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『万葉集』にみる古代人と自然  119
1 『万葉集』から考察する事象

『万葉集』は約 4500 首の歌をおさめ、主に 7 世紀から 8 世紀にかけてのものが 20 巻に分けて編纂された、ほぼ 1 世紀にもわたる歌謡集であり、その分期については様々な捉え方があるが、

●「柿本人麻呂を画期とする」点はどの研究者にも共通しており、

●人麻呂を画期として古代的な自然観がみられなくなる

という。



1。白川静氏は古代的な自然観について、自然に対する態度や行為によって自然との交渉を呼び起こし、霊的に機能させることが可能であると考えていたと述べ、伝承形態については巫祝的集団性を持ち、集団の存在が歌の伝承を可能にしたと論じている


2。中西進氏は初期万葉の時代について、古代氏族制の社会から次第に天皇権を中心とする制度の整備に向かう時代で、集団的・儀礼的な記紀歌謡にみられる要素を濃厚にとどめていると述べている


 3。人麻呂の歌を境に天皇を賛嘆し、神とする歌がみられるが、それ以前の古代的な自然観を歌った万葉歌では、天皇を神とせず、人と自然の直接のかかわりを歌い、自然を自らの力の届かない神的存在と考えて歌っていると考えられる。
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=1aiPuWmWLHIJ&p=%E5%B2%B8%E4%BF%8A%E7%94%B7%E8%AA%AC+%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%8D%E3%81%AF%E3%82%8B&u=https%3A%2F%2Fopac.ryukoku.ac.jp%2Fwebopac%2Fbdyview.do%3Fbodyid%3DBD00000912%26elmid%3DBody%26fname%3Drd-kskn-rn_009_007.pdf#search=%27%E5%B2%B8%E4%BF%8A%E7%94%B7%E8%AA%AC+%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%8D%E3%81%AF%E3%82%8B%27





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つまり人麻呂が生きていた時代からこそが、歌で天皇を礼賛しはじめた画期だということである。それまでは神とは自然の摂理そのものだった。それは原始信仰の時代である。

人麻呂の時代の天皇とは天武天皇である。と、言うよりも、天武以前に天皇という呼称は存在しないので、これは天皇を礼賛というよりも、天皇という呼称を世に知らせるための歌であったことは間違いない。とにもかくにも、不比等の政治改革で、天皇は神になった。人麻呂を使ってである。

つまり「天皇は神にしあれば」歌は、天皇存在を世に知らしめるための政治的なコマーシャル・ソングなのである。それをさせたのは藤原不比等だし、天武を、というよりも、天皇という名称を知らせたい、つまり逆に言うと、それまで天皇と言う名前はなかったことになるのである。


日本人が自然を歌っていた、つまり日本人の自然観とかで考えたがるのは、彼らが国語学者や文学者だからであり、それは単なる詩論でしかない。しかし史学の政治史で考えるなら、そこから天武でさえも「作られた天皇」だった可能性が見えてこなければなるまい。それは明治天皇を喧伝した明治政府にも似た、天皇を神とすることで、国家をひとつにしよう、方向性を決めてしまおうという政治的イデオロギーであったことになる。


言い換えるなら、実際の天皇などは、藤原不比等にとっては、いてもいなくてもよかったのだ。天武がいなくても理想の初代天皇にはできる。天智がいなくても天皇の高祖などいくらでも作れた。つまり草壁がいればいいのである。しかし彼は死んだ。仕方なく母親の持統を臨時に担いだ。だから神話は書き換えねばならなくなった。草壁=忍穂耳が降臨する予定が、孫の軽=二二ギに、皇祖神が造化三神や夫婦神から急遽太陽女神アマテラス=持統女帝に書き換えられた。


神話もアマテラスを中心に進むことに急変。そこで国の政治を司る弟王が必要になった。
実務のこと=すなわち国つ神の仕事=政治。国つ神の王=政治王=摂政=内大臣=武内宿禰。


ここで武内宿禰に代表させた内大臣は・・・

1 女帝の男弟である。それは魏志の卑弥呼という前提がちゃんとある。

2 内大臣は忠臣であり、宰相・摂政の鑑である。

3 それは先の大王家(天皇家とは別の国の王)の王族たちの祖人であった。つまり神である天皇よりも、大王は人間なので正統ではない。

4 しかし武内宿禰の忠臣性は素晴らしく、それはまさにわが父鎌足である。

5 反面でしかし、武内宿禰=スサノオ=荒神=祟りなすものの祖人=蘇我氏でもあった。

6 宿禰と聖徳太子とスサノオを持ち上げることは、祟り神となった蘇我氏を鎮撫することになる。

7 蘇我氏と物部氏とニギハヤヒやナガスネ彦やを一括して大名持ち=オオナムチとして『古事記』の言うオオクニヌシにしてしまい、霊媒師卜部=出雲国造一家にこれを祀らせ、築杵宮に押し込めてしまう。つまり祟り神の「神やらい」。

8 不比等死後、藤原摂政体制が衰退すると、大昔の話に仕立ててあげ崇神天皇が「大和の大物主の力が大きいことを理由に、宮中で役にも建たなくなっていたアマテラスと倭大国魂を追い出させた。」ことにした。


これは『日本書紀』が仲麻呂・光明皇后時代以後に書き換えられた箇所である。

つまり、そう考えることでわかることは、・・・
●アマテラスやスサノオがあくまでも不比等の政治体制下では必要な皇祖だったのが、

●藤原氏以外の摂政体制下では無用になった」ことである。

つまり簡単に言えば
●天皇が女帝でなくなればアマテラスは御用済み。
●男弟王スサノオも御用済みなのである。しかしこの神は熊野・紀氏らの祖神で、民衆には大きく受け入れられた。それは敗北者だからである。判官びいき。

●また倭大国魂は海人族・大倭氏(椎根津彦子孫たち)の祭る神である。もはや3世紀の旧氏族(和邇、大伴、日下部、海部、尾張、木部)に出る幕はなかった=渡来人に倭姓を下賜し、大和神社にアマテラスを押し込める役を引き受けさせた。

皇祖アマテラスだけは、さらにさらに奥地の伊勢のそのまた奥地に押し込めて、これもまた大倭氏と海部氏に給食係りをさせた=外宮・豊受大神によるアマテラスの監視体制。アマテラスもこのときから祟り神となったのである。出雲大社オオナムチや大物主と同じである。この三柱の祟り神々によって大和は守られることになった。最強のたたる神による鎮護国家祭祀であった。そして宮中の皇祖神は一旦落ち着く。しかし平安時代に道長で藤原が復活し、伊勢祭祀は復活・・・女帝でないのだから復活ではなく、祭祀だけ永続。ところが明治政府がこれを大復活させてしまった。これが現代まで続く勘違い皇国史観とアマテラス崇拝である。そもそもアマテラスは藤原摂関家存続のための存在だった。男性天皇の時代にはアマテラスなどはまったく無用だったわけである。







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岸俊男『日本古代政治史研究』所収「たまきはる内の朝臣―建内宿禰伝承成立試論―」について


論1
武内宿禰には実体がない。


今日はココまで、次回に続く・・・



天皇、内野に遊猟しましし時、中皇命、間人連老をして献らしめたまへる歌

反歌

たまきはる宇智の大野に馬並めて朝ふますらむその草深野

(巻一−四 雑歌)

大意は以下の通りである。

霊魂のきわまる命―宇智の広々とした野に馬をつらねて、朝、踏んでおられるでしょう。その

草深き野よ。






















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