「近江は、『古事記』では「近淡海(ちかつあはうみ)」「淡海(あはうみ)」と記されている。7世紀、飛鳥京から藤原宮期の遺跡から見つかった木簡の中には、「淡海」と読めそうな字のほか、「近淡」や「近水海」という語が見えるものがある。「近淡」はこの後にも字が続いて近淡海となると推測される」Wiki近江国


また藤原(中臣)不比等の通称が「淡海公」であり、藤原氏は近江にかなりの領地あるいは勢力範囲の土地を持っていたようだ。すると近江国坂田郡の息長氏との縁古は、不比等がはじめたかと推測できそうだ。不比等はそのあと『古事記』成立年に息子の武智麻呂(むちまろ・藤原四家のひとつ)を近江守として送っている。このことが息長氏外戚関係樹立のきっかけか?『日本書紀』の描いた息長正統性のための記述は、神功皇后に始まって天智の母となった広姫まで、ここからえんえんと、あたかも実在した豪族かに描き出すわけだ。


藤原武智麻呂-和銅5年(712年)任官
藤原仲麻呂-天平17年(745年)任官
藤原縄麻呂-天平神護2年(766年)任官
藤原家依-宝亀2年(771年)任官
藤原種継-天応元年(781年)任官
(●藤原氏の故郷とは?
大山誠一は近江国は中臣氏の出身地だと考えているようだが、筆者はそうは思わない。そこが故郷ならわざわざ地元国府へ長官として人を送るのは奇妙だ。中臣死の故郷はでは鎌足出身地とよく言われてきた鹿島であろうか?後述する。)


不比等は同時に、蝦夷討伐から帰国したばかりの元常陸国按察使(あぜち=監察官)だった息子・宇合(うまかい)を常陸国(茨城県)の長として送り込んだ。これは在地にもとからあった鹿島の神・タケミカヅチを取り込むためであり、このとき、鹿島には中臣の部民がいて、中央へ鹿島の在地土地神(おそらく蛇体の神)を奉祭することを願い出ていたのを、不比等はチャンスと見て、鹿島を父・鎌足の本貫地と絵を描き、ついでに鹿島の霞ヶ浦対岸の土地香取を取り込んだ。その記念としての香取神宮である。そのときまで在地の神・板戸社と沼尾社を合わせて「香取天之大神」社と変えて、そこの神だったはずの鹿島遥拝いのりの神を、 物部氏の御霊フツヌシと交換するという芸当をやってのけた。こうして鹿島のタケミカヅチは奈良の春日大社へ祖人=鎌足本人として組み入れられ、『日本書紀』出雲国譲りのさいの鹿島遥拝のためのイノリの神のある場所に、なぜかいきなり物部氏の剣の御魂であったフツヌシとともに祭られたのだ。



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東国三社の位置関係
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結果的に藤原氏の大元・中臣氏は、物部氏を大事にしてきた忠臣祭祀氏族であったことを創作したことになる。これが実に養老年間の出来事で、一巳の変の直後だったと上山春平は考えている。あまりにタイムリーなできすぎた話である。あきらかにそれならば、鹿島と香取の両神宮こそは、蘇我氏滅亡のたまものであり、『日本書紀』神話もここに基点があったという話になるのである。出雲と伊勢を敗者(蘇我氏)と勝者(天皇)を鎮撫する形式は当然だとしても、まさか地方にあった有りもの神社を記紀イデオロギーでまるっぽ改変していたとは!実は藤原宇合は『常陸国風土記』の編者でもあったのだ。もともと文官として才能の高い人だった。その風土記の中に、有名な在地の自然神であったミヅチを、中央からやってきた役人が退治して、神が入れ替わった、そして神も時代により換わるのだと言っている話が乗せられていることはご存知と思う。あれなどはまさに藤原が在地中臣部民の神と土地を本貫地として強奪したことなのではないのか?そもそも鎌足の出身地や出自は不明である。もしやここ鹿島の部民であった中臣から出てきた野心多き「やから」だったのでは?いやいや、そもそも鎌足など本当に『日本書紀』どおりの人物だったかもわかったものではない。すべて一巳の変後に不比等が創り出したイメージでしかあるまい?


事実、実際の藤原氏には中臣の一員だったという確たる証拠もなく、どこから生まれてきたかもよくわかってはいないし、中臣氏自体が、どこのどんな集団かも定かではない。一説で九州豊前国の中臣村が出身地とか、近江だとか、京都の山科(鎌足所領)だとか、大和地元からの豪族とか、諸説紛々。そればかりか、物部氏や守屋の神霊を、さほども丁重に、高祖とも見ていた気配は毛もほども感じられないのである。むしろ物部氏・石上の武器や宝物類、財産、所領などは物部→蘇我→秦氏と転々としてそのつどの政治資金となったばかりか、結局最後は藤原氏の手にまるっと入ったことになるわけだ。それなかりではない、古代物部氏が宮中祭祀の中心にあったその権力までも、蘇我氏も藤原氏も持ちえてしまうわけである。つまり畢竟藤原氏にとって、物部祭祀集団の力は是非とも手に入れるべき権威であった。また『日本書紀』の鎌足と天智の蹴鞠での出会いも、明白に朝鮮の金庾信と同じで、その大元には中国周文王と太公望との釣りでの出会いがあるはずだ。


そうして見ると蘇我と藤原の妻が同じ構図になっていることに気づく。蘇我馬子の妻は守屋の妹であり、藤原鎌足の妻は蘇我氏の娘であったのだ。どちらも妹が前の権力を手にする権利を持っていた。だから妻にした。最初から奪う計画での政略結婚という天下取りのパターン、ノウハウが見えてくる。まるで武家の戦国時代である。これが政争史のひとつのセオリーの開始だったのだろう。


伊勢と出雲の関係がすべての神社祭祀の基本になっているように記紀は見せる。しかしそのはじまりは蘇我氏滅亡後の藤原時代~9世紀に成立しているのである。『日本書紀』編纂も、『古事記』に対する藤原氏の史書だったのであり、藤原一番、摂関至上という書き方になっている。その藤原不比等一代のできごとだ。そしてにわかに生えてきた竹の子のような
不比等の勢いに、にわかに蘇我家臣団から近づいたのが、不遇だった氏族である。紀氏、忌部氏などなどによって『日本書紀』はまたたくまに完成してゆく。


息長氏の登場も、ある意味唐突ではあるまいか?蘇我氏が外戚としてのさばっていたあとを、新たな外戚として武智麻呂が持ち帰ったのが息長系譜ではないか?広姫から遡ろうとすると、その血統は父・息長真若王の先でぷつんと途切れており、空白期間があって今度はいきなり継体の関係者として登場したかと思うと、その前の河内王朝の母親としての勇猛果敢な女帝・息長帯姫まですっとんでしまう。この女性のモデルはどう見ても斉明と持統である。そして持統こそは卑弥呼以来の日本最初の実在女帝で、初代天皇になり、アマテラスが突然伊勢に祭られている。それ以前にアマテラスなどという神は世間に存在していなかったのだ。宮中でさえ、もしも天武の長男・草壁が夭折していなかったら、アマテラスなど必要がない。だから神話の中でも、最初の宇宙と地球の造化三神たちも、あるいは父母で皇祖の祖人であるはずのイザナギ・イザナミの国生み神もうしろに下がらせてしまって、アマテラスが最高の神・太陽神となって登場。出雲にいたと無理やりにされたスサノオとその婿・オオナムチを押しのけて国をぶんどってしまう・・・。ここにちゃんとスサノオはアマテラスの弟だと書いてある。


太陽神だから皇祖なのではないのだ。皇祖だから太陽神なのである。そしてスサノオは敗北者であり、暗黒界の帝王・蘇我氏の祖なのである。ゆえに入り婿のオオナムチ=蘇我氏本人とともに出雲に封じ込めた。背後はスサノオ、西からソガ社、神殿内部ではオオナムチは大和に背を向けさせられ、真横に南を向く造化山神とアマテラスが監視体制なのである。二度と出てこないように蘇我氏を封じ込め、祟らぬようについには大和の祟り神・大物主=物部氏の神霊でにらみつけた。それが大物主とオオナムチは幸魂・和魂という意味のだ。敗者と敗者で押さえ込んだのである。その三輪山の大和は守られ、その真下には宗我坐宗我津彦神社があるという、まあ、絵に書いたような構図である。しかも三輪山には物部・石上・高祖ニギハヤヒたちが見つめている。ところが、宮中からアマテラスは追いやられ、伊勢に放り込まれてしまう。なぜか?藤原氏の力が弱体化して、橘氏に乗っ取られたからにほかなるまい。追い出されたのだ。なぜ?アマテラスは藤原政権外では皇祖ではないからだ。それは持統以下の息長天皇家にとって不比等が創り出した皇祖でしかなかったからだ。だから持統しかご参拝には行かなかった。神功皇后が新羅出兵のときに遥拝したというのも真っ赤な創作である。前例として書き足しただけである。それが息長氏の娘だからだ。


そもそも息長氏とは藤原氏ではないのか?
大筒木真稚王とか、葛城と結婚したとか、三尾氏の娘が継体の母親とか、近江出身とか、摂津に住んで筑紫と貿易したとか、すべて嘘八百の可能性が高い。すべては蘇我に換わる架空の外戚をひねりだせばよかったのだ。そしてそれは藤原氏そのものでよいのだ。影の外戚でよい。だから不比等はあまり外戚関係や出世を口にしないではないか。しかも淡海公なのである。淡海を領地として、京都市の北から田辺あたりまで所領にした。それで京田辺の真南には大隅がある。『日本書紀』編纂に関わった田辺大隅がいる。大隅車塚古墳がある。彼は隼人であろう。そこから日向の襲の笠沙の岬という天孫降臨地の地名は出てくるのであろう。
大隅八幡宮は阿多隼人、大隅隼人たちが祭った先祖が祭られる。そこに田辺大隅や藤原不比等も祭られているかも知れない。


これらの背後で暗躍したつなぎ約がいた。秦氏である。秦氏と藤原氏にも婚姻関係がある。そして彼らは播磨に拠点を持っていた。秦河勝の坂越伝承である。だから古墳が日本一多い。灘が海人族の拠点で、海上交易の港だったからだ。さらに対岸の四国には石棺石材や水銀が多く取れる。こうした理由で殖産氏族であった秦氏は各地に拠点を持っていた。金もある。海外にも詳しい。神武の東征をアレクサンダー大王から思いつく。


つまり出雲をぶんどりながら天孫がなぜ遠隔地の無関係な、しかも筑紫島の最南端などに降臨するのか?おかしいではないか?


筑紫を彼ら豪族の出発点とするからだ。誰が?藤原氏たちがだ。紀氏がそうだ。物部もそうだ。多くの氏族が最古の王がいたと中国が書いた奴国や伊都国にスタートを求めたいのである。最古だからだ。しかしその前は、彼らはどこにいたか?もちろん渡来した氏族なのだから伽耶に決まっていた。葛城も吉備も、出雲も当然九州氏族は全部伽耶出身だ。奴国王とは伽耶王なのだ。それがやがて三韓が隋唐に押し込められると高句麗や百済が、全員、日本に逃げてきた。伽耶のつぎに高句麗王も国家を建てた。高句麗王の子孫が倭五王、その子孫が蘇我氏だ。そして百済王も立てた。それが藤原である。不遇な日本では最初は部民である。そこから虎視眈々王位を目指したのだ。こうして皇位と政権は転々とした。だから昭和天皇も生前、持統天皇より前の王は知らないと言われたのだ。


『古事記』序文にはこう書いてある。『古事記』を造ったのは「斯乃邦家之経緯、王化鴻基焉」のためであると。意味は、われわれ臣下がこれを作るのは中華のように国家に王を作り、鳳のごとく歴史をはばたかせるためである。である。つまり古代の明治維新なのだ。それがようやく藤原政権下でできあがろうとしていた。それをわれわれは大宝律令制定と教わる。その前の大化の改新などはまだ律令化と王化はないのである。それは天武がクーデターで樹立したわけでもない。ひとり藤原不比等こそがそれをなしとげたのであった!ここからが大和朝廷の始まり、天皇制のはじまりである。皇紀はわずかに1300年。それ以前に天皇なし。大王はすべてまだ地方の大国家であった。そのときにはまだ築氏にも吉備にも王家があったのだろう。中央集権は蘇我氏が開始した。それを不比等は殺して奪い取った。


だからこそ思う。平成の今上天皇がなぜ伊勢に行ったのか?それこそは右傾化の正当性のためなのではないかと。気をつけろ。危険だ。監視せよ。そして次の皇太子・秋篠宮に望む。皇室の中から天皇は人間になるべきだ。自由に働け、税金も払い、自前の金で好きなものが食べられる、本当の国民に。基本的人権を手に入れねば自由主義社会・民主主義社会では、一般平民なら差別される。「それでは被●別者と同じではないか!!非●民!」と。それが真実の国民になるということだろう。本当の段から降りて、法的に自由平等と人権を手にするべきだ。王でさえも今は。違うか?令和は皇室が変わる。そう信じて筆をおきたい。変ってもわれわれの皇室への尊敬は少しも変らない。



参考 大山誠一、上山春平 加藤憲吉 岸俊夫らの著作を総合して

 

次回、怨霊思想と伊勢・出雲信仰は、靖国とは全然別物