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出雲大社本殿西にある素鵞(そが)社
出雲大社北側にはスサノオを祭ってある。
北にます神は北極星=天子である。
それは葛城と吉備の王である。
西は黄泉。
そして黄泉の神蘇我氏は本殿オオクニヌシと対面している。
これこそが蘇我氏=大国主オオナムチの証拠だろうか?





大山誠一の論を借りるなら、『日本書紀』が言わんとした最重要命題は、

1 蘇我氏の祟りを出雲大社に封じ込めること

2 そのためには蘇我氏出身の聖人を創り出し

3 その聖人が仏教の聖人であること

4 これらの装置を置くことで、結果的に蘇我氏は悪で、滅ぼされて当然とし

5 それを滅ぼしたのは息長系皇祖としての天智天皇であり

6 その弟天武天皇の子孫である草壁皇子こそがそれを継ぐのが正統であり

7 引いては草壁皇子を担ぎ上げた藤原も当然正統な摂政となるべき氏族なのだ

8 しかし草壁が夭折したので”しかたなく”母親を代役にした”のが初代の天皇初代・持統である

9 このために、『日本書紀』では持統女帝のために神話の最上位がアマテラスに置き換わった

10 それが歴史的事件であることは崇神の章で宮中からアマテラスを伊勢へ云々で前例として
前倒ししてある


以上『神話と天皇』から要約


これに付加・修正してKawakatuが以前書いたのは、

6藤原不比等の望む初代天皇が草壁ありきだったのなら、なぜ高祖諡号(国を開いた人)を持つ天智天皇の子である大友が正嫡なはずなのに、なぜ弟かどうかも怪しい天武の子・草壁なのか?それは(壬申の乱があったかどうかはさておいても)とにかく中華的な史書体裁を整えるがために、壬申の乱と言うクーデターで天命を受けた大王が本当に存在し、その子供が天皇となったとしたかっただろうし、大友は実際に死んだからだろう。それはよしとしても、藤原不比等は最初から持統を傀儡女帝としたかった(蘇我氏の推古女帝のように)のではないか?つまり草壁は病死や夭折ではなく不比等が殺したのではなかったか?だった。

大山は、藤原不比等と紀清人(きのきよひと)が『日本書紀』編纂には大きな影響力があったと考える。それはおそらく正しかろう。壬申の乱には考古学的証拠がほとんどない。だから大友を『日本書紀』が自殺させたわけはよく見えてこない。また天智が唐・新羅と白村江で敗北したことを正直に書く理由も、大山説では説明が出来ていない。

天智と息長母方血脈が正しいとするのなら、天智の大失敗を書き残す必要もなく、改変すればよかったし、大友も病死でよかったはずだ。なぜ天武を天智の実弟と改変してまで天皇にしてあるのか?


それが事実だったからである。
天智は本当に白村江から逃げ帰って、筑紫にとどまるしかなく、すでに畿内では赤恥を書いた存在であったから、その嫡子も自殺するしかなわけだ。それを壬申の乱での敗北死で、感涙の美談に変え、天智を天皇でははじめての戦う勇者に変化させる。しかも天智こそは藤原の祖人・藤原鎌足とともに蘇我入鹿を誅殺したヒーローであり、天皇の高祖なのだと潤色したのである。

大山の著作ではほかにも『天孫降臨の夢』や聖徳太子はいなかった論説を読み返してもいるが、彼の論説は聖徳太子とは蘇我氏から創り上げた想像上の仏教の聖人、象徴、天皇の祖先であるというものが今の教科書では受け入れられた格好になっている(聖徳太子の名が消えて厩戸皇子に変わった)。

聖徳太子は主として不比等死後、子供の光明子とその子藤原仲麻呂が、不比等の意志を受け継いで仏教の成人として大いに喧伝する想像上の人物である。なぜそうしなければならぬかと言えば、蘇我氏三代の祟りをおそれたからである。蘇我氏出身の厩戸や推古を天皇の前例の立派な人と言うことは、滅ぼした蘇我氏を鎮魂する藤原氏にとって一大「事業」だった。入鹿が祟らぬように彼を聖徳太子にしてしまわねばならない。

同時に出雲にはオオナムチとして蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿、石川麻呂らのすべてを封じ込めることになる。なぜなら彼らは高句麗系大王家であり、その先祖は葛城氏というよりも武内宿禰という倭五王の摂政一族の血脈だったからだ。出雲には蘇我氏ばかりか、スサノオとオオクニヌシとして神格化したすべての歴史上の異人大王関係者がすべて押し込めてあるのだ。つまり持統以降の倭人オリジナル天皇家の正当化のためである。


そこには物部氏、葛城氏、吉備王氏などなどの、『日本書紀』が書きたくなかった近畿の前王家のすべてが押し込めてある。もちろんニギハヤヒもナガスネ彦も、縄文的人々も近畿内部のすべての敗者たちである。


しかし、『日本書紀』にとって最重大なのはやはり蘇我氏であって、ほかは二番手である。

物部氏の重要さを以前のKawakatuは重視した時期もある。しかし物部氏には『先代旧事本紀』が後世作られ、残されたからこそ歴史好事家たちの耳目に登り、かまびすしく重視されることになったから人々がそっちに目がいってしまい、大王が天皇家だけでなかったことに使われすぎてきたのだ。一方で、しかし蘇我氏や葛城氏や吉備王氏らには、それがないため、これまで文献史学では重視されてこなかった。一般好事家も彼らについて知識がうすいままだった。『旧事本紀』が言うニギハヤヒが、大神神社の大物主であろうと思うが、その理由は、出雲のオオクニヌシ=オオナムチまでもが三輪山に祭られたとあるからで、彼らが蘇我氏・物部氏と言う歴史の敗者で同じだからだ。


藤原氏の大元である中臣氏は、そもそも物部氏の祭祀者集団でしかなかった。
ならば『日本書紀』にはもっと物部氏を中臣氏の高祖として記述があってよういはずだが、一切ない。蘇我氏を滅ぼす大前提、方便にしているのみである。これは考え方次第では、むしろ物部神道から中臣神道へ切り替わることを藤原氏は望んでいたと見ることさえ可能である。

つまり藤原氏は物部氏をさほど重視していないのだ。

四天王寺は物部氏自身が物部守屋を祭る神社があったところを、のちに寺にした。
それが聖徳太子によるとなっているが、そうではあるまい。蘇我氏がそうしたのだろう。当然である。蘇我氏が守屋を直接殺したのだから。鎮魂するのは歴史的に常に勝者である。藤原氏は関係がない。

物部氏にあまり関心を示していると『日本書紀』の裏側の真実を知るには邪魔になるのである。





おまけ
神武東征とアレクサンダー大王の東征類似点対照表
(当ブログ過去記事より)
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神武とアレクサンダーはそっくりさん


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