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昨夜の諸説あり邪馬台国SPを見て所感
これは文献も考古学も地元好事家たちも、み~~~んなうそがつけますという証明でもある。

ブラック・ジョーク記事である。




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これはひとつの「文献はうそをつむこと」の例証だが・・・

三種の神器「天叢雲剣」

あめのむらくものつるぎ

まあ、写真で見た人ならそれは銅剣だったことは常識だが・・・。


「天叢雲剣は草薙剣とも言われ、三種の神器の一つ(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)[11][12][13]。 三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる[14][15]。 日本神話において、スサノオが出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に[16]、大蛇の体内(尾)から見つかった神剣である[1][17]。八岐大蛇退治に至る経緯と、神剣の名称については古事記・日本書紀で複数の異伝がある[18]。 スサノオは、八岐大蛇由来の神剣を高天原のアマテラスに献上した[19][20]。 続いて天孫降臨に際し他の神器と共にニニギノミコトに託され、地上に降りた[21][22]。 崇神天皇の時代に草薙剣の形代が造られ、形代は宮中(天皇の側)に残り[23][13]、本来の神剣は笠縫宮を経由して、伊勢神宮に移されたという[19][24]。 景行天皇の時代、伊勢神宮のヤマトヒメノミコトは、東征に向かうヤマトタケルに神剣(天叢雲剣/草薙剣)を託す[25][26]。ヤマトタケルの死後、草薙剣は神宮に戻ることなくミヤズヒメ(ヤマトタケル妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けた[27][28]。これが熱田神宮の起源であり、現在も同宮の御神体として祀られている[29][30]。

形代の草薙剣は、壇ノ浦の戦い(源平合戦)における安徳天皇(第81代天皇)入水により関門海峡に沈み、失われた[13][31]。神剣の喪失により、様々な伝説・神話が生まれた(中世神話)[32]。結局、後鳥羽天皇(第82代天皇)は三種の神器がないまま即位[33][34]。平氏滅亡により神璽と神鏡は確保できたが、神剣を手にすることは出来なかった[33][35]。その後、朝廷は伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」とした[13][36]。南北朝時代、北朝陣営・南朝陣営とも三種神器(神剣を含む)の所持を主張して正統性を争い、この混乱は後小松天皇(第100代天皇)における南北朝合一まで続いた(明徳の和約)。現在、神剣(形代)は宮中に祭られている[37]。」Wiki天叢雲剣




「三種の神器の一つ。八岐大蛇(やまたのおろち)の尾より出現した剣である草薙剣(くさなぎのつるぎ)の元の名を、『日本書紀』本文の注および一書では天叢雲剣とし、大蛇の上につねに雲気があったゆえの命名とする。中国の『史記』の高祖本紀に、斬蛇剣(ざんだけん)をもつ高祖のいる上にはつねに雲気がたつと語る。その漢の宝剣である斬蛇剣に、わが国の三種の神器の一つである神剣を擬するための命名。」[吉井 巖]
[参照項目] | 草薙剣
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出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例  
コトバンク




日本書紀神代紀上第八段本文注
「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。大蛇の居る上に常に雲気(くも)が掛かっていたため、かく名づけたか。日本武皇子に至りて、名を改めて草薙劒と曰ふといふ」Wiki天叢雲剣




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「むらくも」は、一般的には、雲がかかったような状態、月や太陽に雲がかかる天候の一種。刀剣の刃紋が雲のようにもやもやしている状態であると思えるのは、村雲という名刀があることから想像が付く。


天叢雲剣の神話では、ヤマタノオロチの尾の上に常にもやもやと雲か霞がかかっていたから名づけた、とあるが、それは中国にある上記コトバンク吉井巌の言う故事からであるのは明白だろう。



『史記』高祖本紀に「斬蛇剣(ざんだけん)をもつ高祖のいる上にはつねに雲気がたつ」と語る。
その漢の宝剣である斬蛇剣に、わが国の三種の神器の一つである神剣を擬するための命名。」





つまりこの解説に従えば、「あめのむらくも」の名前は、『史記』から取られたのであり、神器としての権威付けのゆえであることになるが、いずれにしても「むらくも」が刀剣の刃紋を指すことは変りあるまい。つまりこれがあるなら名刀なのである。(これだけでも実物などなかったと言ってもいい。三種の神器すべては八世紀にあとから造ったと言ったってよいのだ)


しかし、そうなると少々困ることがある。
神話の時間枠は太古。ならば剣は当然銅剣だろう。熱田神宮や伊勢神宮の伝承には草薙剣は白銅であるとあるから、あきらかに銅剣のはずだ。考古学的にも銅剣は祭祀用、鉄剣は実用武器だった。であるならば、銅剣では「むらくも」刃紋などあるはずがないのである。刃紋があるのは鋼を使う鉄剣である。ならばこの一文は奇妙なのである。つまり鉄剣が日本に来てからスサノヲはヤマタノオロチを殺して出雲を平定したことになってしまう。ということはたたら製鉄が始まる5世紀古墳時代の話だ。もう大和にはワカタケル大王がいる時代。ずいぶん近い神代ではないか。ははは。


文献と言うものは世界的にうそを言う。
主観的な小説、あるいは自分たちに役に立つよう編集した書物だからだ。

中国では特に、方角には正確だが、距離には無頓着でおおげさに書く傾向が強いことを、昨夜の諸説あり!邪馬台国SPでの、中国研究者も言っていた。漢文を高校で習ったときに、教諭はいつも「千里辟易した」とか「白髪三千丈」とか、とにかく中国人は距離を大げさに表現したがるから信じるなよ」と言われたことがある。中国の史書は山ほどあるが、だいたい距離におおげさ、ルーズである。しかし方角には厳格だ。なぜなら、史書は書かれた前の国家の記録だから、なぜ彼らが滅びたかは非常に経験値として大事。敵国・外敵がどの方向にいるかを間違えて書くはずはないのである。しかし、外国に関しての距離はいい加減で長大にしてあり、できるだけ遠いほうがそれだけ権威があったらしい。そんな遠隔地でも知っていると誇示したいのだ。なのに方角だけは間違えない。「会稽東冶」の東と『魏志』がだめおしした倭国の位置は、当然九州になるわけである。大和の東には海がない。近い海は近江で琵琶湖だ。遠江は駿河湾だからはるかに遠い。伊勢湾だって山の向こうだ。近くにはない。


また女王卑弥呼は伊都国近くで執務し、それは山の中のような秘所であったことになる。


つまり昨夜の諸説あり!の最終回答は、邪馬台国は最初北部九州にあったとしか考えられない・しかしその後東遷したというものだった。中国研究家の三人の答えを総合すればこうなる。そして邪馬台国をどうしても自分の立地へ持って来たい主観性のある日本人でない、よその国のことを語ったのが中国人研究家ならば客観的であるので、信憑性は高いとなるだろう。


もちろんこれは「諸説あり!」の捕らえ方で、決まったわけでもない。ただ若い中国人研究家の言っていた、『魏志』の「東に一海を渡る」は、以前筆者も取り上げたと思うが、邪馬台国が九州であることの最大の証拠になる。


さらに例の絹もほとんどは九州で出土する。一方、大和説が絶対的証拠品に出していた水銀は、産地から取り寄せれば済む話で、決定打にはなりえない。反対に、では大和で真珠や硬玉やヒスイがとれたのか?と突っ込まれてしまうだろう。なんとなればもらった剣はどこにあるのだ?とかね。


そもそも『魏志』の、正史としての信憑性を言われてしまうと、はなから何も語れなくなる。となれば考古資料しか信じるものがなくなるではないか。確かに文献は、過去の引用が非常に多い。魏志も「漢書」などを参考に孫引き、引用してあるが、山ほどある中国史書を全部読んでいないと『日本書紀』は書けなかったはずだ。中には10世紀の史書から引用したという一書もあるほどで、あとから改変したことは明白。中国研究者は具体的な役人の名称から、時代が西晋を遡れないとして、三国志時代の用語が使われていないので魏志は3世紀のことを知るには信頼できず、しかも複数の書記官が書いたようだと断定。そういうことは『日本書紀』なら山ほどある。


そして結論は、邪馬台国は移動した、であった。
つまり過去日本の諸説にあった「邪馬台国東遷説」ではないか。
日本人研究者の多くが、今では否定的なこの説、なぜそうかと言えば、「金にならない」からにほかならない。安本美典の九州地名の近畿点在も出てきたところを見ると、あの研究者は日本の研究書をかなり読んだな。


市場で売られていた三角縁神獣鏡が怪しいことはここでも書いた。
あんなものは、日本の近畿の研究者か誰かが持っていって売りさばくことなら、不可能ではない。たった一枚では証拠にもならない。出所不明なら一級資料でもない。意味なしだ。

となると、志賀島の金印で言われてきた、九州江戸時代の学者の模造品説も、にわかに信じる気になってくる(BSNHK「英雄たちの決断)。
あれは文字の陰刻の仕方が時代には合わないという権威的彫金師の証言だった。むむむ。


しかし江戸時代なら、金はすでに高価である。いっかいの塾長ごときがそんな金があるはずもなく、誰か九州説を証明したい商人好事家でもパトロンにいなければ無理だろう。


とにもかくにも、地元のバックアップがあって、村おこしに邪馬台国が使われている日本では、いつまでたってもどこにあったかなど決まるはずがない。ならば九州~吉備~大和への移動説でKawakatuは〆ることにする。
これなら『日本書紀』神武東征に矛盾しない。紀氏や吉備氏からその先祖の話を聞いて不比等が造ったのだ。もちろん九州は最古の中華朝貢国家だからに決まっている。邪馬台国は3世紀の倭国乱が九州で起こったために、混乱した九州から逃げ出して、瀬戸内・吉備を経由して紀氏や吉備氏の導きで、最奥の山の中の盆地に逃げ込んだのだ。だから地名も移動した。やまからやまとに。たいは博多弁じゃないの?「ここはどこか?」「やまったい」・・・そんなところじゃね?



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