前方後方墳の可能性 - 箸墓古墳同時期 3世紀に築造か 桜井・稲荷山古墳/市埋文センター 速報展で紹介
 桜井市芝の稲荷山古墳が、3世紀に築かれた前方後方墳の可能性があることが、市教育委員会の調査で分かった。これまで5世紀後半から6世紀ごろの古墳と考えられていた。市立埋蔵文化財センターで開催中の発掘調査速報展で、調査成果が紹介されている。続きを読むhttps://www.nara-np.co.jp/news/20190508091917.html


桜井市にもともと存在していた古墳、稲荷山古墳がにわかに注目されている。須恵器や埴輪など新しい時代の遺物がないことや、葺き石が敷かれていないこと、環濠が狭いなどの調査結果から、200mほど北にある纒向型プレ前方後円墳群(3世紀後半?)勢力とは別の前方後方墳を造る勢力の墓ではないかと考えられる。とすれば魏志にある「南の卑弥弓呼 ひこみこ」勢力のものではないか?とか・・・。(規模は小さい墳丘部が10mしか残っていないので、王ではなかろうけど)





卑弥弓呼は、以前も書いたが、卑弓弥呼と文字の逆転があって、「ひこみこ」と読むのではないかと考えている。これはあとで読んだ森公章の著書でも同じことを書いており、「ひみこ」が「ひめみこ」ならば、当然ひこひめ統治制度だった古代には、男王は「ひこ」であり、「王子・皇子」の読みである「みこ」があとについた「ひこ・みこ」と呼んでいたはずだからだ。魏志は何度もの転写で、記載間違いが多い書物だと思っている。


「ひみこ」はあるいは「ひのみこ」かも知れないが、女王ならば「ひめ・みこ」と考えるのが、まずはのちの大和発祥の天皇制に矛盾しない呼称となるわけだ。いずれにしても魏志は要するに「の」「め」を抜かしてしまったと考える説である。


「ひこひめ」制とは、世界史的に見れば古代が中世に切り替わるタイミングでは、まだシャーマン王と政治王が分離しておらず、共立していた時期があり、太古ならばひとりのリーダーがそれを兼ねていた初期のスタイルから、古代になって宗教面は巫(かんなぎ=シャーマン)が、政治面は実践的男王が行うというスタイルに徐々に変化。中世では両者は完全に分離し、さらに近代には宗教と政治は分離する、という時代を区分する際の考え方、基準である。「ひこひめ」はちょうど日本の飛鳥時代、推古女帝と蘇我馬子の関係に比定できるから、近畿学派では重宝な定説になった。『日本書紀』が蘇我王権について記述したこの部分は、先に前例として神功皇后と武内宿祢の関係として、一軒、蘇我氏正統に見えて実は後世の『日本書紀』編纂時の藤原氏による「摂政正統性」のために作られた観念であることは明白。従って、ひこひめ制度が飛鳥時代にもそれが残っていたかどうか、まだはっきりとは言えない事柄だろうが、近畿古代学では当然の事実と考えられている。


『隋書』俀国伝には、倭国の王と中国使者が対面しているとあるが、王は女性ではなく男王の名前(アメノタリシホコ)であり、しかも使者が最後に謁見したのは政治家である蘇我馬子となっている。「タリシホコ」は「たらしひこ」であろうから、天から降臨した天孫で天皇のことになるので、これまた近畿古代学には都合がよい。『日本書紀』はこの一件で小野妹子が隋の煬帝からの国書を紛失したことになっているが、そんなことをしたら小野一族は当然、中央政界から一族郎党すべてが締め出され、遠隔地へ離散してしまったはずである。国書は中国側使者が必ず携帯してやってくるもので、案内役の小野妹子がなくしたりできるはずがないのだ。ところが小野氏や同族の和邇氏は、なぜかその通りに近江国や山背の伏見へその後移住し?本家のあった天理市の和邇地域はその後衰退したと見られ、国書紛失を理由にしたかに見せている。しかし実際は政治力の衰退であろう。和邇一族は3世紀以前から大和に先着していた渡来系氏族だろう。東大寺山古墳鉄剣は1世紀中国の元号が記載されている。これを公孫氏か北魏か燕国との中継交易であったとするなら、和邇氏や小野氏は近畿でも最古の氏族であって、神話から判断すれば因幡の白兎を渡らせたワニとは和邇氏の舟と解釈可能で、出雲日本海まで力があったことになるのだ。それがのちに勢力圏や交通路を継体=息長氏が奪ったと見ることすら考えうる。


また『隋書』には厩戸皇子も一切名前が出てこない。「わかみたふり」がそうであるとするにはあまりに名前が違いすぎる。厩戸は「とよとみみ」であり聖徳太子なのだから。つまりこれが聖徳太子は後世の創作された存在であることの証拠になるのだろう。蘇我王朝では政治王はあきらかに蘇我馬子であり、それが摂政ではなく王であった証拠として、息子の蘇我蝦夷は皇極女帝が行うべき雨乞い儀式というシャーマン行為をやっているのである。つまり蘇我氏は女帝の唯一の仕事である巫女としての役割までを奪おうとしたと『日本書紀』はしてあるわけだ。それこそは当時では越権行為だっただろうが、歴史から見ると古代から中世への政治体系の切り替えを蘇我氏がやろうとした=改革者だったことになるのではないか。


藤原政権下の文武のとき、大宝律令を規範とした律令制度は完遂された。そこにはちゃんと飛鳥浄御原令を規範としてと書かれた。飛鳥浄御原令は天武が作ったことになっている。しかしその規範は天武よりも前の、孝徳時代に孝徳が難波宮において発布した制度にあるはずで、そのまた基盤は蘇我氏が作っていたものだろう。それを藤原不比等はそのまんまちょうだいし律令制度は自分が作ったとしてある。しかも孫の仲麻呂の奈良時代には、さらにそれをばたばた仕事で部分的に改良しただけの制度を無理やり成文化しているのであるから、そもそも日本の律令制度は蘇我氏の手柄なのである。もっともその内容は中華律令制のまんま写しである。




さて話が横道にそれた。
本日夜9時、BSTBS「諸説あり」が邪馬台国スペシャル番組をやる。二時間枠で、いろいろと面白い事実を見せてくれそうで楽しみにしている。邪馬台国が、果たしてあったのか、あったならどこにあったのか?また中国で見つかっている新発見や、三角縁神獣鏡の謎などなど、解明してくれるだろうか?「早く言ってよ~~」と堀尾さんがうめいているような新発見とは?


Kawakatuの予想では、桜井芝の地名からワカタケル政権が先に使者として中国宋に送った司馬曹達を思い出すし、前方後方墳ならば高句麗か百済かとか、武内宿禰=葛城系伽耶勢力か?とかいろいろかんがえつく。纒向の吉備王政権が象徴王としての九州伊都国あるいは奴国女王を招いて造った邪馬台国と、高句麗系氏族が作った狗奴国の対立が大和で本当にあったのか?などなど実に楽しみなのだが・・・。もちろん心は百済王国があった吉野ヶ里に置いているのだけれど。そして邪馬台国吉備発祥説も。


吉備+尾張+丹波+筑紫伊都国王か奴国王=邪馬台国
これがひとつのKawakatu数式だ。今のところは。番組を見た後、それがどう変るだろうか?


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