●文献史学網野善彦 『異形の王権』平凡社 1986喜田貞吉 『太秦牛祭の変遷』 1920井上満郎 『渡来人 日本古代と朝鮮』 (株)リブロポート 1987加藤謙吉 『秦氏とその民 渡来氏族の実像』 白水社 1998下出積與編 『日本古代の人と文化 ...
2009年04月
纏向遺跡3 区画
実のところ今回はかなりてこずっている。膨大な調査を取りまとめるのが遅くなったという発掘者側の事情も、かなり実感している。なにしろ情報が多すぎるのである。さて、纏向遺跡の現状における区画である。今後、纏向遺跡の範囲がどれだけ広がるのかは、あたかもガウディの ...
纏向遺跡2 周辺プレ都市の九州人と遺跡の範囲
纏向遺跡の特徴のひとつに、北部九州からの土器がほとんどないというのがある。はたして纏向には本当に北部九州人は来なかったのだろうか?そこで纏向の中心年代である三世紀後半の同時代遺跡はどうなのかを少し考えて見たい。摂津・田能遺跡 全国初の木棺出土遺跡。纏向よ ...
纏向遺跡1 遺跡考証の大前提
纏向遺跡の考証に入る前に、例によって筆者の遺跡分析態度を明確にしておきたい。このような大遺跡に対するのはおそらくこれが初めてのことゆえ、眼の肥えた好事家諸氏のご期待にお答えするほどの知識も自信もなく、誤りもあるかも知れないことを最初にお断りしておく。纏向 ...
虎塚古墳装飾と被葬者推定
画像上から 虎塚古墳遠景東壁装飾西壁装飾東壁装飾書写西壁装飾書写周辺古墳群分布図玄室から玄門石室正面装飾所在地 茨城県東部 ひたちなか市(旧常陸国那賀郡・今の仲地域)大字中根字指渋(さしぶ)那賀川沿線 上流は栃木県那須岳周辺の主な古墳 虎塚1~6号墳(分 ...
鹿島の砂鉄・采女朝臣と佐備大麿
「慶雲元年(文武朝・704年)に国司の采女朝臣は、鍛佐備大麿らを伴って、若松の浜で砂鉄を採り、剣を作った。ここから南の軽野の里の若松の浜までの三十里あまり一帯に、松の山がつづき、マツホド、ネアルマツホドなどの薬草も毎年採れる。この若松の浦は、常陸と下総の ...
塩釜
古代の製塩地帯分布大陸の塩釜分布塩釜の分割鋳造『両准塩法志』日本の製塩法は最初、藻塩から始まる。海水をふくんだ海草を天日で乾燥させ、塩の結晶を集めて、そこに海水をかける。したたった水をかん水と言い、これを土器で煮詰める。海草の代わりに砂を利用する塩浜法が ...
人を食う神・マハーカーラ
With2ブログランキングへ「摩多羅神とは摩訶迦羅天であり、また吁枳尼天(だきにてん)である。この天の本誓に「経に云う。もし私が、臨終の際その者の死骸の肝臓を喰らわなければ、その者は往生を遂げることは出来ないだろう」。この事は非常なる秘事であって、常行堂 ...
間人・ケットとマット・羽束師・長谷・土師・たいざ
マットとケットは新潟県中魚沼郡でそう言う村民がいたそうだ。マットはまともな平民を指す。「まひと」=真人の俗語である。対してケットはケットーで毛人(けひと)でありクマ人・肥人などと同種、苗場山の西の渓谷・秋山あたりの村落がそれで、「秋山者」とも呼ばれる賤民 ...
海行かば 佐伯氏家訓と蝦夷の勇猛
「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ のどには死なじ」 大伴佐伯氏家訓訓読 うみゆかばみずつくかばね やまゆかばくさむすかばね おおきみのへにこそしなめ のどにはしなじ大意 大君のためならばしかばねを海の水に浸し、山の草に埋めようと ...