「御歳神の祭りは、春の耕作初めに生贄の牛を屠殺(とさつ)し肉を供える殺牛祭祀であった。殺牛祭祀が渡来系集団の内部でひっそりと行われた秘儀的な宗儀だったなら、少数の特別な事例として済ませてしまうこともできよう。しかし、殺牛祭祀は権勢を極めた葛城氏や蘇我氏の膝下で執り行われ、朝廷にとって最も重要な祈年祭の起源ともなっているのだから、秘儀的な宗儀だったとは考えられない」

「今の大阪府の箕面市では、嘉永六年(1853)の大旱魃の際に、の葦毛の馬を購入した。
馬の首を切断して胴体は山谷に蹴落とし、その首を箕面の滝へ投下し雨を乞うたが、効験はなかった。」

「兵庫県宝塚市川面(かわつら)では、大正十二年(1923)の旱魃の際に、ブリキ缶に入れた牛の生首と生血を屠殺場から取り寄せ、武庫川上流の馬滝の谷に運び、机岩の上に牛首を祭り、生血は岩に流した。それが済めば、馬滝の滝壺の前に牛首を据えて帰ったが、明治初年ごろまでは牛三頭をそこまで連れて行き、首を切ったと伝える。」

「ちなみに、大歳神社、御歳神社の所伝に登場する高市郡の大野・石川・田口・田中などの地名はすべて、六世紀から七世紀に大臣として権勢を振るう蘇我氏に縁りの地であることも留意される。」

以上、平林章仁『神々と肉食の古代史』より抜粋。

このように御歳神とは雨乞い、止雨の神であって、それは蘇我氏、葛城氏がいつきまつった。そしてこの神は牛を中心とする生け贄を欲する神であり、その贄には馬、鹿、犬などがあった。
田中臣という蘇我氏の眷属は大和の田口に住まっていた。
こうした生け贄の儀式は大正時代でも近畿では続いていたことがわかる。