た;高師小僧たかしこぞう(愛知県豊橋市高師ヶ原の地名から)
沼鉄。湖沼の芦がバクテリアの作用で根元に鉄製分を付着させるもの。筒状の褐鉄鉱を形成し容易に採集できた。三内丸山遺跡などの縄文時代には顔料として用い、主に土器の彩色につかうベンガラとして利用。漆とともに練って塗り焼き上げる。
諏訪の祭祀に用いられる薙鎌には縄文発祥説もあり、にわかには信じがたいけれど、当時、低温で容易に溶解できる高師小僧の褐鉄鉱がなにかの偶然で火に焼かれ、副産物としての製鉄?があったかも知れないという。
もしも、縄文後期にこうした偶発的製鉄行為が実用化されたとしたならば、その製鉄氏族を見た後着の渡来人たちが彼らをして土蜘蛛と呼んだのだろうか?
しかし、褐鉄鉱は純度が低く、強度の高い鎌などを鍛えられる可能性はいかがなものか?また土蜘蛛の呼称は弥生期の炭坑における「たぬき堀り」が細い穴を蜘蛛の巣状に掘り進んだ、身体の小さな炭坑夫たちの様を言うという説も捨てがたい。
かわかつ
参考サイト
http://mutsu-nakanishi2.web.infoseek.co.jp/iron2/5iron08.pdf#search=%22%E7%B8%84%E6%96%87%E3%81%AE%E8%A3%BD%E9%89%84%22
参考文献
最近出版された本「御柱祭 火と鉄と神と 縄文時代を科学する」百瀬高子著 彩流社 

以上はかわかつの民族学伝承ひろいあげ辞典ブログに今回掲載した「高師小僧」の記事である。
物事には物的証拠が必要であるが、この仮説を証明するには考古学による、土器付着の鉄糞、あるいは鉄片を含む焼け跡などが出土する必要がある。

ただし奈良県吉野川流域、上記愛知県豊橋市、あるいは青森県三内丸山遺跡などは、こうした沼鉄の顔料加工は頻繁に行われている。

芦の生える河川域や湖沼域にこうした褐鉄鉱の堆積がおこるには、勿論、上流に鉄鉱石の出る鉱床がある必要もある。したがって地名の吉野が芦野から転じた地名であるという自説は立証可能であることがわかった。
水銀に関してもこうした自然堆積のメカニズムがあるなら、鉱床発見やタヌキ掘りの重労働なしに容易に手に入ったのかと想像してしまう。

閼伽という水銀地名は各地に点在し、中でも福井県遠敷が著名であるが、この閼伽(あか)の水が水銀そのものであった、あるいは鉱物の持つミネラル成分が多く含まれた軟水であった可能性は非常に高い。

良弁の母親は、幼少の頃に鷹にさらわれた我が子良弁を捜して全国を行脚し、ようやく鉱山で巡り会えたのち、死に瀕して生まれ故郷遠敷の閼伽の水を欲したという。それで良弁は仏に祈願したところ、はるか遠敷の水が東大寺の境内にこんこんと涌いたとい記述がある。
今、東大寺のこの井戸はどこにあるかは不明である。おそらくこうした伝承は後世の附会であろうが、閼伽の水には確かにそうした効能があった。つまりミネラル(ご存じのようにミネラルとは鉱物を意味する英語)成分が多い銘水だったのだろう。

鉱物成分は海水にも多く含まれ、日本などの資源の少ない国々は海水から資源を取り出そうと現在切磋琢磨しているが、当然、摂取しすぎれば毒になる。
薬効成分を過信すると薬売りの万金丹をのみすぎて水俣病となるかのうせいもあり得る。両刃の剣だろう。
そうした無知がなおさらのこと、天皇や皇子を病弱、衰弱に導き、ついに末法思想の原因となった。奈良大仏は人を救うための仏像にはならず、むしろいっそう修生を修羅のちまたに追いやる魔物となってゆく。

修生を救うとされる東大寺修二会(お水取り)はこうして始まる。
毎年水をたっぷり浸した笹で祓われているのは、彼ら知識なくも病に倒れていった鉱山開発者たちの怨霊であろうか・・・

アメノヒボコ、ツヌガアラシトという渡来系種族に関わる新羅の王子に共通する妻である阿加流姫(あかるひめ・あかる玉姫)の「あか」は、して見ると水銀の閼伽であった可能性が非常に高いことがわかる。
彼らが新羅から追いかけたのは鉱床・・・あるいは鉱床を開発する多一族であったと考えられるだろう。
その証拠に大分市丹生神社奥には大生部氏の住んだ原村があった。

そこで崇神紀に現れる大物主の怨霊を祭る河内の陶邑のおおたたねこであるが、彼もその名前から多氏の出身であろうかと想像できる。
しかも陶邑となれば堺市周辺であろうから、おそらく陶器の陶工集団であろう。当然、ベンガラなどの丹は彩色に必要である。彼らの子孫がやがて堺の鋳物工人の元になったのではあるまいか?

それが大物主を三輪山に祭る後の大三輪氏となるのであるから、大三輪氏は多氏の祭祀者であることになろう。
その多一族はおそらく秦氏の渡来とともに日本へやって来ている。
和歌山の紀氏などもこの多一族であったと思われる。難波の吉志もおそらくそうではないか?
紀氏も吉志もその配下に同姓の工人、職人が多くいた。なめし革などのいわゆる夙者の職種を持っていた。おそらく後の漂泊民の中にこの種族の出身者がいあたことは間違いない。

大分県豊後大野市宇目には、川を挟んでうらみつらみを言い合うかけあい唄の「宇目の唄げんか」という子守歌が残っている。内容はなかなかいぎたない心情の吐露であるが、それがまたなんとなくもの悲しく素晴らしいものである。
その宇目には古い鉱山がある。以前書いた祖母山山頂近くの尾平鉱山同様、ここも祖母山系の麓にある。近くに三重がある。三重町は古墳も多い。
ヤマトタケルは筑波山で山の神に祟られ足が三重に折れて歩けなくなったという。その三重が町名になって、まったく離れた大分にある。
伊勢神宮のある三重県はどうだろう。
熊野の裏側に当たる伊勢。それを長く祭ってきた度会氏は海人族である。熊野の水軍につながる海の民であろうか?
渡辺、渡部などの氏族(古くは渡辺の綱などの英雄譚がある)は元々海人で、大阪住之江の渡し守、津守が多い。それがやはり職能民の元で、岐阜の郡上などには渡辺家の家紋であるひとつ線に三つ星をつける氏族は多い。
大阪阿倍野の阿倍一族もまた同じく海人の子孫である。
住吉の神はもともと九州の宗像三女神であろうから、彼ら海人族の元となるのは多く、安曇一族ではなかろうか?
それがはるか昔に中部地方の長野県安曇野に入っている。多く、熊本、八女などと同じ風習を持つ。(馬食、方言、虫食など)
海人の陸あがり現象はキイワードとして、やはり鉱脈があるのではないか?

安倍晴明神社は福井県気比神宮のそばにある。気比にはツヌガアラシトが祭られている。そしてここの祭祀者敦賀氏は九州の秦氏集中地域である豊前・香春神社の祭祀者である。

こうして海人一族と渡来人秦一族そして工人多一族の密接な関係が明らかになる。それを繋いでいるのが鉱物と密教と道鏡と星信仰である。
そして最も共通する点は、彼ら全員が「歴史の表舞台」に現れないことである。
これを称して「謎」と言う。


しかしこれでわかることは秦氏が追いかけたあかる姫は女王卑弥呼ではなかったという事実である。

さて・・・
巨大な仮説を提示しておきたい。

海人族の中に九州玄界灘沿岸から豊後、四国沿岸、熊野紀伊半島周辺にいる海士(あま)がある。水中に水没し魚介を獲る、当時の高額納税者である。
その中に記述として、また和歌にも詠まれた白水郎の一団がいた。
彼らはその祖神を、隼人と同じく「呉太伯」だと言ってはばからない。これは中国南部のの白水郎がやはり同じことを書かれていることはご承知の通りだ。
このように隼人と白水郎は同じ祖神伝承を持つ。

天孫の降臨について日本書紀は、ニニギの命が真床御衾(まことおふすま)に巻かれ、目の詰まった籠舟で高千穂に降臨したと書く。
さらに『先代旧事本紀』は物部氏の祖神で天孫のニギハヤヒ命が天の磐船でいかるがの峰に舞い降りたと記述する。

いずれも舟で高峰に舞い降りるのである。
舟とはとりもなおさず海人のものである。
さらにニニギは出雲に行かず、わざわざ九州の南の果ての高千穂岳に舞い降り、そこで隼人の祭る大山積の娘を娶る。

さてさて・・・どういうことか?
これは天孫がを舟を手繰る海人で、同族の海の民隼人に出会い、さらに彼らが仕えていた山の神と血族関係を結ぶ話である。
そしてその山の神というのは要するに山幸の先祖であろう。

山幸は海幸に勝っている。つまり彼ら隼人を収めていたのは鹿児島県山岳部にいた阿多の隼人の管理者である曽の君であったと言っていいのではないか?
その阿多の曽の君は、実はもともと熊襲である。熊襲がヤマトタケルと景行天皇にやられて分離し、鹿児島の襲族だけは霧島をぐるっとまわって宮崎県の西都に移住した。西都原の古墳群はまず曽の君一族の墓である。

さあ・・・
有明海は東シナ海に面し、潮と天候さえよければわずか三日で会稽東冶へ辿り受ける立地。
熊襲が狗奴国であったという説があることはすでに「かわかつWorld]でも再三述べている。
3世紀、呉国王孫権と魏の曹操は覇権を争って対立、互いに高句麗、新羅にまで手を伸ばしている。中国南部は南船北馬の「船の国」。それがもっと遠くの海の向こうにまで同盟国を求めてやって来たとしたら。

たどりつく可能性が高いのは有明海沿岸以南、あるいは五島列島ではないのか?
隼人や海人族がその伝承に「呉太伯の末裔」と豪語する背景はここにあるのではないか。

はっっきりと仮定しよう。天孫は呉の子孫である。
さあ、どうや?^^