魏志は邪馬台国を北部九州にあった奴国や伊都国の南部にあるように書いた。
しかし考古学の出土遺物では、あきらかに3世紀後半には、主権が近畿にあるよに見える。


それに対して『日本書紀』は、あくまでも天皇の御世は大和に、太古からあったように書く。
しかし反面で神武と言う高祖は九州からやってきたとしている。


この三者の書き方の矛盾で、多くの時間が割かれてしまった。


しかし、まず『日本書紀』は、過去の歴史を利用して、今ある持統天皇の正当を語らねばならない立場にある書物で、そこには真実はありえない。

ところが『日本書紀』記述に、人々はあまりにもこだわりすぎる。その記述には、必ず偽証や正当性があったはずだと、右往左往させられる。それこそが藤原不比等の術中にはまったことになっている。


魏志と言う客観資料があるのなら、まずはそれに従うべきである。
そして近畿の3世紀の考古資料と付き合わせるべきである。
そこにはまったく『日本書紀』などは関係がない、と思わねばならない。『日本書紀』イデオロギーに振り回されてはならないのである。


そして結果的には、『日本書紀』が何をどう利用したかに行き着くという回り道だが、やるしかない。



ゆえに最初は記紀イデオロギーは払拭してかからねば意味はない。
結果として、どこを記紀が不都合とし、どこを有用としたかが見えてこなければ、意味がない。


『日本書紀』の魏志を利用した部分とは、卑弥呼と言う女帝が最古の王だったことである。するとその前に漢書が、奴国王帥枡について書いたことは、都合が悪い面と、よい面があることに気づく。神武のために、最古の王が九州にいたことは利用できる。だから神武は九州から熊野に来たとしてある。そしてそれが紀氏の先祖伝説であることは、熊野であることに集約されている。神武は紀氏の高祖の伝承でしかないのである。


『日本書紀』うそだと言いつつも、みなさんは『日本書紀』に翻弄されている。


うそでありながら、真実があるからそうなる。


神武は天皇の祖先ではないのだ。紀氏の祖先なのである。



そういうことをいちいち、細かく、文献と考古資料と伝承を当たって、見極める作業がみなさんには足りなくはないか?



















   

                                   にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ