~2世紀の北部九州の遺跡

hokubukyu





参考文献 中山興吉『「大王」の誕生』2008

       森 公章『東アジアの動乱と倭国』2006など




中山興吉によれば、日本古代の漢鏡出土の推移は、最も多く出ているのは、

二世紀 北部九州 奴国一帯(須玖岡本・松添遺跡など)と伊都国一帯(三雲南小路・平原遺跡など)、ほかにはその周辺域である井原鑓溝、門田辻田、桜馬場(末盧)、吉武高木、東部遠賀川流域の立岩(不弥?)などの遺跡に集中している。


kankyo
中田『「大王」の誕生』より(最上段も)


すべて北部九州であり、範囲は『魏志』倭人伝が描き出している世界である。
ところが3世紀になるとこれが近畿へ移ることは誰でも知っていることであろう。


図表を見てもわかるとおり、あきらかに漢鏡の出土中心地は、
1世紀第5期では各地にちらばっていたのが、2世紀第6期までには圧倒的に北部九州にまとまってゆき、しかしながら3世紀になったとたん(第七期1段階)にまたちらばりはじめ、3世紀後半(第七期第2段階には近畿が中心地に変わっている。


この流れは大陸における前漢~新~後漢~公孫氏~三国時代という東アジアの激動とリンクしている。

つまり、1世紀にはまだ中国とのつきあいは各地がてんでんに開始していたが、前漢が滅びる直前にはなんらかの事情で北部九州が一挙に独占。ところが新を経て後漢の時代には、魏志にある倭国乱が起きたのだろうか、再び鏡は各地に散らばり、北部九州が衰退を始めた。そして邪馬台国直前の時代になると、それらはみな近畿の独占するところと激変したのである。


ではいったい、鉄でも鏡でもあれほどの権勢を誇った北部九州は、どうして2~3世紀の動乱時代に衰亡したのか?


諸説あるが、どれもこれだという意見がないようだ。
つまりこれこそが邪馬台国がどこだったかの混乱の原因なのだろう。

もちろん大陸の激動は、最初は天候の不順でひき起こるのが常である。それは半島や列島にも波及する。属国関係を形成していた古代では、それは運命だ。

前漢も後漢も匈奴などの異人種外敵に苦しみ、最終的にはあっけなく滅びていった。奴国王が遣使したり、倭国が乱れたり、卑弥呼が遣使を送るのもそうしたさなかである。つまり邪馬台国は東アジア中国の激動の歴史の中に浮かんだ小舟でしかない。

最初、卑弥呼はいない。男王の時代が70年ほど続いていた。しかし漢が遼東・のちの高句麗あたりを攻めるようになると再び乱れる。そこで祭祀専門だったシャーマン女酋長の卑弥呼が、その予言・予知能力を
買われてか、女王に立てられた。ところが遼東にあった公孫氏勢力も、帝国の圧迫によって滅んでしまった。それまで卑弥呼や各地の王は、公孫氏を通じて漢鏡や呉鏡を手に入れられていた。それがストップした。

こうなると直接中華帝国へ使者を出して朝貢するしかない。それで伊都国一大卒の難升米らを派遣したわけだ。このとき金印紫綬を得たが、そうした国は倭国と大月氏国だけである。大月氏国は魏のライバル蜀の西にあって、挟撃できる位置にあった。ゆえに金印紫綬される。しかし倭国にはどんなメリットが?

これは半島へのにらみであろう。もともと魏の曹操は先祖が倭人と付き合っていたことが祖先の墓に書かれていた倭センによってわかっている。まったく知らないわけでもなかったのだ。この倭人とは北部九州から半島南部海岸部にまつろう海人族だったかもしれない。つまり海賊である。


倭国小国家には古くから呉越と交流していた倭人がいたはずである。ゆえに呉の鏡も出土する。また神獣鏡はあきらかに呉の絵柄である。それは神仙思想の絵柄であり、公孫氏もまた五斗米道の神仙思想とシャーマニズムで統率していた。おそらく邪馬台国もそうだったであろう。つまり当初は魏呉蜀の中では南部のDNAの似通った倭人種近似の中華民族とのつきあが深かったであろう。それが魏が台頭すると、いたしかたなく華北人種国家とつきあうしかなくなるわけだ。


では北部九州の王族たちはどうなったのか?
甕棺の中に、戦争傷の死者が出る。それは北部九州と日本海側だけである。最初は北部九州は勝ち続けていた。しかし3世紀になるとにわかに負けだしたようなのである。先進の武器や鉄器を持っていた軍事のプロたちが、なぜ負けたのか?もっと先進の武具を持った人々が来たのか?あるいは出雲から鳥取青谷、丹後まで含めた日本海文化圏の渡来人にやられたか?


いずれにせよ、この間隙を縫うように、いきなり3世紀後半、邪馬台国と卑弥呼が持ち上げられてくる。それは北部九州も含めたかなり広範囲の国家群による推挙だったらしい。

それまでは九州の独占であった。とkろが北部九州は負けたのである。すると3世紀後半以降、まさに古墳時代初頭には、北部九州から大きな墓と豪華な遺物が消えて、大和に前方後円墳らしき墓が登場。それまでとはやや違った新時代の漢鏡・・・画文帯神獣鏡が登場。死者の頭部に置かれる最重要な鏡として出土するようになる。

ゆえにこれだけでは3世紀後半の邪馬台国が大和にあったという証拠にはならないだろうが、権力の過渡期に女王国は持ち上げられ共立されたのであり、北部九州は彼女の置いた一大率により「監視」されることになったのである。監視がいるということは言うことを聞かないからである。それは奴国や伊都国が邪馬台国よりも古くから中国にとっては倭国だという認識であり、朝貢の歴史があったからにほかなるまい。


一大卒を伊都国におき、もっぱら執務はここでやっていると魏志は書いている。つまり実質的な政治上の首都は伊都国であり、邪馬台国は遠隔地の祭祀集団国家でしかないのである。つまりだからこそ当初は武器や鉄器や戦争の痕跡はないはずである。それは銅鐸ばかり出ていた大和にはふさわしいという意見を生むことになるだろう。


続く


朝鮮史を少し勉強しておきたい。高句麗や百済や大加羅の建国史と倭国の関係である。














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『日本書紀』神話が、笠沙のような最南端に天孫を降ろしたということがどうしても気にかかっている。
そしてアマテラスと言う太陽神の岩戸隠れと、当時が1~2世紀とした場合の天候の不順の合致。
日向の古墳群への異常な力の入りよう・・・。
神武が日向から出航する理由・・・

どうも『日本書紀』にも真実は隠されているのかも知れない。
笠沙つまり薩摩半島こそがもしや卑弥呼がいたからだと不比等は想定したのではないか?