「帝王の退位により新帝王が即位すると、再び元年から始められ、一般的にこれも改元と呼ぶことがあるが、専門的には、治世途中の改元だけを改元とし、新帝王の即位による元年は称元(しょうげん)と呼んで区別することがある。」Wiki改元https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E5%85%83




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つまり令和改元された今朝を喜ぶのなら、「謹賀称元」「祝称元」が正しいとなるか?


剣璽等継承之儀 けんじとう・けいしょうのぎ
 剣璽(けんじ)は、三種の神器のうち、天叢雲剣(=草薙剣)と八尺瓊勾玉を併せた呼称。神器の勾玉を璽(あるいは神璽)とも呼ぶため、「剣璽」と称される。(現在は剣と玉璽だけのようだ。理由は後述Kawa)


剣璽渡御の儀は、天皇が譲位・崩御の後、皇位継承者(皇嗣)が践祚の際に皇位継承の証として剣と璽を受け継ぎ、新天皇となる儀式である。神体である剣と璽が新帝の下に自ら動くという建前から「渡御」(神・天皇等が「渡る」ことをいう尊敬語)という表現がとられる。この儀は、新天皇を国民や外国に公にする為の即位の礼とは違い、天皇崩御の直後に行われる。


桓武天皇の時代に定められた儀式(初例は平城天皇)とされ、平安時代中期以後は践祚直後の「夜の儀式」として行われた[「兵範記」後白河天皇重祚の際既定][加茂正典「剣璽渡御と時刻」
「兵範記」には「剱璽奉渡、依無白晝儀(剣璽を渡し奉ること、白昼の儀に無きにより)」新天皇の践祚が24日の明け方に決定したにも関わらず、渡御は夜まで延期されたことが記されている。以上Wiki剣璽

剣璽は本来は三種の神器のことであるが、これらは平家滅亡時の壇ノ浦に安徳帝とともに沈んだと思われる。のちに源氏方が海士を使って探したというが、剣は水面に浮かんでいたという記録もあり、すでにこのとき三種の神器すべてがレプリカだった可能性が高い。では本物はというと、記録では草薙剣は尾張熱田神宮に戻され(本来尾張氏の王璽だった)、鏡は伊勢神宮にアマテラスご神体として戻されていると書かれており、あるとすれば勾玉のみが宮中にあって、ほかは最初からレプリカであったことになるのだろう。ということは、八坂瓊の勾玉こそが天皇氏代々の王璽であるとなるだろうか?詳細は知らない。とにかく現在は剣と璽であるとされている。しかしこれも決まったのは明治時代ではないか?現在の典範そのものが明治の規定を基盤として、戦後修正されたものである。

すべての天皇に関する規定は、時の政治により変化してきたと考えてよかろう。決して神武の昔からあったものではないようだ。詳細は専門家の研究をお調べいただきたい。



※このような儀式のノウハウが、桓武以降にようやく定まったことは大事である。奈良時代には記録がないわけである。すると飛鳥時代の末に、持統天皇が即位したときに即位の儀や皇位継承の儀が定型化されていたのかどうかは調べてみる必要がある。またそれ以前はどうしていたのかもわかってはいない。なぜ儀式についての既定がなかったのか?あるいはあったけれど成文化されてなかったのか?この違いは天皇の開始時期を知るために重要なのだが、記録がなくまったくわからない。考え方次第だが、今に残るような皇室儀式の定型化は、平安時代を遡れないので、最初はなかったとしか言えないだろう。思うに、藤原氏の摂関としての存在感が定まったのは藤原氏中興の祖・道長以後ではなかろうか。宮中儀式の定型化も、おそらくこれを契機に固まっていった可能性があるだろう。





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