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●伊豆・壱岐・対馬卜部=吉田神道・大中臣氏


卜部氏は中臣氏、藤原氏の中の祭祀者。占い、亀卜をこととしている。
のちに大中臣氏と名乗る。氏族名には吉田・錦織・萩原・冷泉など。
出自は、最古は壱岐対馬の卜部であろう。

卜部の「うら」は占うことで、トと表記するのは、亀の甲羅で占うときに甲羅を焼くと、ト模様になるからであろう。これを「きぼく」というが、古代には鹿の肩甲骨が使われていた。平安前後からベッコウが使われ始めたらしい。

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壱岐卜部氏は
「伊吉島造家の伊岐氏(伊岐直)の一族。神功皇后の四太夫の一人で、天児屋根命12世の孫にあたる雷大臣の子である真根子を伊岐直の祖とする系図や[注釈 5]、壱岐卜部氏の氏人である是雄の賜姓記事[注釈 6](伊伎宿祢姓)において先祖を雷大臣とするとの記載により、中臣氏族とする。一方で、中臣氏族とする系図は仮冒で、高皇産霊神の後裔月神命の子孫である壱岐県主の一族とする説もある[注釈 7]。姓は宿禰。

氏人には貞観5年(863年)に卜部宿禰から伊伎宿禰に改姓した、是雄・業孝がいる。」

対馬卜部氏は、
「対馬県造家の対馬県氏(対馬県直)の一族。対馬県直については、祖である建弥己己命を天穂日命の曾孫とし、出雲氏族とする。」Wiki卜部
 

伊豆卜部は、
伊豆大仁町吉田の吉田とは吉田神道のことである。ここにかつて中臣系アメノコヤネ命を祀る神社があった。今は三島大社に一括。

「平安時代前期の卜部平麻呂(神祇権大佑)を実質的な祖とするが、平麻呂以前は明確ではない。平麻呂を大中臣清麻呂の孫にあたる智治麻呂の子とする系図もあるが[注釈 2]、後世の仮冒とされる[1][注釈 3]。三嶋大社に神官として仕えていた氏族であるという説や[注釈 4]、天児屋根命の後裔である五十手命を祖として伊豆卜部氏を中臣氏族とする系図がある[2]。姓は宿禰であったが、応安8年/文中4年(1375年)に吉田兼煕が朝臣姓に改姓。

平麻呂の子孫は後に吉田社系と平野社系に分かれ、代々神祇大副及び神祇少副を輪番で務める。


吉田社の系統は冷泉のち室町を家名とするが、永和4年/天授4年(1378年)に足利義満が室町第に移ったことに伴い、吉田兼煕がそれまで名乗っていた室町を憚って、社務を務める吉田に家名を改めた。江戸時代には堂上家(半家)として三家(吉田家・萩原家・錦織家)を数えた。平野社の系統は江戸時代に猪熊家のち藤井家を称し、堂上家(半家)に列した。


なお、吉田社系の氏人に『徒然草』の作者吉田兼好がいるが、本来は「卜部兼好」が正しい。兼好は吉田に家名を改めた兼煕より前の時代の人物であり、「吉田兼好」の名は鎌倉時代および南北朝時代の史料にはまったく見られない[3]。中世和歌史研究者小川剛生により、今日伝わる兼好の系譜自体が吉田神道の創始者でもある吉田兼倶による捏造で、実際の兼好はどの系統の卜部氏の出自であるかは(そもそも卜部氏であったのかも)分からないとの説もある[4]。 」Wiki卜部


ほかに鹿島神宮や葛城一言主神社にも卜部がある。すべて中臣・藤原がそこを管理するという意味であろう。葛城は押さえ込まれた氏族であり、かつ一言主と役の行者は一括して政府が粛清したモノといえるので、これを中臣神道が押さえ込み、リカバリーしたのは当然の成り行き。鹿島は藤原に取り込まれた地方部民の小社だった。卜部がこれらを宗教統一し、政治利用するために送り込まれたのは当然の政治的戦略である。


亀卜が現代も卜部の仕事であることは、今回の元号改正と天皇交代の儀式各種でまず理解できた。




 

占いは秘事であり、また口伝で伝えられるものゆえ。ノウハウは謎が多く、研究者もその内容を詳しく知ることができずにいたが、対馬において大正年間に記された「対馬亀卜談」という史料や占い師の子孫(岩佐教治氏)が存命していることなどから占いの方法や内容などがわかるようになった。



「今回の実験では、陸ガメのミシシッピアカミミガメの甲羅に四角い窪みを彫り込み、そこに「ははか木(桜の木か)」と呼ばれる木の棒を押し当てて焼くというものです。窪みの中には「マチ」という占いの記号を刻み、焼いた時にそこに熱が伝わってひびが入ります。裏面に現れたひびをみて吉凶を判断するというものです。」
http://www.hyogo-c.ed.jp/~mukosogo-hs/tpcs/kiboku/tpcs.html






理解しておかねばならない法則として、大和政権が律令で確立した8世紀、宗像や壱岐対馬などに、大きくアマテラス信仰が広がったということである。それはつまり藤原不比等が、アマテラス太陽神崇拝を、彼らを用いて拡散したという政治的動向なのであり、それによって壱岐氏の月読信仰が太陽神へ切り替わり、対馬氏の治めていた出雲、伊豆が吉田神道卜部によってやはり太陽信仰に切り替わり、また宗像沖ノ島祭祀もまた海の神からアマテラスへの切り替わりがあり、氏族としては安曇が宗像に取って代わられ管理されるという見えない政治的大転換があったのだということに気づかねばならないだろう。



そこに気づけば、『日本書紀』ロジックの大半のウソは見えてくるはずなのだが?





見えない人がいるのが不思議である。





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