過去、おびただしい数の古墳がさまざまの理由で破壊されている。それは時代が古代においても起きていた。

奈良県立橿原考古学研究所『大和の考古学50年』昭和63年
「研究所創立以来、10基をこえる古墳を調査していたが、それが破壊されたことはなかった。昭和四三年、高校建設のために榛原町(はいばら・まちと読むらしい。読めない。榛はどうひっくり返しても「はり」「はしばみ」「シン」)「はり・ばら」がつづまって「はいばら」。「はり・はら」ならインドの精霊だが・・・)丹切(「にきり」?読み方を添付したファイルがない。榛原も同じく。不親切。読めない人を想定して作るべし。)古墳群で二三基の古墳が破壊されたのが最初である。このあと、高度成長期の到来とともに、昭和四〇年代だけで天理市東大寺山古墳群(二四基・・・工場建設)、當麻町兵家古墳群(一五基・・・宅地造成)、御所市石光山古墳群(二一基・・・宅地造成)、桜井市外鎌山古墳群(一五基・・・宅地造成)と古墳の大量破壊がつづいた。」

『古事記』
(顕宗)天皇、深く其の父王を殺したまひし大長谷天皇(雄略天皇のこっちゃで)を怨みたまひて、其の霊(「みたま」と読んでね)に報いむと欲ほしき(「おもほしき」)。故、其の大長谷天皇の御陵を毀たむ(「こぼたむ」と読むのやで。関西で「こぼつ」はぶち壊すこと。今でも不動産屋が使う)と欲ほして、人を遣わしたまう時・・・・・・・・・・」
要するに弟が「ぶっ壊したるで!」と言ったのを、兄貴が「そんなことしたら民衆の恨み辛みがおとろしいさけ、やめときなはれや」と諫めたのである。
オケ王とヲケ王という兄弟は父親(市辺之忍歯王=いちのべの・おしはの・おおきみ)を雄略に殺された・・・それも狩に誘って八つ裂きにした上、かいばオケに放り込んで土に埋めた!・・・のでその怨みを弟天皇がはらそうとしたのだが、兄に「天皇がすることではない」と止められた。その兄は代わりにやってくると言ってすうに帰ってきたので、「どないしたんや?」と聞くと、「ちょこっとだけ墓の近くの土掘っただけですねん」と答えた。「なんでぶち毀さなんだんや?」と聞かれると、
「だって相手は叔父さんやし、世間がうるさいからなあ」と答えた。
顕宗を引き立て役にして兄・仁賢天皇の人徳を紹介した記事である。
しかしこれはどうもダジャレのオンパレード。
兄弟が行方不明の間やっていた仕事は馬飼い、牛飼い。父親はかいばオケに。兄弟の名前がオケとヲケ。そのふたりに跡継ぎがなく、武烈へ。しかしながら武烈にも子がなく、継体が。ところが継体の二人の子供も短命で跡継ぎがなく、武烈の妹との間の子供・欽明が皇位継承・・・同じ話の繰り返し?
和田卒説ではヲケ王は不在。空想上の人物とされるが、二人とも実在は疑わしいだろう。

この話は政治上のできごとが古墳の破壊につながるということ。

蘇我馬子の墓と言われる飛鳥の石舞台古墳は、建設時、すでにそこにあった多くの古墳群の上に無理矢理作られたそうである。毀さずに、真上にいきなり巨石を置いたということか?京大の学長にまでなった浜田耕作氏が書き記している。
その馬子の墓である桃源陵もまた、乙巳の変以後?、土塊を払いのけられむき出しにされたというのが定説。
だとすればこれもまた「政治的」影響による古墳破壊であろうかと森浩一氏は述懐している。

以上参考文献『墓盗人と贋作づくり』玉利 勲