改元記事は以上にして、もとの分析に戻る。



「吉備氏の系譜には3種類あり、それぞれその時代の吉備氏の立場を代弁している。
1.別(わけ)号の人名表記に古形を残し、王家との関係も姻戚関係のみで王族出身とは記さず、一族内部も対等の関係であったとし、5世紀までの部族同盟的な関係を伝える。
2.吉備津彦が四道将軍の一人として王家系譜に記載された事を前提とし、共通の始祖をその異母弟(吉備津彦命・稚武彦命)とした物で 6世紀中頃以降に作成された。
3.7世紀後半に笠臣と下道臣が中央貴族として立身した事に対し、上道臣らが対抗して始祖の尊貴性を主張するために作成された。」Wiki吉備氏


古代の記録にある氏族の中に「ワケ」のついた人名が見える。研究者によってはこれを吉備(岡山)王氏に関わる出自の人々で、その王権があってそれをワケ王朝と呼ぶ人もいる。

森公章や中田興吉ら多くの史学者や考古学者は、ワケは河内王朝の帝王たちの王家の名前であろうという。
ワケ氏族は四道将軍・吉備津彦を祖とする吉備氏族のステータス的な名称であろう。初出は第七代孝霊天皇(こうれいてんのう)の子孫だという稚武彦命である。その子孫を吉備氏と呼んでいる。




吉備氏系図

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吉備氏考http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-14.html





孝霊天皇の存在自体が諸説あるが、いずれにせよ記紀イデオロギーでも吉備氏は 重要視されていたことは否めない。また景行天皇諡号からワケが大王につくので。また巨大古墳の存在からも、あるいは纒向古墳群から出る特殊器台、あるいは大阪湾沿岸で出てくる弥生時代の吉備式土器から纒向型土器への変遷の古さから、松木武彦など考古学者の中には吉備こそが邪馬台国でるという説もある。




「7世紀以降、吉備氏は上道・三野・賀夜(香屋・賀陽)・苑・下道・笠らの氏族に分派し、姓(かばね)としては臣(おみ)または朝臣(あそみ)を称した。多くは国造や郡司などの在地の有力豪族であったが、中央貴族として立身した者も少なくない。

笠垂は古人大兄皇子の反乱を告発して名を上げ、上道斐太都(ひだつ)は、橘奈良麻呂の乱に功績があった。 下道真備(吉備真備)は唐に留学し、帰国してからはブレーンとして朝政に参画して重用された。また、臨済宗の開祖栄西は吉備津神社社家賀陽氏の出身である。 」Wiki吉備氏

河内王朝下で、雄略は葛城氏と吉備氏を粛清したとされるが、では吉備氏という王朝の先祖とも言えるだろう氏族をなぜ雄略が滅ぼすのか不思議である。考えられるのは応神~雄略という王家の中で 雄略の血統だけは吉備由来でなかったか?という疑問がひとつ。そうではなく政治的に宰相としての吉備氏が邪魔だったというのがひとつであろう。雄略の墓がなぜ応神・仁徳のようには大きくないのか、なぜ前方後円墳ではない(円墳)のかも不思議である。島泉丸山古墳(しまいずみまるやまこふん)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B3%89%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3



森公章は、ワカタケルからが大王で、それ以前は河内の王だったと推定している。大王とは全国を支配した帝王と言う意味である。

王なら全国古墳数15万がすべて地域の王だったとしてもおかしくはないわけだ。しかし大王はひとり。大王がいるということは、そこからが国家の成立である。


ワケのつく人名一覧
埼玉県稲荷山鉄剣 ワカタケル大王の時オオヒコから数代目にヲワケ(オオヒコ子孫)

記紀記録は上の系図を見られたし。