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6月のおすすめ著書
新野新吉『古代日本と北の海みち』

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靖国カレンダーというものが靖国神社の英霊にこたえる会から出ている。ご存知だろうか?

まずは諸氏の視野をはるかに遠くしてもらうために新野が持ってきたよい前例を。
平成5年の靖国カレンダーに「奇跡の椰子の実」が載っている。



 
旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル  松江城の天守閣に登る
城のそばにある松江護国神社「神社には『奇跡の椰子の実』が紹介されていた
第二次大戦末期、マニラから望郷の念をこめて友人の名前を書いた椰子の実を海に流した。31年の歳月が経って日本に流れ着き拾われた。」
https://4travel.jp/travelogue/10629559


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おふくのブログ 
奇跡としか言えない!フィリピンの戦地から故郷へ流れ着いた[奇跡の椰子の実]に込められた想いが・・
「戦地から流した椰子の実が30年の時を経て
島根県出雲市出身の陸軍軍属であった山之内辰四郎さんはフィリピンのマニラ船舶司令部に所属していた。昭和19年、戦況悪化でジャングルの中へ後退する前に、望郷の思いから椰子の実に友人の宛名と自分の名前を書いて海に流しました。その1年後に山之内さんは戦死。しかし海に流した椰子の実は31年間も漂流し続けて、昭和50年7月、島根県大社町稲佐の海岸に流れ着きました。この時、ちょうど魚釣りに来ていた出雲市小山町の男性がこの椰子の実を発見。よく見ると椰子の実に何かが書かれているが読みにくい。数日後、表皮が乾いてくると文字が読めるようになりました。「所原村 飯塚正一」と書いてあった。
その人はこの近所(出雲市)に住んでいた。飯塚さんのことでした。早速、飯塚さんにその椰子の実を渡しに行きましたが、肝心の差出人の名前がどうしても読み取れません。「一体、誰なのか・・・」戦時中、衛生兵として病院船に乗船していた飯塚さんは戦友の名簿を調べ、家々を訪ねました。その数は百人にもなりました。年が明けて正月に餅つきをしていた際に、飯塚さんは同郷の山之内さんの名前を思い浮かべました。山之内さんとは同じ青年団で活動をして
昭和19年にマニラで再会した時に、病院船で日本とマニラを行き来していた飯塚さんが山之内さんと奥さんとの橋渡し役をしていたのです。その時、山之内さんが「もう日本に戻れないかもしれない」と言っていたのを思い出しました。早速、山之内さんの家を訪ねましたが、既にそこは廃屋となり誰もいなかった。しかし、世の中とは不思議なもので、偶然に墓参りに来ていた山之内さんの妻きよ子さんと会い、すぐにその椰子の実を見せました。すると、きよ子さんの表情が変わり、突然泣き崩れました。きよ子さんが大切に持っていた手紙には「近く飯塚君が帰国する」と戦地での飯塚さんとの様子が書かれていて、筆跡も同じものだった。その後、この椰子の実は山之内さんの奥さんと飯塚さんが話し合い、靖國神社に奉納することにしました。
今も靖國神社の遊就館に「奇跡の椰子の実」として展示され、訪れる人達に感動を与えています。」https://ameblo.jp/hayonipiiku-go/entry-12338827307.html

椰子の實



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この話よりずっと前に島崎藤村が書いた唱歌。

作詞 島崎藤村

作曲 大中寅二




名も知らぬ遠き島より

流れ寄る椰子の實一つ



故郷(ふるさと)の岸を離れて

汝(なれ)はそも波に幾月



旧(もと)の樹は生ひや茂れる

枝はなほ影をやなせる



我もまた渚を枕

孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ



實をとりて胸にあつれば

新(あらた)なり流離の憂ひ



海の日の沈むを見れば

激(たぎ)り落つ異郷の涙



思ひやる八重の汐々(しほじほ)

いづれの日にか國に帰らむ


「「椰子の実」(やしのみ)は島崎藤村が執筆した詩である。1901年(明治34年)8月に刊行された詩集「落梅集」に収録されている[1][2]。

この詩は1898年(明治31年)の夏、1ヶ月半ほど伊良湖岬に滞在した柳田國男が浜に流れ着いた椰子の実の話を藤村に語り、藤村がその話を元に創作したものである[1]。」 Wiki「椰子の實」


先の松江の話と島崎藤村の歌には、時代が違うのでまったく関係はない。柳田國男はどうやら伊良子で偶然流れ着いて浮いていた椰子の実を拾ったようで、それを友人の藤村に語り、藤村はそれを題材に『椰子の實』の歌詞を書いた。


つまりやしのみが日本に流れ着いたできごとは、少なくとも発見例だけで二件あったわけである。発見されなかったものも入れるとかなりそういうことはあるのだろう。松江湾の椰子の実はフィリピンのマニラ湾に流され、31年もの歳月を経て、なんとも不思議なことに彼の故郷である松江にたどり着いた。しかし自然の流れで右往左往したあげくの到着で、これが人間が漕ぐ舟であれば、もっと早く(おそらく一年以内に)たどり着くことだろう。


筆者は何が言いたいのか?
わたしたち世代(表倭30年生まれ)は戦後生まれだが、ちゃんと学校でこの唱歌を習っている。
この唱歌を知っている世代と、知らない世代では、おそらく日本古代人を考えるときに、大きな視野の広い狭いが生まれることだろうと感じる。ヤシの実ははるか南洋で海に落ちて、日本にたどり着くことがある。それは回流のなせる技である。


イギリスのトインビーという博士がかつて、日本と英国という東西の同じ島国を比較して、こう言っていた。

「英国と日本では、その大陸との間にある海峡を舟で超えるときに、はるかに難しさが違っていた。ドーバー海峡はいとも簡単に、簡易なボートでも渡れるが、日本の朝鮮海峡は、造船技術が進化し、頑強で立派な船がなければ渡れなかった。だから英国には大陸文化は旧石器時代でもやってきたが、日本の古代人にはなかなか大陸の新文化が来るのが遅れてしまったのだ」


ふんふんとうなずいたあなたは、これから書かれることによって、おそらく目からうろこをはがれることになるだろう。そういうオーパーツのごとくありえないだろう遺物や新発見のことを書こうと思う。トインビーの意見はすでに過去の遺物的論考になろうとしている。縄文人は舟で中国に行っていたのである。そして日本中に斑状に住んでいて、となりに渡来人がやってきたのが弥生時代だった。



その通り、実は考古学の遺物にも、以前ならありえないといわれてきた縄文時代の北海道縄文人が中国長江文明の遺物を模した土器が出ている。

新野直吉『古代日本と北の道』2016 吉川弘文館

には、そういうありえないといわれてきた歴史常識を打ち砕くようなある種の「オーパーツ」的な遺物や実例が満載されていて、ちょっと歴史研究家や学者や、それらに関心はない人々の目からうろこをいとも簡単にひっぺがすのである。私たちが考えている日本人のイメージや遺伝子的解説、あるいは稲作の伝播の本当の姿を、この本は次々に提示しているのである。


今日まで10数年、古代史について何百冊もの本を読み漁ってきた筆者ですら、これは日本人の来歴や、縄文文化、縄文人と弥生人の混血、倭人とは別の蝦夷たち単独の中華・朝鮮との交易がもっと早くから、行われていて、渡来した弥生人が、縄文の知識や文化から多くの影響を受けていたことを見直さねばならないと感じさせられてしまった。


以前ここにも北海道縄文後期の環濠集落について書き、稲作は着ていないが環濠だけは届いていたと記事にしたことがあるが、先年、朝鮮半島南部の金浦において、炭化米がたくさん発掘されており、日本海縄文世界とそこがあまりに近いことがわかってきたし、稲作は届かずとも米は届いているとわかってきた。遺伝子学の佐藤洋一郎が、すでに何年も前に日本の稲にはA/B二種類の遺伝子を持つ米があって、それがどのような改良を受けた米にも共通して受け継がれる遺伝子であり、Bはあきらかに南方系だったこともここには書いたのに、あるいはこのブログの最初からのコンセプトが、日本人が弥生でも縄文でも、どこへでも舟でいけたのだという前提で古代を考え直すものではじめたはずなにの、まさかここまで縄文人が海外へ往来し、九州の弥生人とも早くから交流や混血をした可能性にはついぞ行き着かなかったのに愕然としている。

遺伝子学ではゲノム分析が進んで、日本人のルーツがバイカル湖だけに限らない(実は新野に言わせればバイカル湖周辺は北の縄文人のルーツだとしてある)、南はインドシナ、西は江南・南朝や南越、柳江~台湾~琉球諸島コースにも求められると変化している。かつてはそんなことを筆者が書いても、誰もが相手にもしなかったような日本人起源の妄想が、いまや当選の事実になってきた。それはかつて人類学が言ってきた日本人二元論にすら留まらず、もっと複数の来訪者が、新野の説に従えば日本列島に斑状(はんじょう)に縄文人が住んでおって、後着弥生渡来人と住み分け、あるいは混生して共存を、なんと江戸時代でもできていた!!という十つに遠大で、気の遠くなりそうな仮説を考えねば日本の古代は理解できないぞと、訴えかけてきたのだった。しかも弥生人と縄文人だけでなく、大陸ですでに複数種類の旧人との混血をしていた、それこそ何通りもの混血原日本人が、それこそばらばら、まちまちに列島へ移動し、それが複雑な地形の分断され、孤立化しやすい日本の地勢ために、何世代も他者とは交わらずに、あるいは積極的に交わりながら、何通りもの日本人を作っていった・・・それが戦後ようやく交通網の整備によって自由に往来し、さかんに混血して、東京人や大阪人に代表される大都市での日本人均質化が一気に進んでいる・・・つまり結果として古代から江戸時代まで続いていた民族の個性、民俗の個性が消えてゆくという、まるで民俗学者が苦しんでいる今日的な命題を、一般歴史好事家ですら共感し、共有しなければ真実の古代が見えてこなくなったというあせりまでも、この本は見事にくっきりとさせてしまうのだ。


この大前提では、たった山ひとつ隔てただけの地域に、弥生人と縄文人が隣り合って、つきあうこともなく、あるいは反対に影響しあいながらも、それぞれが互いの文化的個性をさして大変化させずとも江戸時代まで平気で共存できたということなのであり、邪馬台国の隣に縄文の狩猟と野生世界が共立していた古代日本を思い描かせてしまうのである。その狩猟採集の縄文世界人(すでに弥生人・縄文人という区分けそのものが問題になろうとしている)が、おとなりから米を交換して食べたり、例えばここでも書いたことがあるが「源氏物語」で姫が北海道や大陸でしか取れないひ熊やミンクの毛皮を着ていると書いてあったり、弥生世界真っ只中のはずの岡山から日本最古の長粒種米が大量に出たり、九州からも土偶が出たり、日本海沿岸に縄文人が建てたとしか思えない木造の高層建築がずらりと並んでいたりするのを、われわれはちゃんと知っているのに、また『日本書紀』神武で熊野のイヒカのような縄文的土雲やナガスネ彦が記録してあるのに、そういうところを読み飛ばして、大和は大和、九州は九州につごうのよい遺物と遺跡によったご都合解釈を次世代学生に押し付けてきたことを反省すべきなのである。


纒向を発掘した宮城県出身東北人の樋口ですら、三角縁神獣鏡は邪馬台国の鏡だと言い、画文帯や四神鏡なども加えて、その意匠のすべてはあまりも江南・南朝の神仙思想由来である不思議を問わない。ところが北部九州で出る1~3世紀の鏡は正反対に北朝・漢の鏡である不思議もだ。これはあきらかに日本は3世紀、ふたつの朝貢文化圏が対立して存在したことを語るのであり、邪馬台国が大和にあったのなら、その正反対の朝貢国家であった北部九州を共立連盟にしなければ存続できないことには言及しない。それは明白に並立であった。では大和はどうやって北部九州を飛び越えて、その西にある江南南朝=呉と交流できたのか?ここを誰も考えない。九州を無視するのか、あるいは太平洋で南九州の日向隼人を取り込むか?ではあるまいか?『日本書紀』にはだからこそ出雲の縄文+北部九州+吉備共栄圏をまず滅ぼして、なぜか南九州へ天孫が降りてくるのではないのか?そう考えないほうがおかしいろう。古代政治構造はねじれていたのだ。近畿が南朝、筑紫が北朝と深く付き合っていた。驚くかもしれないが南朝呉国とは南九州熊襲・隼人もつきあっていた。そして各地には、それぞれのシンパが混在していた。それが紀元前終末~3世紀の倭国の政治状況である。そして卑弥呼の時代に呉は魏に敗北。蜀はもっとはやくに敗退している(諸葛孔明の死後すぐ)。また四国時代とも言われた遼東の公孫氏

も敗北。この公孫氏を通じて中華文明を取り込んで台頭したのが大和や丹後や古志や山背国である。



その南九州熊襲を北部九州が異人視していることは、『日本書紀』は大和のこととしてあるが、それが筑紫の政治姿勢だと充分想像できるはずだ。異人種として何度も熊襲がやられた理由には、それが大和ではない、北部九州王家が敵視した相手=狗奴国だと、大和説学者はなぜ素直に思いつかないのか?そこには明治以来の大学内の徒弟制度、学閥によって、弟子たちが、なんらの疑念もなく師匠のカビの生えた古い理屈を頭に受け入れてきた失敗があるのではないのか?先の樋口にせよ白石にせよ、若い寺澤にせよ、京大学派がいつまでたってもふんぞりかえり、あやまった史観を弟子に植え付け、傀儡にしている姿しか嶺なのである。戦前の『日本書紀』神話教育は尋常小学生までである。それで充分だった。だから彼らには自分たちが皇国史観教育の権化であるという意識すらないのである。そんなもの学んではいないと思い込んでいる。ところが小学校で叩き込まれている無意識の天皇=神、批判は不遜というどうしようもない無意識が、小林も白石も、権威たちをとりつき、押さえ込む。京都・近畿・大和右の見えない市民の意識も彼らを手繰ってしまう。誰もがしらずのうちに。無意識にである。そこにはツミもなければ、客観もないのだ。

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上図右端 青森県虚空蔵遺跡出土鬲型縄文土器



青森から三本足の土器が出ている。鼎とか鬲(かなえ、へき)と中国で言われた金属器の模倣品だと思われる。しかし日本の学者はそんなものはあるはずない、あっても土器で作るなんか変だと決め付ける。反りのある青龍刀の模倣品である石の祭祀用剣が出ても、偶然だと言う学者もいる。明刀銭現物が出ると琉球経由で九州渡来人によって持ち込まれたと言う。北部九州に多いゴホウラ貝腕輪の断面を模した渦巻きや、ほら貝を的確に精緻に再現した縄文土器や、漆塗りのすばらしい土器が出ていても、誰かが経由して持ち込んだと考えてしまう。そういう時代が戦後も久しく続いた。無駄な時間だけが過ぎ去った。誰もが師匠の資料に少ない時代に思いついた無知な意見の僕となってきたのである。


少なくとも西日本の縄文晩期には、東北から北海道の縄文時代人たちは、中国南部まで行った。行ったのである。そのときにおそらく交換の品々を、当時は煮炊きだけでなく運搬容器でもあった縄文式土器に入れ込んで舟で向かう。ならばいずれは中国の港で縄文土器が出るだろう。弥生の土器も出るだろう。いや出ているだろう。中国の安定化と西欧化がもっと進めば、世間にそれが公表されるだろう。政治的に、中国政府や韓国政府、北朝鮮政府幹部は、日本に都合のいい遺物は公表していない可能性が高いからだ。


そういうものがマスコミや闇市で出るようになれば、彼らもやっと古代から脱皮したことになるのであろう。期待している。まあ、そのころわれわれはもう生きては居るまいが。



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