私の雑感ブログ40過ぎてCPかよから転載。
歴史とはまったく関係ない日々雑感である。

「安部公房とロラン・バルト」

今を去る30年前、私は卒論のためにロラン・バルトと花田清輝に読みふけっていた。
卒論のテーマは「安部公房・・・「砂の女」以後」。

安部の世界は共産党から離脱した戦後作家が、いくすべをかろうじて実存に見出したところから始まる、コミューンへの夢の実現に苦しむところから始まっている。「今こそ私は私の王!」という絶句こそが「終わったところから始めた」安部の旅のはじまりであった。
あたかも青年の苦渋をいつまでも持ちつづける、観念の創造についやした安部の一生はなくした父の代わりに、長男である彼が生活の渋滞した苦味から逃れるすべとしての詩作から始まり、ついには砂という無形・無機質の中に安住を見ようとする苦学生の頭の中の世界を文章にしたところから始まっている。

その観念の世界を証明するのに、私はさまざまの彼への論説の中から渡辺×という学者の「安部公房」を選んだ。それこそそのままですべてが解明できる一冊だった。今でもあれ以上の論説はないとさえ思っている。その時、論文の最後に持ってきた引用文がロラン・バルトの「エッセ・クリティック」の中の作家へ送る一文だった。
たしか・・・
作家はすでにすべてが名前づけられた世界にやってくる・・・といった内容だった。
すでに馴致されてしまった言葉の概念の世界に作家は飛び込むものだと彼は書いていた。
だから作家とは言葉を作り出す人種ではなく、言葉の渦の中で最適な言葉を見つけ出す人種だということだったろうか?
すべては記憶のかなたに消えてしまった青春の思い出をあるブログが思い出させてくれた。

言葉は記号にすぎない。言葉は感情を的確に表す道具としてはいまだに表情にはかなわないのかも知れない。
かくして言外のわれわれの思いは伝わらない。

「書こうと欲する者は、つねに先行しているランガージュとの長い妾関係を始めることになるのを知らねばならない。それゆえ作家は、うやうやしげな文学の聖徒伝中に言われているように、沈黙からのヴェルブを<もぎとる>必要はない。むしろ逆に、しかもどれほどいっそう困難で残酷で、栄誉を伴わなくとも、中略、要するに作家より以前に存在するある知解可能なものを、引き離さなければならない。というのは作家はランガージュで一杯の世界にやってくるのであって、そこには人間たちによってすでに分類されていない現実的なものは一切ないのだから。中略、芸術の務めのすべては、表現しうるものを表現しないこと、世間の情念を表す貧しいが強力な言語から、べっこのパロール、正確なパロールを奪い取ることである」