郭務悰(かく・むそう)は駐百済大使
沙宅孫登(さたく・そんとう)は百済人

 668年高句麗滅亡後の669年(天智8年) 10月16日中臣内大臣(藤原鎌足)死亡。
このとき『大唐、郭務悰等二千余人を遣せり』 

『天智十年十一月 甲午朔癸卯 對馬國司遣使於筑紫大宰府 言「月生二日 沙門-道久 筑紫君-薩野馬 韓島勝-娑婆 布師首-磐四人從唐來曰“唐國使人郭務悰等六百人 送使沙宅孫登等一千四百人 總合二千人 乘船四十七隻 倶泊於比知島 相謂之曰「今吾輩人船數 忽然到彼 恐彼防人驚駭射戰」乃遣道久等 預稍披陳來朝之意”」』

大意
白村江の戦いのあと、百済は新羅・唐連合によって滅亡する。
それによって百済大使だった郭務悰と600人の中国人が、沙宅孫登を筆頭とする百済人1400人を連れて来朝し、比知島に停泊。前もって知らせておかなければ日本人が驚くだろうと、使者として、同行していた四人の日本人を送った。

ちょうど天智は死の床にあったし、相棒の藤原鎌足はすでに死去している。
普通なら、これまでは少数であろうとも日本書紀は、百済人の受け入れ記事には必ず受け入れ場所も列記するのだが、この記事に限ってはまったくそれがない。
だから彼等がちゃんと日本に上陸したのか、安住できたのかがわからない。

日本人が同行しているが、筑紫君薩野馬、韓島勝裟婆は九州人の氏姓である。

新羅によって難民となった百済の政治家たちを、なぜか唐の郭務悰が亡命させたということになるだろう。

おそらく全員が百済の庁から逃げ込んできたわけだろう。しかし唐がそれを助けているのがよくわからない。

参考文献 直木孝次郎『古代日本と朝鮮・中国』講談社 1988



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