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前回書いた奴国の初期鋳型のある工房が見つかった遺跡とは、須玖タカウタ遺跡である。
https://mainichi.jp/articles/20170726/k00/00m/040/158000c

2017年の夏、この発見が、北西部九州工房と奴国工房の関係をあきらかにすることになった。

一番の大発見は多鈕鏡(たちゅうきょう)の鋳型だった。それまで多鈕鏡はすべてが半島の製品とされていた。それが鋳型の発見は、国内での生産が可能になっていることを教えたのである。

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ほかにもさまざまな遺物が。
石剣もそうだ。

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これで奴国が日本で最も古い工房群の遺跡であり、その製品が西九州から東日本、近畿まで、、一手に生産を引き受けている工業立国だったことが証明されたのである。


多鈕細文鏡は近畿と九州でわずか10枚しか見つかっていない。
ほとんどが弥生中期初頭の朝鮮半島産である。鈕が複数配置され、鏡面にわずかなくぼみいがあるため、光を集めやすい構造ゆえに、シャーマンの祭具とされてきた。背面は幾何学模様で、直弧文の直線だけに見える。
中国の前漢鏡よりも古い。


出土した著名な王墓は吉武高木遺跡がある。前漢以前の巫覡王のステータスだと考えられる。
半島のそれよりも重弧文や鋸歯文が加わっていて、決して単純模様で古いからと言って意匠はいい加減ではない。半島の鏡を写実的に写しただけではなく、そこに独自の意匠を凝らしてあるのである。

渡来弥生人は、本家の半島人よりも、数段上の個性、凝りを追求する人々だったことになる。


おそらくこういう人々が関西へ移動しなければ近畿や大和の意匠の高尚さや独自性は生まれ得なかったのではないか?

なんとなれば、江戸文化もまた、西の大阪の魚河岸の人々から始まる。日本の基層にある文化の多くが、九州↓上方→江戸へと拡散した流れは太くがえんじがたく歴史に根付いたとしか思えない。

のちには逆の流れもあった時期もあるが、最初はやはり西端の奴国から広がったのである。















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