大和国葛城郡朝妻 あさづま

古事記において新羅の記事を載せている条は応神紀及び允恭(いんぎょう)紀である。

允恭天皇の諱は男浅津間若子宿禰(お・あさづま・わくごのすくね)である。

秦氏の始祖・弓月君(ゆんずのきみ・ゆづきのきみ)が最初に入った場所は朝妻である。(姓氏録)

朝妻造は韓国人と姓氏録にある。

允恭紀に新羅の弔使が琴引坂を訪れたとある。琴引坂は朝妻である。

そのとき新羅の使者が帰りしな琴引坂で耳成山、畝傍山をほめそやしたのを聞いた倭飼部(やまとのうまかいべ)は「新羅人、采女に通けたり」と悪口をついたと記載がある。倭飼部は百済派、桧隈シンパであったと言う。

朝妻はこのように新羅と縁が深い。

桧隈勢力は百済派である。

その朝妻に天武天皇は9年9月、行幸して騎馬隊を閲兵している。

桧隈にいたはずの百済系騎馬隊である東漢氏の方へは閲兵した記事がない。

その東漢直に対して、天武天皇は6年6月に「おまえたち一統は七つの罪を犯した。朕あそのあしきことを暴くべきだがこのさい許してやろう。今後こういうことがあったら絶対に許さぬぞ」と言いすえている。

以上から見て、天武天皇は親新羅派である。

また天武は新羅の金押実に壬申の乱のあと船を一隻送っている。戦勝の祝いとしては破格である。

こうした天武治世での新羅より外交は持統即位ののちどんどん薄れてゆく。

これは持統が新羅派大津皇子を殺害したこともあるが、それよりもむしろ藤原不比等の政策が大きく影響したと考えられる。