縄文後期後葉から九州の祭祀に使われ始めた勾玉やくが玉の原型はそれまでの縄文社会には見いだせない。「突然にこうした装身具が生まれたとするよりは、その背景に何らかの原型があったと解釈すべきである。その意味では、この段階に勾玉や管玉は無文土器社会に存在しているのである。これら九州縄文社会に認められる装身具は、半島の無文土器社会の装身具に全身があり、こうした装身具の存在を縄文人は”漁撈活動を介して情報収集していた”のである。」
宮本一夫『中国・朝鮮半島の稲作文化と弥生の始まり』前出広瀬編著第三章  ””は、かわかつ

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わかること

1 縄文人は漁撈に用いる小舟で半島と行き来できていた。
2 玉の文化は半島からきた。

宮本氏は九大人文科学研究院在籍。
意見はそれぞれまちまちだが、玉は半島から縄文時代に海人が「持ち帰った」ことが縄文人の能動性の点で重要であろう。
また、この研究者は、稲作も従来通り半島経由という説。

どれが正しいのか、ますます混迷するばかりだ。