ置かれたことは間違いあるまい。

馬の皮を機屋に投げ込むという行為は、実は騎馬遊牧民にはむしろ祝福の行為なのだ(山口)。また彼らがやがて東の王侯になって東アジアの岸辺に至るという、西欧詩人の予知もある。
さらに彼らが動物糞を燃料にして、騎馬で遊牧した、あるいは寒冷地では仮の住居に、暖房として壁に塗り込めたり、床にしいてその上に絨毯を置いているという、今でも残る遊牧風習は、日本神話ではスサノヲの悪さにされているものの、実際には当たり前の風習だったことも見えてくるのである。
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16239185.html

参考 山口博『創られたスサノオ神話』
   気まぐれ梟