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一巳の変




かつて645年は大化の改新と教えられていた。
おかしいことなのはすぐわかる。


律令による政治・法律の改新と、クーデターで蘇我氏が滅んだことは別の事柄である。



645年は蘇我本家が殺された年であり、大化の改新が行われたのは翌年の646年である。したがって今の教科書では、そのようになっている。聖徳太子も今は厩戸皇子と明記された。






最近、古田史学の本を読んだが、どうもこの世代の歴史認識はちと問題がありそうだった。古田武彦の論説は、何度読んでも飛躍がありすぎて、はなから左右思想にはそうすかんで、自己中心性ばかり目立った。何度読んでもそうなのだ。われわれ戦後教育をちゃんと学んだものからみて、どうしてそういう発想にしかならないのという不思議な世界だ。


80歳以上の人々にある、皇国史観の残照と、反面それを批判したいコンプレックス・・・どこかしら社会主義的な?けったいな違和感が筆者にはある。なにをそのようにこだわるのか、よくわからない。




容易に変われなくなったとき、それは、もう口をつぐむべきときだと思う。




645年をいつまでも「入鹿蒸し殺される」とか、「蘇我入鹿、虫のごとく殺される」と覚えた世代には、もうある意味出る幕はなくなりつつある。それは一巳の変である。蘇我氏は変革者だった。それを好まぬ皇国史観の『日本書紀』編者たちは、これを滅ぼそうとする。そしてすれ以前の「蘇我氏に関わった史書」のすべてを焚書した。しかし、九州王朝の歴史を焼き尽くしてはいない。それは古田が言うように記紀に利用したのだろう。


九州年号はあっただろう。それは九州「にも」小国家があったということだ。丹後にも大和にもそれはあった。そして結果として考古学的には5~7世紀以後710年ほどに大和に中央集権国家の成立を許すこととなる。それが大化までである。しかし藤原氏はその政権をクーデターによって転覆し、アンチグローバルな国風文化の大和朝廷を作り上げたのである。橘氏らそれに反発するが、結果的には平安以後、再び藤原道長の独占的国風文化国家=大和だけ見ていればなんとかなる引きこもり国家のはじまりになった。蘇我氏までは半島渡来人王家に寄った「倭国」なのである。オリジナルな日本国家が大化以後だ。そしてその大化とか朱雀、白雉元号は九州年号をそのまま応用した。
元号を持つ文化は大和にはなかったのだ。そこはそれでいいだろう。

その記紀の大和至上主義こそは、その後の明治の皇国史観の大元となった。いや利用されたのだ。天皇を傀儡として、都合よく政治に用いる道具として記紀神話は利用された。その明治思想には、平民中心の民主主義はなく、かつての武士中心の儒教社会でもない、えせ西欧侵略・帝国主義・全体主義・植民地主義による量祖拡大と、アジア資源確保、アジアの盟主とならんとするめぐまれなかった下級武士たちの欲望しかない。


われわれは足軽たちの作った政府に翻弄された挙句に世界と戦い、桜の花のごとくあっけなく散り、また再生した。ふざけるなと思わないか諸君。