あ;あめたりしひこ あめたらしひこ あめのたらしひこ あめたりしほこ
阿毎多利思北(比)弧

隋書(巻八十一、列伝・東夷・倭国)69)
「開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩?弥(天足彦大王:あまたらしひこおおきみ)と号し、使いを遣わして闕(宮:長安)に詣る。上(天子)、所司(長官)をしてその風俗を訪わしむ。使者言う、「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となし、天未だ明けざる時出でて政を聴くに跏趺(あぐら)して坐し、日出ずれば便ち理務(治める仕事)を停めて云う、我が弟に委ぬ」と。高祖(文帝)いわく、「此れ太だ義理(意味)なし」と。是に於いて訓(おし)えて改めしむ」
 「王の妻は?弥(けみ)と号し、後宮に女六、七百人あり。太子を名付けて利(和)歌弥多弗利(わかみたふり)とす。城郭なし。内官には十二等あり、一に大徳、次に小徳、・・・、員に定数なし。軍尼は百二十人あり。・・・。阿蘇山あり、その石は故なく火の起ち天に接するは俗に似て異となし、因りて祷祭を行う。」

 日本の使者が述べたことに対して、「此れ太だ義理(意味)なし」と。「是に於いて訓(おし)えて改めしむ」と云う文面からみて、褒められた内容でないことから、書紀の編者があえて記録しなかったというのが一般の見方である。しかし、さらに問題は、「倭王の妻は?弥(けみ)と号し・・・」とあることから、倭王は女帝(推古天皇)でないことは確かである。しかも、「阿蘇山あり、云々」とあるのも気懸かりになる。
出典 http://syamashita.bne.jp/syotoku/tatakai.htm

コメント 聖徳太子の正体は草壁吉見系阿蘇氏の国造家であろう。