日本書紀 仁徳天皇67年10月

「河内の石津原(いしづはら)に幸まして、陵地(みささぎのところ)を定めたまふ。

丁酉(ひのととり)に、始めて陵(みささぎ)を築く。

是の日に、鹿(か)有りて、忽ち(たちまち)に野の中より起こりて、走りて役民(えのたみ)の中に入

りて仆れ(たおれ)死ぬ。

時に其の忽ちに死ぬることを異びて、其の痍(きず)を探む(もとむ)。

即ち百舌鳥(もず)、耳より出でて跳び去りぬ。

因りて耳の中を視るに、悉に咋ひ割き剥げり。

故、其の処を号けて、百舌鳥耳原と曰うは、其れ是の縁なり。」

 訓
「かわちのいしづのはらにいでまして、みささぎのところをさだめたまう。
ひのととりに、はじめてみささぎをきずく。
このひに、かありて、たちまちにののなかよりおこりて、はしりてえのたみのなかにはいりたおれしぬ。
ときにそのたちまちにしぬることをあやしびて、そのきずをもとむ。
すなわちもず、みみよりいでてとびさりぬ。
よりてみみのなかをみるに、ことごとにくいさきはげり。
かれ、そのところをなづけて、、おずみみはらというは、それこのことのもとなり。」

 口語訳
生前に仁徳天皇の陵地を河内の石津原(堺市石津町)に定めた。
丁酉の日に築陵を始めたところ、最初の日にいきなり野の中から鹿が現れて、造営している役夫たちの中に走ってきて、倒れて死んだ。不審に思って傷を探していると、鹿の耳の中からモズが飛び出した。そこでいよいよ怪しんで耳の中を見ると、モズが食いさいてちぎれかかっていた。それでここを名付けて「百舌鳥耳原」と呼ぶようになった。