本日のかわかつワールドから転載


灌漑を含む本格的技術を備えた稲作と鉄器の発達

「水稲耕作を維持するためには、水田のみならず、その経営に関与する諸道具の存在がきわめて重要であり、その(諸道具の)生産・供給も意図的に維持ないしは向上しなければならない。そのために人、組織、体制をつくることも求められた。」

(効率のよい生産工具と農業は不可分。その道具ををいかに「自力で」獲得できるかいかんにかかっていた。その工具の中でも金属器機、特に弥生時代には鉄器が重要だと歴史学者の間でもこれまでも考えられてきた。「唯物史観の洗礼を受けた戦後の弥生文化研究において、このことは疑われることはなかった、ところが・・・)

「しかしこの必須条件が当時、真に実現しえたのか否か、じつは十分に問われてはこなかった。仮にそれが問われた場合でも、鉄器の斉一的(せいいつてき)普及が指示されてきたように、列島各地の希求はあまねく実現されていたような錯覚に陥っていた。」

(簡単に言うなら、これまでの学者たちは、発掘資料による緻密な判断ではなく、漠然と、はじめから近畿を含めた全地域で、鉄器が発展する時間があったのだと思い込んでいた。ところが現実にはそうではなく、九州北部の圧倒的な最新技術は近畿にはそのまま伝播しておらず、太平洋側から東国、日本海側から若狭、及び瀬戸内海では吉備あたりでストップしていた。発掘であきらかになった弥生時代の鍛冶工房は、第一段階が最も複雑な構造で、次第に簡略化されてゆき、第一段階の最も高度な技術は、せいぜい徳島あたりまでしか行き渡らず、簡略化されたそまつな工房がむしろ細々と伝えられただけだった。それはなぜか?)

「(鉄器分析は手工業生産・分業という経済学的見地から非常に期待されてきたにも関わらず)資料が充実化をはjめる高度成長期を目前にし、一部の実証的研究を除いて低調で、いわば”思考停止状態”に陥っている」
村上恭通『鉄器生産・流通と社会変革』(前出書第2章所収)

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考古学はある程度の発掘サンプルがそろわなければ、仮説が立てられないという宿命にある。我々が権威だと思っていた既存の著名な考古学者たちは現代の、資料があふれている時代には間に合わなかったのである。従って、われわれは今すぐにでも、過去の権威的考古学者から知らされた固定観念を、一度そっちへ置いておき、若い考古学者の新しい見解と情報に傾聴する必要があるだろう。

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北部九州の最新技術が西へ伝播しなかった理由は、朝鮮半島における争乱が起因する。
これまで大陸に最も近い場所で「ほしいままに加耶の鉄を採集していた」(魏志・東夷伝)北部九州倭国は、弥生時代終末期になると半島情勢が悪化するに伴い、次第に鉄材料の入手が困難になっていった。つまり原料が枯渇して、まっとうな製鉄工房で造るほどの原料に窮したことが、仕方なくリサイクル、または南九州周辺の自前の鉄材料を探すしかなく、鍛冶工房そのものが逆行して簡略化へと進んでいった理由の一つである。

さらに、それまで太平洋側の東国房総地区、日本海側の出雲、若狭、古志諸国が大量の交換物資を貢いでほしがった北部九州や中九州の鉄加工品は、容易に手に入らないブランド品になっていったと思われる。弥生時代には大量の水晶加工品、当時最も高級な翡翠の優品が北部・中九州(福岡県の筑後と熊本県の有明海北部沿岸)から大量に発掘されている。
これらはみな、すすんだ鉄製品との交換に九州に持ち込まれたのである。しかし、この中に近畿、特に大和地方からの産物は見あたらない。要するに畿内には弥生後期までの時点で、鉄を欲する氏族はいなかった、あるいは欲しくとも交換に値する産物を作り出すだけの経済力は見あたらないのである。記紀が書き記すところの長髄彦などの比較的文化の遅れた縄文系?の土豪の群れがいるだけだったと言えようか。