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大山誠一は『神話と天皇』の最後に、武内宿禰は中臣鎌足のモデルであるとしている。

これまで、武内宿禰は「内臣(うちつおみ)」の代表であり、史学では、そのモデルは蘇我馬子ではないかとされてきた経緯がある。内臣とは宰相であり、古代では摂政である。そして武内の「内」がそれを現す氏族であると。


『古事記』では建内宿禰(たけしうちのすくね)と表記されていて、仁徳天皇(おおさざき)と建内宿禰の子供木菟宿祢(平群氏の祖)との鳥の名前の交換的なシーンや、『日本書紀』応神と武内宿禰の、気比での名前の交換などから、武内宿禰はヤマトタケル~神功皇后~河内王朝と言った「先の王家や蘇我王家」の宰相であって、そのイメージは、あとの王家(持統息長王家)を作った藤原政権とは無関係かと見えていたが、大山はその蘇我摂政のイメージを奪うことによって、むしろ蘇我氏は大王になろうとしたのだから悪だ、中臣鎌足こそが宿祢だとしたかったと考える。


蘇我氏だけが史上、大王・天皇を傀儡とした、事実上の大王になろうとした、としたいのが藤原氏だと。そうすれば確かに蘇我氏は王権乗っ取り犯になる。日本史でそうした人物は、日本ではほかには織田信長だろう。信長は宗教集団すら平定して、宗教王を「殺し」、将軍さえ殺し、あげくには天皇をないがしろにして、政治王や宗教王以上の神そのものになろうとした。だから殺された。その理想像は平清盛にも見ることが出来る。彼も天皇や仏教法王まで牛耳ろうとしている気配がある。だから天皇の勅命で源氏に追討された。この両者のしたことは、つまりある意味で政治の近代化、民主化?(西欧的近代化)・・・つまり蘇我氏と同じ改革者 であったのではなかったか?義経の追討とはそこに大きな相違がある。悪の次元が違うのである。

武内宿禰はしかし、宇佐で黒男神となり、八幡信仰では守り神になっていて、蘇我蝦夷が皇極からうばおうとした雨乞い儀式の霊媒師つまり巫覡=シャーマン王の姿をちゃんと持ちえている英雄である。履を残して消えたところだけは敗北者的だが。不比等はそういう部分も含めて、父鎌足も、シャーマン王と政治王の双方兼ね備えながらも、決して天皇にはさからわぬ、実権を欲しがらない聖人に仕立てたかったのであろう。かわりに不比等自身は、卜部という霊媒師集団を各地に派遣して、在地の古い信仰をアマテラス崇拝へ教化しようとしており、中央では蘇我氏以上の影の政治王であらんとしたのである。


出雲には天穂日を奉じる卜部を送り、蘇我氏全体を封じ込め、さらにアマテラスによってオオナムチを監視する神社構造を押し付け、鹿島にはやはり卜部による雷大神=タケミカヅチの中央祭祀王のイメージを、香取には物部神道を乗っ取って吉田・平野神道をはべらせた。また和歌山では紀氏の祖人であるイタケルを祀るイタキソ神社と須佐神社の神スサノオを、ピックアップして出雲の神に仕立て上げて、アマテラスの弟王で地上の災害王に仕立て上げることで、蘇我氏を出雲に封じ込める。さらに平群氏も手名づけて、紀氏、忌部をも手名づけて、結果として蘇我氏の忠臣であり同祖を持つ人々をすべて隠れた臣下にしてしまう。それが各地のアマテラス以前の氏族祖人のそっくりアマテラスへの入れ替えにしてしまっているのである。宗像も、天武の妃を出したことにすることで、恩を売り、沖ノ島にそれまでの安曇海人族の月と太陽の信仰をそっくりアマテラス一神教へと変身させたのであった。


それが宰相・摂政と言う内臣の権力だったのである。


忌部や卜部は、その宗教統一、政治統一の道具になったのだ。にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ




宇佐八幡だけは藤原摂関体制のややあとから出来たので、少し違う形を秦氏が形成したことがわかる。だから太陽信仰以前の、いや渡来系の信仰形態が見え隠れするのだろう。いずれにしても渡来人秦氏が祀ったのであるならば、応神=ハチマンシンとは外国から来た大王であったことは明白である。