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岸俊男『日本古代政治史研究』所収「たまきはる内の朝臣―建内宿禰伝承成立試論―」について


日本がまだ戦後まもなくで、イデオロギーが一時的に敗戦思想となった右から左へ、一気に偏った時代だった。

それでも日本の史学世界には、まだまだ戦前の皇国史観や、天皇を中心の、または大和を中心とする右より史観が居残っていた。その京都大学において、岸はすでに『日本書紀』をラジカルに、客観的に論じようとしていた。そこに東大の津田左右吉らのようなマルクス主義客観主義があったかどうかは、このさい問題ではない。そういう時代だった。だからこそ、岸や騎馬民族説の江上波男らは、むしろ迎え入れられることとなるわけである。


岸の言う「たまきはる内の朝臣」とは

『日本書紀』仁徳紀
五十年春三月(やよひ)壬辰(みづのえたつ)(ついたち)丙申(ひのえさるのひ) 河内(かふちのくに)人奏(まうす)(まうす) 於茨田堤(まむたのつつみ)(かり)(こうむ)之 即日(そのひ) 遣(つかはす)使(つかひ)令視 曰 既實(まこと)也 天皇(すめらみこと) 於是 歌(みうたよみす)以問武内宿禰(たけしうちのすくね)(のたまふ) 多莽耆破屡(たまはる) 宇知能阿曾(うち 儺虚曾破(なこそは) 豫能等保臂等(よとほと) 儺虚曾波(なこそは) 區珥能那餓臂等(くになが 阿耆豆辭莽(あづしま) 揶莽等能區珥々(やまとのくにに) 箇利古武等(かりこむ 儺波企箇輸揶(なはかすや) 武内宿禰答歌(かへしうたす)曰 夜輸瀰始之(やすみしし) 和我於朋枳瀰波(わがおほみは) 于陪儺于陪儺(うなうば) 和例烏斗波輸儺(われをとはすな) 阿企菟辭摩(あづしま) 揶莽等能倶珥々(やまとのくにに) 箇利古武等(かり 和例破枳箇儒(われはかず)


五十年の春三月の壬辰の朔丙申(AD362.03.05)に、河内の人、奏して言す、「茨田堤に、鴈産めり。」 即日に、使を遣はして視しむ。曰す、「既に實なり。」 天皇、是に、歌して以て武内宿禰に問ひて曰はlく、
 多莽耆破屡 宇知能阿曾 儺虚曾破 豫能等保臂等 儺虚曾波 區珥能那餓臂等 阿耆豆辭莽 揶莽等能區珥々 箇利古武等 儺波企箇輸揶
  たまきはる 内の朝臣(あそ) 汝こそは 国の長人(ながひと) 秋津嶋(あきづしま) 倭(やまと)の国(くに)に 雁産(かりこ)むと 汝(な)は聞(き)かすや
 
 武内宿禰、答歌して曰す。

 夜輸瀰始之 和我於朋枳瀰波 于陪儺于陪儺 和例烏斗波輸儺 阿企菟辭摩 揶莽等能倶珥々 箇利古武等 和例破枳箇儒
  やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ)は 宜(うべ)な宜(うべ)な 我(われ)を問(と)はすな 秋津嶋(あきづしま) 倭(やまと)の国(くに)に 雁産(かりこ)むと 我(われ)は聞(き)かず



古事記に曰く、「また一時(あるとき)、天皇、豐樂(とよのあかり)したまはむとして、日女(ひめ)島に幸行(い)でましし時、その島に、雁(かり)卵(こ)生みき。 ここに建内(の)宿禰(の)命を召して、歌をもちて雁の卵(こ)生みし状(さま)を問ひたましく、
  たまきはる 内(うち)の朝臣(あそ) 汝(な)こそは 世(よ)の長人(ながひと) そらみつ 倭(やまと)の國に 雁(かり)卵(こ)生(む)と聞くや

 とのりたまひき。ここに建内(に)宿禰、歌をもちて語りて白ししく、
  高光る 日の御子 諾(うべ)しこそ 問ひ給へ まこそに 問ひ給へ 吾(あれ)こそは 世の長人 そらみつ 倭の國に 雁(かり)卵(こ)生(む)と 未(いま)だ聞かず

 とまをしき。かく白して、御琴を給はりて歌ひけらく、
  汝(な)が御子や 遂(つひ)に知らむと 雁は卵生(こむ)らし
http://hjueda.on.coocan.jp/koten/shoki27.htm


が出展である。


万葉仮名の阿曾は「あそみ」で朝臣をさす。すると阿蘇山とは朝臣山であるか?
「たまきはる」は「魂気張る」である。勢いがよいさまを言う。
「たまげる」なら「魂返る」で驚くさま。琉球語では「うんたまぎるー」である。う~~んとたまがった。
玉城とか玉置とかいう姓名は、勢いがよい、はぶりがよい人。


岸の論は以下の通り。
1 建内宿禰(記)、武内宿禰(紀)にはいずれも人物像になんら実像がなく
  A 長期的に天皇に仕えた忠臣
  B 神事に奉仕する霊媒者・シャーマン・巫覡
  C 長寿

2 彼の人物像は中臣鎌足を通じて初めて実体化できる


さて、この岸説にたいそう感化されたのが大山誠一であった。だから大山の宿祢論考も鎌足=武内とするところからはじまったことになる。


こうした見方、『日本書紀』の理解の仕方の問題である。それが大山以前は、史学の内部では敬遠されてきた。つまり史学は戦後日本の中で非常に珍奇な、遅れた、非近代的な世界だったことがわかるのである。
特に京大史学は戦前のままだったのかも知れない。



では、武内宿禰が馬子ではなく、中臣鎌足がモデルでいいのだろうか?となると逆。鎌足のモデルが武内宿禰、つまり蘇我馬子なのである。不比等はそう思い描いた。それは藤原氏そのもの性格を言っていることになった。あくまでそうありたい、そうなのだと世間に主張したのである。天皇の忠実なる僕であり、祭祀者であって、政治にも王権にも欲がない。つまり蘇我氏とは違うぞ。そして長期的に天皇を守るのだと。


だから宿禰=鎌足では決してない。反対なのだ。宿禰のような人間像であった鎌足と、不比等が「作り出した」のである。この人物も実はいなくても不比等は造れたのである。蘇我氏と言うよきモデルがあったからだ。


ではなぜ藤原鎌足は蘇我入鹿を殺さねばならぬのか?
大王だったから。
それしかない。
蘇我氏が大王だったから、奪うしか自分たちが王になれないからに他ならない。
祭祀王天皇などは象徴でしかない。王とは政治王=宰相なのだ。それを最初に実践したのは実は宿敵蘇我氏なのだった。だから奪い取った。すべてを自分のものにした。すべてとは馬子が守屋から奪った財産や土地や金品である。つまり宰相になるとは、先の宰相のすべてを手にすることである。つまり守屋も大王だったのだ。


葛城も吉備も物部も蘇我も、大王だから奪われたのだ。そしてようやく藤原不比等のおかげをもって天皇氏は大王になれたのである。それが大和王権の始まりである。
それまでの王権がどこにあったかなど、『日本書紀』はウソを書いているから誰にもわからなくなった。














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