鉄のシルクロード
人類の製鉄の開始は紀元前1300年頃、現在のトルコ共和国アナトリア地方に存在したヒッタイト王国の国王・ハットウシリシュ大王がエジプトのラムセス二世に送った手紙※(ボアズキョイ文書)が最古の記録でありますが、その時代をはるかにさかのぼる古ヒッタイト王国の時代の地層から鉄器は発掘されていますので、おそらく紀元前2000年くらいにはすでに始まっていたと言われています。

ヒッタイトの鍛治技術はエジプトの攻撃を押し返し、それによってラムセス二世王は驚愕し、その後はハットウシリシュ王とのえにしを結んで製鉄技術を導入してゆくことになります。この時、ヒッタイトの技術者たちはダマスカス~エルサレムという死海の道を通って技術を運んでいきました。紀元前3世紀くらいまでに死海周辺にはヒッタイトたちが住み着いていたのです。おそらく今のシリアなどのパレスチナ人の中にも彼らの血が入っているのでしょう。これが聖書「出アフリカ記」に登場するヒッタイト=ヘテ人です。

かのツタンカーメン(トト・アンク・アメン=アメン神のしもべトト王)王亡き後に、妻のアンケシュナーメンはヒッタイト国王の子を夫に迎えようとピルリウマシュ一世(BC1375~1335)に懇願しています。それほどヒッタイトの鉄はエジプトをてなづけてしまったのです。

その後紀元前11世紀頃にヒッタイトはアッシリアに取って代わられ消滅しますが、民族は各地へ流出してゆき、鉄の技術もダマスカス~エルサレム、バビロニア、パルティアを経て各地へ伝播してゆきました。

エジプトをナイル川を南下したクシュ王国の鉄滓の発見はアフリカに対する文化果てるところというそれまでの考古学者が持ってきたイメージを一変させました。

またエジプトから地中海エーゲ文明のクレタにあったバクトリア(ギリシャ)を経てローマに入り、さらに西へ行ってスペインのピレネー山脈の麓、バルセロナ北部近辺・旧カタロニア王国へも伝わり、カタラン製鉄法という独自の工法が発達します。

東のルートではシルクロードを遡り、現在のアフガニスタンのパシュトウーン人のいるバーミアンやカブール、カンダハール、ペシャワールと言った最近聞きなれた都市を抜けて二つの方角・・・現パキスタン~インド南部ウーツ~チベット~江南の夏、商、殷へ。今ひとつはバーミアンから北上してホータン・楼蘭・敦煌を経て西安、タタールへ。・・・と伝播していったのです。

またチグリスユーフラテスを下ってバビロニア(イラク)を抜けて紅海から船に乗ってインド、インドシナ、海南島へと海の道でも伝わっていったのです。

漢王朝のあった西安周辺でさらに工夫を加えた技術が発達します。それは中東にはなかったマンガン製鉄だったことでしょう。南インドのウーツは中国の鋼を溶かすことができるウーツのるつぼというすばらしい鋼溶解が可能な炉が完成しました。これが山東半島や伽耶を通ってまず九州の西海岸に伝わったのだと東北大学の窪田蔵郎氏が書いています。

有明海からは南周りで薩摩半島をまわり、太平洋沿岸へと伝わっていったのだそうです。北部九州の筑紫からは瀬戸内海を通って近畿へと伝わりました。しかし、この二つのルートに乗った製鉄法にはあきらかに違いがあるのだそうです。

高橋一夫氏によれば「西の炉」と「東の炉」は根本的に違っており、西が長方形箱型炉という、やがて出雲のたたらに発展する高炉を使うのに対し、東国などの太平洋沿岸では半地下式竪型炉を使います。そしてそれは網野善彦氏が言うには中世になってもがんぜんと続けられていった。江戸期にはいってもそうだったのだそうです。

斎明天皇紀には東征将軍である阿部比羅夫ミシハセ(粛慎・えみし?)を遠征したときに海岸に鉄を置いておいたところ、粛慎たちが自分の服を脱いで鉄と交換して持ち去ったという記事があります。蝦夷も660年の頃にもう鉄を知っていたのだといいます。彼らの製鉄法はどっちだったのでしょうか?おそらく三内丸山と九州の物々交換があったことを考えれば、それは太平洋ルートから伝わっていたのでしょう。それとも北のタタールから北海道経由ですでに野だたら製法が伝わっていたのでしょうか?
瀬戸内の岡山県金クロ谷からは7世紀初頭、鉄鉱石を使った遺跡が出ています。また滋賀県源内峠からも見つかっていて、砂鉄一辺倒だと思われていた古代の国内製鉄がそうではなかっという大事件になりました。真金吹く吉備という枕詞の真金とは実はマンガン鉄鋼のことなのです。
これに対して「熊野の真砂」「浜の真砂は尽きるとも」の真砂とはチタン磁鉄鉱(もち鉄)のことです。

砂鉄のたたら製鉄はやや時期が遅れて平安~中世にタタール~中国~インドへと逆コースをたどり日本へ輸入されます。その時にインドで「タタールから来た工法」と言っていたのが「たたら」となったのです。西安方面から一度北上していったアナトリアの製鉄がタタールで砂鉄に対応したのか、あるいはシャーマニズムの女性労働と融合し、あの足踏み式ふいごができあがったのか?

ところで、鉄を溶解する炉の上には古くは(こしき)という蒸篭が置かれます。現代の製鉄所ではヨーロッパから伝わったキューポラという丈夫なこしきを用います。鋳物産業が発達した埼玉県川口市にはこのキューポラがはやくからたくさん使われていました。それが映画になったのが吉永小百合の「キューポラのある町」でした。もちろん埼玉県に鋳物師=イモジが多かったのは、古代からここに鉄があって、稲荷山古墳から鉄剣が出たことと大いに関係があります。埼玉も群馬も茨城も、千葉も、霞ヶ浦沿岸域には佐伯、大生部などの多氏眷属が九州有明から入ったからです。5世紀くらいのことでしょう。また姫路鋳物師は有名ですが、はりまの国名は鋳物である針が姫路鋳物師の代表的産物だったからです。その播磨の姫路鋳物師を中世に招いたのが宮城の伊達政宗でした。そうして姫路鋳物師の技術でできたのが岩手の南部鉄器なのです。これはやがて山形などへ伝播します。山形県民は今でも文化と言えば伊達藩、宮城からだと言います。しかし宮城・岩手の人々は姫路から鋳物が来たことを、果たしてどれくらいの人が覚えていることでしょうか?

文化は伝わります。江戸の町を作っていったのも実は家康が呼んだ西日本の人々が作り上げています。京都や大阪の文化人や職人、漁師、祭祀者、商売人たちによって最初の一歩を踏み出したのです。


さて宗像から出雲の関係は日本書紀にも感じられますし、また日本海沿岸沿いには非常に砂鉄が多く、青森県の三内丸山~新潟県寺地遺跡~石川県チカモリ遺跡、真脇遺跡~出雲大社~吉野ヶ里などなどの高層木造建造物の遺物が並んでいます。また、出石町や玄海灘沿岸にはアメノヒボコの痕跡も多く、さらに多氏大生部と伊福部の石碑・神社もあります。そして同様な高層の楼閣の描かれた土器片が大和の唐古・鍵遺跡から出ています。かわかつはこれはのちに物部氏が取り込んで行く「日本海製鉄文化圏」=みしはせの痕跡ではなかったかと考えています。

五行の器という言葉をご存知でしょうか?
これは朝廷の条例として出された「国郡はみな五行の器を作れ」という命令からきたいわゆる献上品の規定で、そのうちわけは木を切る斧、火を扱う金バサミ、土を耕すクワ、精錬用のルツボ、水を入れる桶・土器の五つです。桶以外はみな金属製品ですし、これは陰陽五行にそった指示なのです。ですから東国の常陸国の国司ウネメの朝臣という人がカヌチ(製鉄師)の佐備大麿=さびのおおまろを率いて、鹿島の若松の浜の砂鉄をとって剣を作ったという記事からウネメの朝臣が東国製鉄のはじまりと言われてきたのは、もともと国司たちが鉄製品を作る義務が生じたためなのです。

同じ常陸国の行方郡には壬生連麿という人物が治水工事をし郡を開発したことが書かれています。この壬生という氏族はもともと古代の朱沙採集民でしたから水銀などの鉱物採集も得意にしており、そこには土木技術に共通する技術を持った氏族がいたことがわかります。

ですから鹿島を藤原氏が大切にしたのは主に北国蝦夷の国境警備もありましたが、一番重要だったのはやはり鉄があったからなのです。ですから大和の石上神宮や香取神宮にも展示されている物部の剣=鉄こそ藤原氏が一番ほしかったものなのでしょう。蘇我氏が引き継いだ守屋の武器を最も欲しかったのは、ですから実際は藤原鎌足だったのかもしれません。(吉田という地名がある地域は藤原氏吉田神道が伝播された地域である可能性が大きいです。伊豆の大仁町吉田は筆者の前の妻の実家がありますが、まさに吉田一族が伊東からこのあたりに神道を広めた地名です。)

こうして鉄のシルクロードを追いかけてまいりましたが、これだけでも鉄の工法がつたわるルートがいくつもあって、すくなくとも三種類の人種が来訪したのだろうという推測もなりたつわけなのです。この新論説集の目的は実は日本人はどこから来たのか?を追求するために始めたのです。それはかわかつのブログ「民族学伝承ひろいあげ辞典」もまったく同じです。

かわかつにとって鉄のシルクロードは日本人の来た道を探す補助線のひとつに過ぎないのです。

2007年3月19日かわかつ
参考資料 
『続鉄の文化史 日本の軌跡と東西の邂逅』新日本製鉄広報室編集所収、福田豊彦『八~十世紀、地方の時代開幕期の鉄』 網野善彦『日本中世の製鉄と鉄器生産』 窪田蔵郎『ヒッタイト王国を築いた鉄』
『アフリカクシュ王国の鉄』『スペインのカタラン製鉄法と日本』 佐々木稔『ローマの釘』
ヴィレム・フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史と文化』
星野之宣『宗像教授異考録3神在月』
http://www.oct-net.ne.jp/hatahata/tetunomiti.html


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アナトリアのハットウシャは現在のトルコの町・ポアズキョイの位置にあったヒッタイト王国の首都です。ここを中心とする地域をアナトリア地方と呼び、カマン・カレホユック、アラジャ・ホユック、ハットウシャ、マシャット・ホユックなどなどの数多くの遺跡が存在するそうです。
ホユックとは丘のことだそうです。

アナトリアは世界最古の製鉄が行われたという記録がある石版が出た場所で、大村氏はもう20年以上前からここに製鉄遺構を探しに単身留学し、新しい成果をどんどん出しておられます。
ボアズキョイで出たこの石版に記された楔形文字が出る以前から、アナトリアからはたくさんの不思議な土偶などが見つかっていました。それをスタンダードと呼んでいます。スタンド=立像ですが、ステータスシンボルとかステータスアイテムという意味で使います。

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多くが鹿の形をしていますが、これこそが世界中の鉱山氏族がシンボルとした聖なる獣なのです。日本でも鹿のつく地名にはたいてい鉱山氏族の痕跡が残っています。鹿の角は毎年生え変わり、それは「生命の再生」という願望を古代人に持たせたのです。

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紀元前1900年頃にここにアッシリア王国が成立し、次に紀元前1750頃にはプレヒッタイトが存在。その後紀元前1200年頃からがヒッタイト王国が本格的に登場しました。これは中後期青銅器時代にあたるのですが、実は鉄製品の遺物はすでにアッシリア時代の地層からすでに出てきます。


ボアズキョイの文書の中に「キズワトナ文書」という手紙が出てきます。
そこにははっきりと「ハパルキア」「アン・パル」などの「鉄」を意味する言葉が書き込まれているのです。大村教授が特に注目する一文を掲載しましょう。敵国エジプト王からの鉄の要求に応えて、アナトリア王は頭をひねって考え抜いた応答をしました。

 ●「あなたが私に書いてきた良質の鉄に関してでありますが、良質の鉄は今キズワトナの私の倉庫ではきらしております。(以前)書きました通りに、今は製鉄には悪い時期なのです。(中略)できあがりましたら私はあなたに(良質の鉄を)送りましょう。今日のところは私はあなたに一振りの剣を送ります。」

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この文書の「今は製鉄には悪い時期なのです」という意味を、大村氏は「まだ季節風が吹く時期ではないのです」という意味だととらえました。なんと正鵠を得た着想でしょう!!

というのも、アナトリアの製鉄遺構の多くは北西を向いているからであります。北西とは世界中、モンスーンの吹いてくる方向なのです。ということは燃料の乏しい中で、ヒッタイトたちは日本の野だたらのように炉の口を秋の季節風が吹く北西に向けることで高熱を得て、なんとか鉄を溶かしていたと考えられ、つまり製鉄によい時期とは10月~11月だという結論に至るからです。

日本でも伊吹山の伊福部氏も11月を製鉄、炭焼きの始めとしました。北西を向く神社はたくさんありますし、逆に風を鎌で切る「風切り儀式」や「薙ぎ鎌神事」は春秋の強風を避ける儀式です。これは世界中に言える事でした。ですから10月~2月にかけて火の祭りが今でも世界中に多いわけだと思いますね。火は金に勝つ・・・すなわち火剋金・・・鉱物は火によって形を変えられる。すなわち火の祭りの多くは鍛治神を鎮魂する儀式だと言えましょう。

ヒッタイトの製鉄技術はでは他国へとゆう出していったでしょうか?それはまだなにもわかっていません。しかし、ヒッタイトはオスマン帝国が台頭するはるか前に消えてなくなります。ヒッタイトの山師たちはどこへ消えたのでしょうか?


想像すれば、季節変動と砂漠の広がりで、炭となる植物が枯渇するにつれ、山師たちは樹木を探す旅に出たのではないか・・・というのがかわかつの考えです。


旧約聖書ではイスラエルの民・アブラハムの一行が妻・サラの死を迎え、埋葬のための墓(石室墳墓)を求めてヘテ人にもらいにゆくシーンが出ています。これが創世記の49章にある以下の文章です。
彼はまた彼らに命じて言った。「私は私の民に加えられようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。そのほら穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買い取ったものだ。そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクとリベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。その畑地とその中にあるほら穴は、ヘテ人たちから買ったものである。」ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。
 創世記49:29-33

いつのことかは知りませんがおそらく起源前の話です。少なくともこの時にはヘテ人(ヒッタイトはヘテの英語発音)はまだアナトリアを出てそう遠くない死海のあたりに留まっていたのでしょう。それから彼らが出て行った・・・というよりも彼らの技術は一人歩きしてチグリス川を下り、あるいは砂漠を隊商とともにインドの西へと移動したのでしょうか?それは誰にもまだわかりません。
しかしその後、確かに製鉄技術はインドでも始まるし、そして中国にも到達しています。それが西からきた技術なのか、あるいは彼らが単独で考え出した技術だったかはわかりません。もちろんイランやバビロン(イラク)などに伝わったものが別の人々によって伝えられたかも知れません。けれどその技術はアナトリアのものでしょう。

つづく  2007年3月4日かわかつ
参考文献
大和岩雄『十字架と渦巻き』白水社
大和岩雄『古事記成立考』大和書房
大村幸弘『アナトリア発掘記 カマン・カレホユック遺跡の二十年』NHKBOOKS
平凡社『日本の美術2』







さて、中国の製鉄は江南に始まります。これは米作の開始よりもずっと早いのです。
そして日本へは江南から直接海を渡るケースと、朝鮮半島経由のケースと、さらに少し遅れてモンゴル平原にあったタタールから南下してくるケースと三つのルートが考えられています。これは米の伝播ともあい通ずるし、またシルクロードの商隊を通じて伝わる物品とも関連するでしょう。ただ製鉄は米作よりも早いということだけは忘れないでください。早くにできあがった文化は早くに伝播したはずなのですから。

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ここで大和岩雄氏『十字架と渦巻き』を見てみましょう。
日本の弥生人は縄文からの古い伝承を捨てずに自分たちの文化にちゃんと反映させています。それは渦巻き、蛇の鱗模様、鳥、日月、などに表される「再生への願望」です。縄文土器の縄目模様は蛇の形をあらわしています。もっと言うなら、縄こそは蛇そのものなのです。従っておすもうさんが土俵入りで拍手の後に手をこする仕草は、まさしく縄を綯う仕草そのものです。神社へ行ってもわれわれは拍手こそすれ手をこすり合わせるまではしなくなりましたが、本当は縄をなうように祈りを込めなければ意味がないのかも知れません。

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人類の再生へのあこがれは「不老不死」への願望へと発展してゆきます。それは縄文土器にすでに形となって現れています。


これらは縄文から弥生、古墳時代にかけていかに渦巻き紋が不老長生のシンボルとされたかの証拠写真です。渦とは永遠です。単なる円では一瞬にして時間が終わりますが、二重丸、三重丸、そして渦巻きへと線分を延長することが、まるでメビウスの輪のような無限を表すのです。







そして渦とは蛇のとぐろであり、また女性性器の形状を指し示しているのです。女性とは母です。母の胎内から生じる命こそが神秘の局地であり、だからこそ世界中で山の神が女性とされてきたのでしょう。

その山の神は中国では女媧(じょか)とされています。このジョカのカの字は女偏に渦なのです。
最初は女偏はつきませんでした。ただの渦のさんずいのない形でよかった。「咼」は渦が巻く様子を現す漢字です。やがて陰陽の哲学が生まれだすと神は夫婦の二対になってゆき、男の神である伏儀が付け足されたために、女偏がつくようになります。従ってもともと山ノ神、天体の神、万物創生の神は女性なのです。



女媧は粘土をねって万物を創り出したといいます。それこそがまさに土器を創り出すのが女性の役目だった縄文人などの古代人、のみならず世界中の土器製作者が女性であった証となるのです。
ですから縄文土器の壷は女性の肉体をそのまま写します。それも妊娠した母親の体です。


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上にある土器の書写は大和岩雄氏の著書からの転写ですが、真正面から見ると、まさしく母親が出産する時に、大腿部を広げた姿を写したものでしょう。膣にある壷の中ほどから胎児が顔をのぞかせているのがこの土器の構図なのです。




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また古墳時代の三角縁神獣鏡や弥生銅鐸にも、不思議なことに女媧から発想された女神である西王母が斜めに座る姿が描かれ、手には永遠のスタンダードとしての枷(かせ)が持たされています。枷とは機織りの糸巻き道具です。糸巻きはのちに苧環と呼ばれますが、『源氏物語』『太平記』あるいは三輪神話でも、苧環は霊的呪具として出てきます。神獣鏡も呪具、道教も神仙思想も呪を使います。呪とは女性がもくもくと作業を続けられる忍耐力の不思議を、最初は言ったに違いありません。

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上あるほら貝は土器で作られています。新潟県山北村から出土した縄文後期の壷です!が、これほどズバリと渦巻きをオブジェにした土器はほかに見当たりません。巻貝の形状はそのまま女性性器をあらわし、それは生命の誕生する聖なる場所、聖なる部品となるのです。そしてそれは死を迎えたとき、また胎内へと回帰することによって再生するという願いが込めらることとなります。それが前方後円墳の形であり、甕棺の形状であり、横穴墓の形状です。沖縄の古い墓などはもうまさしく性器の形をしています。また平安京やソウルなどの都市は女性性器の形状の中に建てられています。


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これが風水なのです。その風水は道教の陰陽五行に大成されてゆきます。
プレ道教の哲学は中国王朝の基盤となっています。いわゆる神農氏黄帝ケンエンに始まる王統はすべて江南のプレ道教思想に満ち満ちています。

渦と蛇こそが最初の神仙思想なのです。
これは洋の東西を問いません。



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世界中どこを見回しても古代人が創り出す幾何学模様は、組みひものからまった形状や蛇のとぐろを模しています。あるいはエジプトでは昆虫に模されています。スカラベもそうですし、エジプトの王が被っているシマシマの頭巾の形状はこのような眉の中の蛾のさなぎの頭部のイメージで作られています。



さて、アナトリアから鉄の文明が東へも行ったのだと思えるものが、三国志の時代、蜀の諸葛孔明が発明した戦車「鉄の馬」として存在します。孔明はいったいどこからあのような鉄の馬を考えついたのでしょうか?
アナトリアにはすでに何千年も前に戦車がありました。孔明が鉄の馬を用いるのは黄河より北にある魏を相手にする時です。赤壁の戦いでしたでしょうか?もしかしたら江北の漢人たちはまだローマの戦車を知らなかった。これがお隣の呉が相手だったらどうでしょうか?呉王・孫権は江南の人です。きっとすでに馬車を知ってたでしょう。それ程驚かなかったかもしれません。通商流通いずれをとってもこの時、江南の方が情報が早く入っていたのかも知れませんね。

これはローマから伝わったに違いありません。当時、大秦国と呼ばれたローマは始皇帝の時代にすでに商業貿易で通商関係がありました。そのローマの戦車は実はアナトリアの戦車を真似て作られています。原型はアナトリアのヒッタイトのものだったのです。


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つまり諸葛孔明の鉄の馬の原点はすでにヒッタイトが持っていたものだった。それならば製鉄だってローマを通じてヒッタイト文明の発展したものが来たのだと考えられないわけではないでしょう?
そして鉱物氏族たちの持つ伝承や、習慣も一緒に伝播した可能性もあるわけです。
中国の王朝は常に江南の神農氏を祖としてきました。それは北方の女真族から出る漢民族の国家になっても続けられました。そして神農氏の神仙思想は脈々と継続し、隣国の朝鮮、日本にも取り入れられてゆきました。それは鉱物を大地母とする猿の思想でした。
猿とは申の方角・・・すなわち西をしめします。西とは金気の方角で、獣では白虎にあたります。色は白です。たとえば『西遊記』の孫悟空は石から生まれたサルですが、それは花火山水蓮洞にある巨石となっています。母なる鉱物、山・・・そこから生まれたのがサルの孫悟空でした。これはもう神仙思想そのものといっていいお話に作られています。すなわちサルとは金=鉱物のことです。
そのサルを祖とし、片目片足だったとされるのが夏王朝の開祖である夏王禹です。禹王は黄帝の子孫。神農氏の系譜になります。ですからサルの一族は山師です。そしてのちに放浪の民となり、各地に芸能を伝承する氏族が生まれます。日本では猿丸太夫と呼ばれ、柿本人麻呂の後裔とされます。また放浪の民は水先案内ともなり、猿田彦が生まれました。
猿と仲が悪いとされる犬も山師です。行く先々で山を奪いあうから仲が悪い。しかし犬もまた西をさす動物です。犬は北西をしめしますから、鍛冶屋の神です。猿と犬の間にある真西をさすのが鳥です。猿、鳥、犬。犬は多産ですから今でも子宝の神様です。子宝とはもともと金のことなのです。
鳥は本来中国では鳳凰・朱雀ですが、日本では雉になります。これで桃太郎の三けらいがそろいました。


猿が芸能の神となるのはインドでも同じで、民謡や詩人、吟遊詩人はみな猿です。
日本で犬の子孫だといっているのは阿多の隼人でした。また猿の子孫はおそらくオオ氏でしょう。
どちらも山師でした。それは山師が武力に必要な民だったから、氏族は犬、猿、鳥の民を抱え込んでいたからです。鉱物は火に焼かれて道具となり、武器となります。武器は力であり、それが氏族を繁栄させます。ですから鉱物は宝です。宝が来れば豊かになる。これが蓬莱思想であり、それは鉱物資源のある場所となります。一富士二鷹三茄子と申しますが、富士は鉱物神である大山積の娘・このはなさくやのご神体ですし、鷹は修験者や鉱脈を指す隠語なのです。なすびはなんなのかわかりませんが・・・・。
つづく  2007年3月4日かわかつ

参考文献
大和岩雄『十字架と渦巻き』白水社
大和岩雄『古事記成立考』大和書房
大村幸弘『アナトリア発掘記 カマン・カレホユック遺跡の二十年』NHKBOOKS
平凡社『日本の美術2』
追補 茄子はおそらく物実(ものざね)でしょう。男根。すなわち鉱物によって作られる剣のことでしょう。陰陽の陽。













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