考古学者の世代交替が進む中で、C14年代測定法は疑いのないデータをはじき出すという「事実」が広まるにつれ、縄文、弥生時代の始まりと、稲作開始はこれまでの通説より相当早くなった。今や定説はことごとく覆されていることは間違いない。科学は真実しか伝えない。

縄文時代の開始はこれまでより4500年早くなった。現在の所、言われているのは16500年ほど前まで遡るとされる。

弥生時代早期は500年も早まり、北部九州でBC945年くらいから。
前期は通説をはるかに上回って460年早くなった。BC810年ほどから。
中期がBC350から。
近畿南部では早期はなくて、前期がBC700。中期がBC4~500年とされる。
北部九州と近畿南部の年代格差は100年弱で、時代が下がるにつれ間隔は次第に短くなるのはわかるが、これは少し間隔が狭すぎる気もする。

陸稲による縄文の稲の畑作開始は北部九州でBC約5000年、近畿まで来るのがBC4500年。だいたい500年の格差。

水田開始は、最も早い北部九州で紀元前1000年くらいから。つまり弥生が始まってすぐに水田耕作が北西部九州に伝わる。中国南東部から九州北西部(長崎県菜畑)に入って、わずか100年でまたたくまに近畿へ伝わった。

縄文と弥生の間にこれまで言われてきたような隔絶はなくなり、ほぼ文化が混在しながらゆっくりと弥生へと変化していった。縄文人が狩猟に依拠する蛮族という古いイメージは完全に消え去ったといっていい。
かつ、弥生文化が縄文文化を駆逐したというイメージも消えてなくなった。
両文化はたがいにスライドしながら融合と混血を繰り返し、交替はスムーズな曲線を描いて変化した。

水耕稲作は中国東岸から伝播。
これまでの半島経由説は消えてしまった。
運搬は海の民であることも定説化。
主な担い手はわれわれ民俗学に傾倒する者たちが言ってきたとおり長崎県五島や有明海沿岸の海人族と中国の白水郎たちの交流によるものであることがほぼ定説となった。

「初期生産経済を見直す必要がある。『水田稲作を持った南部朝鮮からの渡来文化が席巻した』は生産経済の優位さ、もしくは生産力が社会を発展させていくという、発展段階論的イデオロギーに支えられていた〔広瀬2003〕。ところが、実際には水田稲作の拡大力は従来考えられてきたほど強力ではなかった蓋然性が高い。日本列島での開始から数百年かけて緩慢に、列島各地に普及・定着していったのが実情のようだ。」
〔前出著書・広瀬論説〕以上要約はかわかつ。

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このブログで先に検討した鉄器発掘などの若手学者たちは、実は九州で教鞭をとるなど、九州に傾倒しているのでは?と言われても仕方がない方々であったが・・・
広瀬和雄は文献歴史学のベテランで、京都生まれ。同志社大学卒ののち奈良女子大大学院教授を経て現在、国立歴史民俗博物館教授という、いわば生粋の大和学派である。
その彼が、文献史学、文化人類学という、これまでなら大和主流説にガチガチになってもおかしくない立場にあって、しかも年齢も1947年生まれと決して若くはない大ベテランでありながらこのように新しい科学を受け入れ、日々学習し、常に定説を疑ってかかる気概を持ち得ていることを高く評価すべきである。

これから彼の同僚の春成秀爾氏の論説も検証していくが、同じくこれまでの学説・定説を、彼も一度置いてしまって、若い理化学者たちの検証を受け入れようとしているものの、やや未だに控えめな表現でひっかかりを持っている部分を見せているのと比べても、実にはっきりと自分の説を反省の机上に持ち出してまで見直しを告白しているのは非常に好ましく感じた。これは今年の三月に出版されたもっとも新しい大和学派の意見であることを述べておく。
すでに学究に県境も地域の格差もないことに気がつく。時代は明確に変わってゆく。(かわかつ)

この著書の共著者
春成秀爾・佐藤洋一郎・宮本一夫・山崎純男・禰宜田佳男・小林青樹・ほか6名。編集・広瀬和雄
2007年最新版
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参考文献『弥生時代はどう変わるか【炭素14年代と新しい古代像を求めて】』学生社