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熊本県宇土市、氷川の岸辺にある鴨分の古墳?鴨籠古墳の石棺には江田船山など筑後地方に近い有明北部八女周辺とおなじ直弧紋が刻まれている。
これはなにを象ったデザインだろうか?
松本清張は鏡を割って配布したことの形象であり、それだけこの人物が勢力があった証拠と喝破した。
しかし、本当に鏡なのだろうか?
古代、船のヘリに並べられていた魔よけの鏡・・・。この石棺は黄泉に旅立つ死者の船旅を守ろうとして作られたのか?
倭の五王と同時代人だった江田船山の豪族と火の国造は血縁なのだろうか?

火の君一族はやがて磐井の乱で、筑紫君一族が衰退したあと、筑後から筑前へ進出し、出雲から糸島に入っていた土師氏一族と血族となる。そこから肥の君猪手(ひのきみいので)が生まれ、継体天皇陵の築造に関わるようになる。ピンク石は九州と河内、摂津、大和を結ぶ架け橋である。この灰色石もまた継体以前からの畿内と九州をつないできた。それは熊襲が北部九州を牛耳った伝承となって今、私のすむ九州東部の海人たちのあいだに残されている。
そこに邪馬台国の名前など一切出てはこない。女王はやはり熊襲と新羅の狗奴国連合によって消滅していたのだろうか?!

大和の植山古墳にふたりの遺骸はなかった・・・。本当に推古はいたのか?竹田の遺骸はどこに消えたのか。それは盗掘のためだったのだろうか?
謎におぼれてしまいそうになる研究家たちに、新たな解答はいつ出現するのだろうか?
われわれしろうとはその謎の中をたゆとう旅人に過ぎない。
答えは我々の死後でもまだわかっていないかも知れない。歴史とはそういうものなのである。
私など、その中の小さな小さな「やから」のひとりに過ぎない。そこまでふみいっていいのかどうか私にはまったくわからない。ただ路頭に迷うだけなのである。