に;にちら 日羅 (日羅)

?- 583 (敏達12年)

火葦北国造刑部靫部・阿利斯登(ひのあしきたのくにのみやつこをさかべのゆけひありしと)の子。官位は達率(百済の官位十六階の第二)
注:火葦北は、今の熊本県葦北郡の地方。阿利斯登は大伴金村によって朝鮮に使わされた火葦北の国造。

敏達12年(583)7月、任那再興を願う敏達天皇の命によって、日羅を百済から召還すべく紀国造押勝、吉備海部直羽島らを派遣す。
同年10月、羽島ら帰国し、百済の威徳王が日羅を惜しみ、召還に応じさせぬことを復命。
同年、再度羽島らを派遣す。日羅は羽島を密かに屋内に引き入れ、百済王は天皇を疑い、日羅を留めて還さぬことを恐れて出国させないことを告げ、策を授ける。これにより、羽島は日羅と恩率・ 徳爾(とくに)、余怒(よぬ)、奇奴知(がぬち)、参官、 梶師徳率次干徳(かぢとりとくそちしかんとく)、水子らを連れ帰る。
帰路、吉備児島屯倉で大伴糠手子連(おおとものあらてこのむらじ)の出迎えを受ける。
難波に到着し、難波館に逗留。大夫たちの訪問を受ける。このとき、日羅は甲冑をまとい、馬に乗り門のもとに至り、庁前に進み、跪拝して来朝の旨をのべ、甲冑を脱いで天皇に進上する。天皇により阿斗桑市(八尾市植松付近?)の館に住せしむ。阿部目臣、物部贄子(にえこ)連、大伴糠手子連らから国勢についての質問を受け、富国強兵策を説く。
同年12月晦日、徳爾や参官ら、日羅を殺す。

日羅の遺体は、小郡(朝廷の迎賓などの施設名?)の西の畔の丘の前に収める。
日羅の妻子は、石川(今の大阪府南河内郡南部から富田林市および河内長野市北部にかけての石川中流流域)の百済村に住ましめる。
水手らを石川の大伴村に住ましめる。
徳爾らを捕らえ、下百済の河田村で推問し、その後、日羅の眷属にこれらの処分を任す。眷属らは徳爾らを皆殺しにし、弥売島(淀川河口にあった島)に捨てる。
眷属らは日羅を葦北に移葬す。


出典 http://www.bell.jp/pancho/hyper-history/persons/person_na/nitira.html

コメント
父親のあらしと=ツヌガアラシト? 隋書倭国伝に倭の国王・阿毎多利思北弧(あめのたりしほこ)があるが?だとすれば日羅はその子である利(和)歌弥多佛利(りかみたふり)のこととなる。
彼らは大伴氏の配下にいたから、熊本にえにしのある大伴大連が朝廷に内緒で百済と内通し、王を僭称したという考え方もできる。それがばれて大伴氏凋落のきっかけとなったのか?
百済は江南と通じていた。これは大和をはさむ挟撃作戦。
福岡県有明海の瀬高町には七枝刀を持つ人形がある。
これは百済王と有明文化圏=大伴王家との内密の政治的通商をしめす可能性。