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弓削の道鏡は、藤原氏が恵美押勝の乱で実権をなくした一時期に、突如称徳女帝の愛人として宮中に出現する。
すると同時に、土佐に葛城の神だとする土佐大神が祀られた。この神は葛城一言主であり、アジスキタカヒコネであるとされた。祀ったのは秦忌寸石勝(はだのいみき・いわかつ)という人物である。


この神は、出雲の大穴持尊の子高鴨神=アジスキタカヒコネであるという。オオナムチとは大国主であるがその実態は蘇我馬子だと岸俊男説や大山誠一説は唱える。要するに藤原不比等以来のアマテラス一神教の牙城が、このとき、突然、河内渋川=弓削の出身である道鏡によって葛城神が復権したのである。


河内渋川が物部守屋別宅のあった土地であることは、道鏡=弓削=物部という裏の出自に気がつくことになる。物部氏の復権、葛城と出雲オオナムチ=蘇我氏の復権を道鏡が持ち出す理由はひとつしかあるまい。藤原イデオロギーへの反駁である。


こうして宮中では、同じ先の大王家の子孫である和気清麻呂を抜擢して、なぜか九州の宇佐八幡の大神に託宣をいただきに出かけさせる。宇佐と吉備の神職がそれぞれ兄弟=同族=吉備王家であったからだろう。神託は最初、OK。あとからNOと逆転する。それで清麻呂は筑紫へ流された。称徳女帝が怒り心頭に発したのである。女帝は若くハンサムな道鏡にほだされ、ぞっこんであったらしい。清麻呂は穢麻呂と名前を変えられ、姉も虫と呼ばれた。和気清麻呂は吉備王族下道臣あたりの血筋であろう。吉備真備とも親類だろう。

わけがわからない理由で彼は宇佐八幡にも祀られている。それは宇佐神職大神氏と東大寺別当良弁の東大寺大仏建立での香春銅山の関係、百済王氏の東北金山開発の関係、砂金で地位からを持った奥州藤原氏のその後、四天王寺の山背王家、さらには豊前の秦氏らの、深い反藤原・反息長王家への反駁・・・という長いスパンの興亡史を考え付かせるに充分である。四国土佐東部が物部、徳島阿波は忌部、土佐西部が秦氏と高鴨とくるのである。するとのちの武将・長宗我部 元親が秦氏だったことなども?

二大勢力の葛藤。からいよいよ戦国時代までの流れが?
見えるかな?


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