阿武山古墳は摂津(大阪北部の淀川沿い、今の高槻市、茨木市周辺いわゆる三嶋地域)の京大地震学計測所の裏にあった。考古学がまだ一般的でなかった当時、この古墳の発掘を行ったのは、なんと、地震計測所の所長である志田順である。
それに反発したのが京大考古学教室の浜田耕作教授であった。浜田は共同調査を拒んだ。また憲兵隊も「あそこは皇室関係」と動き出す一幕もあり、結局、その時は詳細な調査はなされなかった。
しかし、布製遺物と遺骨の調査はなされており、乾漆棺、仰臥した人骨、毛髪、花崗岩とレンガ製石室、金糸布、ガラス玉の貼り付けられた玉枕などが回収されている。
その後、棺を戻して埋め戻すことになり、その前に梅原末治、清野謙次両教授によって二日間の調査が行われた。
人骨は身長164.59センチで約60歳 金糸布片が頭部に付着。

その後、志田博士の指示によるX線写真が見つかり、玉枕と刺繍入り冠があったことがわかり、復元された。清野教授は幼稚な古墳で、布片も幼稚な織り方だと結論したが、その後の調査ではやはり当初の空想通り被葬者は高貴な身分で金糸付きの冠帽をかぶっていたとされた。
また頭髪からヒ素が検出されており、最初、暗殺か?と疑われたものの、その後の調査や文献から、当時の官僚クラスはみな、仙薬と考えてヒ素を含んだ鉱物=薬石を接種していたことがわかった。ヒ素を含む薬物とはすなわち硫黄、黄鉄鋼などの鉱物である。鉱物は不老長寿の妙薬とされてきたのである。

冠帽は朱色の絹織物でできており刺繍がほどこされ、形は朝鮮王朝のものに似ている。大職官の被る帽子であろうと言われている。その役名は藤原鎌足最後に与えられたものでもあるが・・・。