大林太良が記録した長江南域の大蛇神話。『捜神記』

「東越の庸嶺(福建省)の西北の湿地に大蛇がいた。
長さ七,八丈、大きさは十余抱えにもおよんだ。
大蛇は誰かの夢や巫祝を通して「少女のいけにえを要求した。」
毎年、役人たちは奴隷の生んだ子や罪人の娘を捜し出しては大蛇に捧げ、その数は合計「九人におよんだ」。将楽県の李誕の家には六人の娘がおり、寄(き)という末娘がいけにえを志望してきた。

寄はよく切れる剣を懐にして、蛇を噛む犬をともなって八月一日の朝、蛇の洞窟近くの廟におもむき、中に座った。
あらかじめ用意した蒸し米で団子をこしらえ、それに密と煎り麦の粉を混ぜ合わせたあんをかけ、穴の中に置いた。
匂いに誘われて出てきた大蛇に犬が噛みつき、寄は剣で斬りつけた。
大蛇は庭に出て死んだ。
越王はこれを聞いて寄をきさきに迎え、父を知事にした。

コメント
越王が出てくるので5~8世紀頃の話だと諏訪は書いている。
この話はいわゆる「ペルセウスとアンドロメダ型」である。しかしギリシャ神話が先かどうかはわからない。この手の話は世界中にあるが、「人身御供」「名剣」「神婚」要素が揃っているところはスサノオの八岐大蛇退治に類似している。
ただし八岐大蛇が西洋のドラゴン的であるのは、この話の原型が西からきたことを匂わせる。西洋文化の東洋への侵入は、十字軍遠征、あるいはフン族の西遠征、あるいはシルクロード通商などが考えられる。
現在、我々が歩いて何万キロも進行してゆくなどとても信じられないでいるが、昔は歩くことがあたりまえであった。馬も、人と共に進軍するのだから、今の車のようにぶっ飛ばすわけに行かない。
聖歌にも「星影たよりに」とあるではないか。
しかし日本へは江南から海を越えてやって来た。