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中沢新一も脳内麻薬エンドルフィンについて過去言及しているのを昨日読み返した(『芸術人類学』2006)。
以前はその部分は読み飛ばしたらしい。


エンドルフィンについてはここでも過去何度か書いた。
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/search?q=%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3

※ここの記事やワードを探すとき、右のバーにあるサイト内検索を使うと便利である。利用されたい。


脳内で作られるこの麻薬成分は、人によって、時によって、その量はまちまちだ。ある種の人は、平常でもかなり多めに分泌される人があるのかと思える。そういう人は幻覚を見たりが多いらしい。ならばエンドルフィン分泌を調節できるなら、彼は幻覚や超常現象を見なくなるはずだ。具体的には幽霊やもののけやUFOといった、この世にないものは見ないで済むのである。

エンドルフィンはこっくりさんやエンジェルなんとかいう遊びでも分泌されると考える。中沢が言うには、これはシャーマニズムでシャーマンが憑依するのに有効であり、それを促進させる類似品として麻薬は発見されたという。意図せずに、彼らシャーマンは、大麻やコカインを見つけてしまった。アルコールにもそういう助長作用はあるが、比較的ゆるやかで、副作用はないから、もっと過激なものを欲したのだろう。忍者もそうだろうが、憑依や魔術は、結局のところ薬品研究のきっかけにもなったわけである。それが博物学や本草学の始まりだったことになる。


脳内麻薬を自在に調節できるようになれば、宗教を基にする戦争や対立も減らすことが可能だろう。つまり人類はいかに自分自身の脳内麻薬分泌を牛耳れるかによって幸福にも不幸にもなれるのだ。


反面、エンドルフィンの作用しているものには芸術や詩作や音楽がある。エンドルフィンの高揚作用が、素晴らしい作品を生むことも否定できない。彼らがよく麻薬で話題になる理由はここだ。幻覚や高揚感に、自分のいきづまりを打破する力を求めてしまうのだろう。しかも麻薬は常習性が強い。エンドルフィンも常習性を強める効力を持つから、要するに麻薬や酒やコーヒーやタバコなどには、エンドルフィンを活発に分泌させる効果があるのではないか?


絵画は人類最古の「凝り」だと中沢や、考古学の松木も言っている。凝りとはこだわりや美的感性である。それが一番象徴的に見られるのはラスコーなどの壁画と中沢は言う。

あの壁画は、天井から画家を吊り下げなければ画けないような、危険な場所にも書かれており、そのためにはもっこやてんびんでも使わなければならず、しかもかなりな苦痛を伴う作業を必要とした。そのうえ最悪なことに、その地下からは濃度の濃いガスが噴出していたのであり、ただ絵を画いただけではなく、小集団による宗教的自傷行為・・・つまりイニシエーションがなされていたと考えられる。


いわゆるシャーマニズムも小集団の中で必要だったし、それが男性だけとか女性だけとかの小集団によって形成される原始的ムラ内部の単位で、最も多いのだということが言えるだろう。それは現代人のこっくりさんにも似ている。小さな仲間だけでそれは行われるゆえに憑依を引き起こすのである。それは小集団が共有する知識や感性を持ちやすいからに他ならない。しかしインターネットの時代には、その共有がどんどん拡大化する懸念がある。そのいい例は、各地で起こる体制反対のデモの拡大化と増大である。ネットの書き込みが脳内麻薬に火をつけているとも言えるか。ちょうどサッカー試合での国際間の民族主義なども同じであろう。


狭い空間と近しい小集団・・・実はインターネットもそういうところはある。ある種の共有する観念、意識の人々がサーフィン検索で偶然集まる。するとそこに連帯感が生まれ、集団行動が生まれやすい。宗教的に集団自殺が起こった事件を思い出す。あるいは戦時中の日本が自滅へと国民全員で突き進んだこともそうだろう。集団になるとそれらは一瞬で暴動や憑依やを完成させてしまうのである。暴走・・・。


民族主義や全体主義には、そういう暴走を助長させようとするところがある。もし彼らが人類のエンドルフィンを自在にできる科学を見つけたら世界中は戦争だらけになるだろう。科学にはそういう実験をしてみたいというエンドルフィン分泌の常習的願いが実は隠れている。いあわゆる科学自身が怪物化してしまう作用だ。そうなると手がつけられないから、早く抑制物質を見つけたほうがよい。

超常現象を見たと言う書き込みはどんどん増加している。そこに快感があるためだろう。それはSNSの「映え」写真の投稿とまったく同じ、自己顕示欲である。その原因がエンドルフィン分泌である。非常に危険なことになりつつある。それがやがて暴走によってリンチや戦争を生むことはありえると考えておくほうがよかろう。昨日まで普通の人間が、突然集まり暴走するのだ。それがSNSで拡散されることで、どんどん感染した場合、人類の滅亡まで引き起こし兼ねまい。筆者はネットやSNSには参加すべきではないと考えてきた。しかし若者は、寂しく、安易に仲間を求めようとする。

尾崎豊がなぜ自殺?的な死を選んだかというと、彼が、自分を、彼のそれまで反発してきた世界にいる「大人:になっていかねばならなくなったからだろう。批判できなくなったのである。そこに彼の創作の源泉は終わりかかっていた。あから活動を休止し、アメリカに。そして絵に画いたようにアメリカ社会に蔓延している麻薬という道具にはまった。吸い込まれるように彼は憑依し、飲み込まれ、そして壊れた。大人になってしまうのが怖かった。子供であることが売りだったのだから当然だ。つまり少年の破壊的行為は、いずれは社会に飲み込まれる運命にあったのだ。それは宿命だった。しかし彼は、内田裕也とは少し違う方法で反抗を続けようとあがいたのである。結果的に死ぬしか方法を見つけられなかった。ではなぜ内田は死なずにおれたのかを考えるべきだ。


それはいじめで自殺する子供たちへの、ひとつの解答にもなるだろう。内田は壊れそうな自分を知っており、それを押さえ込むために、壊れたふりをし続けた。孤独だったろう。子供のままでいることこそは芸術の源泉。なぜならエンドルフィンを出し続けることが芸術の原点である孤立と独自性と爆発力を生み出すからである。いい人間であること、常識であることt、芸術性は往々にしてひとりの人間に同居しない。いい作家、いい画家、いい音楽家とはときとして変わり者である。社会にはなじまない人が多いのはそのためだ。だって人とは違うことをするのだから。つまり人とは違う道をゆくということは、孤独で、けったいで、きてれつで過激なのである。つまり芸術家や文筆家はどうしたってひとりでいなければならないのだ。


普通の人間では、友だちがいたら、その人に関わる何かをかけなくなってしまう。つきあいとはそういうものだ。それは表現者には不自由で、ストレスになるのである。普通に、あなたがたのように生きることが、かっこ悪いのである、彼らには。違わねばならない。それが表現で食うという意味なのだ。いのちがかかってしまうものなのである。友人はできなくて当たり前なのだ。孤高になりたければたやすく迎合してはならない。問題児にならねば不可能だ。


ところが日本と言う国は、みんなと同じであることに異常なご執心をする国民であふれているという、まことに奇妙奇天烈なパラレルワールドである。「ふつー」であることが最重要なのだ。それではよい芸術が生まれるはずもない。よい芸術家は、子供のときに、すでにそうした日本人の「ふつー」への憧れを捨てている。最初からスタートが違うのである。それを天才というときもある。

99%の人間は凡人である。つまりSNSのフォロワーとはそういう人々の別名なのだ。それをフォロワーが自覚していない場合、悲劇が起こる。裏切られたとかが始まる。凡百を自覚しないから暴走が起こる。ということは自覚こそがエンドルフィンを抑制する機能なのかも知れない。

筆者などの人生は凡百の前半を過ぎてようやく、この社会のばかばかしさに目覚め、働いている場合じゃないと思い始めて仕事やめて、家庭を捨てた。それはまったくの勘違いなのだが、そうなった。だから老いて生き恥を晒すことになっているわけである。


人をわけわからんと思うのは、分かろうとしていないからである。最初から。それは「区分」であり「差別化」しただけであって、そこには愛はまったくないのである。愛のないものに宗教家になる資格があろうはずもない。ただの優柔不断な八方美人なら、それは政治家に向いている。






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