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北海道苫小牧・静川遺跡全景
小高い台地上に造られた


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■国指定史跡   昭和62(1987)年1月8日指定
■所在地:苫小牧市字静川93番地7~11
 ■所有者:株式会社 苫東
■管理者:株式会社 苫東

●静川遺跡へのアクセス方法(クリックで移動します)
http://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunka/bunkazai/shinobunkazai/shizukawaiseki.html#アクセス





「苫小牧市の東部に位置する静川遺跡で、1982(昭和57)年、”環壕(かんごう)”という、それまでの縄文時代のイメージを一新するほどの大発見があり、1987(昭和62)年1月に国の史跡に指定されています。
※現在は保存のため埋め戻されており、見ることができません。」
http://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunka/bunkazai/shinobunkazai/shizukawaiseki.html


「静川遺跡(しずかわいせき)は、北海道苫小牧市周辺にある苫東遺跡群の一つ。苫東遺跡群は、旧石器時代よりアイヌ期にかけての遺跡が確認されているが、その中でも静川遺跡は、余市式土器群を出土する縄文時代の遺跡であり、集落の周りを環濠で区画されている。縄文時代の環濠集落は、国内からの発見例はほかになく、特異なものである」
「弥生時代の環濠集落が集落を守る防御施設であるのに対して、静川遺跡の場合は環濠の外に多くの住居跡があることから、防御施設とは考えられず、その目的は諸説あり定まっていない」Wiki静川遺跡




 縄文時代中期(約5,500~4,500年前)の環濠集落が南北海道にあったことを、中田興吉『大王の誕生』を読んでいて初めて知った。


中田は、寺澤薫の意見として紹介。
寺澤は「環濠集落があるのなら、水耕稲作に関連があるはずで、日本の水耕稲作が北方ルートからも来ていた可能性がある」旨書いているらしい(『王権誕生』)。


筆者Kawakatuは、しかし近畿至上主義的発言ばかりの寺澤を信用していない。北海道の縄文中期に、北方から水田が来たという発想そのものが、だめな考古学者であることを如実に語っていると思える。稲と言う植物が南方植物であることをまったく忘れた意見である。静川の環濠は建造物を囲んでいるが、そこには水田などない。いったいそんな古い時代に、どこからいきなり北海道へ稲作を伝えるだろう?


南北海道の縄文遺跡からは、中国と直接交流したか、九州を経由して物品が流れたか。あるいは北部九州の人々が北海道まで物品を持って行き、交換したかの、三つの交流方法があったと考えられる。これは間違いない。ではどれをあなたなら選ぶだろうか?狩猟中心だったことは、周囲に落とし穴が点在することからわかる。縄文中期に果たして農作文化を縄文人が持っていただろうか?そうならば水田遺構、農具、種、などなど、多くの痕跡が出なければならないが、それはないのにいきなり水田とは?ありえないだろう。


環濠集落自体は、中華北部、半島北部に発すると考えられている。
その歴史的理由は、北方のほうが外敵が多かったからである。稲作の中心地であった華南、長江流域には西側にヒマラヤ山脈があり、外敵としては月氏となるスキタイが若干いた程度なので、環濠は発達しなかった。北方の環濠集落が「稲作とリンクする」という寺澤の発想自体が、稲のことも華北華南の食生活や風習や、外敵の状況にまったく無頓着で、民族学が何も見えていない無味乾燥な考古学者であることを露呈しているとKawakatuには見えた。


しかし環濠と稲作が(別々に入るのである。稲作は華南、環濠は華北)最初に西九州に入ったことは変えられまい。そもそも暖地で湿地を好む植物だ。それが中国北部や半島北部には不向きで、そういうところでは米ではなく雑穀とか小麦を主食としているわけである。いずれにしても、たとえ中華とのダイレクト交流はあったとしても、そもそも気候的に稲作は選ぶはずがなく、環濠だけを学んで帰ったのだろう。最も現実的なのは九州で見たからだと思うべきである。半島南部もありえる。どっちにせよ稲作は学んではない。


ではなぜ苫小牧の縄文中期人たちは、環濠を学び、造営したのだろうか?野生動物が多かったから猪などからムラを守ったのか?まずこれが一番だろう。あるいは苫小牧は日本海に向くため、半島やらから漂流者や侵入者が多かったからか?ならば争いの痕跡が必要だ。周囲の落とし穴はヒトよりも獣のためであることを思わせる。遺跡全体が小高い台地の頂上にあることからも、それは獣を避ける工夫ではなかったか?まことに学者は面白いことを言い出す。寺澤のような影響力のある学者の場合、もうさらに始末に終えない。


いずれにせよ静川遺跡が特筆すべき縄文遺跡であることは変らない。


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※寺澤薫は纒向遺跡を掘った邪馬台国大和説に偏った考古学者。視野が狭いのは近畿至上主義考古学者の常である。邪馬台国を纒向に誘致したい学者No.1。それだけでも狭いということがわかるはず。九州説学者も大和説学者も要するに金で動く亡者にしか見えないのである。評価しているのは吉備説の松木武彦だけ。吉備説はあきらかに受け入れにくく、地元にもその気があまりなく、金にはならない説だ。だから評価できる。






金になるとは、考古学の発見や説を、村おこしに利用したい地元民に迎合している学者だという意味である。本人にそのつもりはなくても、結局はマスコミによって経済的開発に組み込まれてしまう。巻き込まれたことをさらに嫌がればいいいものを、近畿の学者たちには、それすら利用して説を宣伝拡販しようとする色気がありすぎる。そう見えているのだからしょうがない。金が動くということは話題になる→国の指定がもらえ→大学で教授に近くなるし権威になれる。ということなのである。学者とは孤高に立ったライオンであるべきである。




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