アジア人の起源を今回ゲノムで探ってみよう。

まずゲノムとは何かから簡単に。


人類の遺伝子は母方と父方の組合せで決まる・・・そう信じられてきたが、実はそのように単純なものではない。

もっと遡って、核ゲノムには、さらに古くからの基本的構造が存在する。




1ミトコンドリアDNA遺伝子とは?

母方遺伝子である。間に男性が入らない限り、母方遺伝子は永続的に受け継がれる。しかしあいだに男性が入り込まない遺伝子などはあるはずがない。婚姻しなければ子孫そのものが生まれないからだ。だからミトコンドリア遺伝子をグループに分けて人類の起源をさごろうとするかつての研究には、最初から意味がなかった。

しかし、期限を探り、その大元を確定するという人類の根源的な「実存主義哲学」が、一時期これをヒーローにした時代があった。今から10年以上前、世界でもやがて日本でも、この説は「唯一絶対の数学的解答」だとされてしまう。一度脳みそにその情報を信じ込んで取り込んでしまうと、人間はなかなか開放されることがないものだ。いまだにハプログループでの過去の、古臭い、誤った解釈は消えてはいない。これは科学の罪である。


2 Y染色体父方遺伝子とは?
これは男性の遺伝子だが、すぐに消えてしまうもの。だからMT分析の補助的考察として、同じ時代に生まれることとなった。しかし、所詮MTもY染色体も、生物の中にたくさんあって、取り出しやすいという理由だけでサンプルにされた過渡期の産物である。


3 核DNA

まず絵を見ていただく。

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http://www.akira3132.info/gene_DNA.html



核とは細胞膜の中の核心である。米で言うなら発芽部分。
核心であるから、細胞にひとつしかない。ゆえに取り出しにくくサンプルは少なくなる。一方MT遺伝子は核の周囲の流動的なゼリー質の中ならいくらでも存在する。(わかりやすく書いている)


最初から数が違う。これが古代人類の骨などから採集する場合、まずはゲノムは取り出すのは困難だが、ミトコンドリアやYなら簡単に取り出せる。だから研究の中心はかつてはMTであった。


ところがMTやYは、やがて消えてしまう、連続が無理な遺伝子だった。永続できない遺伝子で人類の起源をさぐろうというのははなから無茶苦茶である。そこでついに現在はゲノム分析となった。サンプルは少ないが、それは人類の各地での混血に、爆発的な真実をもたらすことになる。当たり前だ、そもそも核心をついているのだから。


こうしてゲノムサンプルがこの10年間に世界中で採集された。そこにはMTやYでは見えなかった、継続してきた人類史が刻み込まれていたのだ。

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https://togetter.com/li/1187847

ネアンデルタール人とクロマニョン現生人類との混血も、ゲノムでなければわからなかった。さらにネアンデルタールが、まったく別の旧人デニソワ人とも混血し、それらはロシアのデニソワ洞窟から三方向へ拡散したことも最近わかったことである。彼らもまた現生人類との交雑を行っていた。そのゲノムには、MT遺伝子ともY遺伝子とも違う、人類の新たな道があったことを語る核心が存在した。


彼らの三種類のゲノムのひとつは、あきらかに彼らがやがてメラネシア人になったことが描かれている。



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https://twochannel.wordpress.com/tag/%E3%83%87%E3%83%8B%E3%82%BD%E3%83%AF%E4%BA%BA/


さらに今回、二箇所の分岐点もおぼろげなら見えてきた。
インドシナと中国南部である。

これらはバイカル湖から拡散されたとされていたMT遺伝子の限りなく「日本人は北方系」という常識を打ち砕いて、ほかにもルーツはあったという驚きと新説をもたらすことになる。


そして遺伝子分析の「核ゲノム以外からは真実は絶対みえない」ことを、ついに人類、科学は理解できた。ミトコンドリアもY染色体も過去の邪論として 、学会からは消えてゆくことになる。



ところがおばかな人間は、いまだに頭が切り替わらず、MT遺伝子によるハプログループのしもべになっているのが実情である。頭を切り替えられないマニア、おたくがいまだに残存する。このように、新説とはなかなか受け入れられない「チンパンジーたち」によって、まだ数年間続いたのち、結局は急転直下で、手のひらを返すようにゲノムに切り替わり、それまでの騒ぎや、それを信じ込んでしまったおっちょこちょいぶりなどなかったようになることだろう。
あたかも雑音だったと。それが淘汰である。


少なくとも、筆者は今から10年前に、それではダメだよと書いた。

サンプル数も、古代から現代までを通して語れるハードでも、ダメだと直感していた。


しかし、そのことなど忘れ去られるに違いない。筆者は専門家ではない。しかし人間の動向なら、いくぶんクロウしてきたから見える。ただ少しだけ人より見えた、それだけのことだ。所詮しろうとの着想などは、専門家に利用されるだけで相手にはされない。誰かがひとりでもKawakatuがいたなどと言ってくれるはずもない。むなしい道だ。しかし充実感はある。定説や権威に、見えないところでヒントをくれてやっているんだから。


それは人間を見てきた経験の差である。学者にはそれは期待できまい。彼らのいる世界は狭いのだ。なのに意地があり、自分が正しいと思い込もうと科学者はする生き物だ。しかし、必ず人間を扱う限り、行動や歴史にはパターンがあり、ある程度の志向性は見えるのだ。それは遺伝子ではなく、遺伝子が伝えてきた人間の共通の行動学であり文系のものである。


そのように科学は、ある一面で、馬鹿で経験がなくてフランケンシュタインになりがちだから、監視してやる必要がある。さながらオームのごとく彼らマニアは、行き着くところまで行かねば満足しないやからで、ひくことを知らぬ幼児である。チンパンジーよりたちが悪い彼らは、畢竟、死ぬまでレイラインやMt遺伝子にはまり込み、アザ割られていることには気がつかない。そういうところが人類にはある。持たされているのだ。究明への使命感として。しかしそういうものがときとして戦争やテロも引き起こしてきた。

そういう場所、世界には近づかぬほうがいい。彼らは病気なのだ。どうしようもない。そして他社を寄せ付けぬことをなんとも思わないやからなのである。まさにオームと同じ結果しか導かないだろう。結果としてやがて彼らは排除され、死ぬのであろう。正道の邪魔をした挙句に封印されることになる。祟らぬように。