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銅鼓(どうこ) ヴェトナムではドンソンとも

中国南部やヴェトナムの少数民族たちに伝世されてきた青銅製の太鼓。
横にある耳(じ)に紐を通してつるして打ったり、立てて打つなど地域、民族によってさまざまの鳴らし方がある。
形状は日本の鼓(つづみ)に似ている。
地域によっては雄と雌があって、それは叩く面に刻まれた放射状の太陽光?の図形の大きさによるらしい。

中国で銅鼓が使う地域は、四川、雲南、貴州、広西に広がり、民族としてはワ、チンボー、ミャオ、ヤオ、チワン、プイ、スイ、イの諸族に及ぶ。まだこれ以外にも未知の民族が使うとも言われる。

日本の銅鐸と違って銅鼓は現代でも生活に密着して用いられている。
楽器でありながら楽器とは考えられておらず、呪力、辟邪の力を信じられている祭器である点は銅鐸に近い。
青銅器文化は中国南方諸国の非常に古くからあった宗教的祭器としての魔力を持ち、殷などでも饕餮文の多用が見られ、滅ぼした旧王国の強さをそのままして象徴としてデザインし、魔よけとしていた。
中国少数民族の王国がかつては海辺を中心にあったと思われ、これらを中国ではとりまとめて「倭族」と呼ぶ。すなわち小さくてやや色黒の海洋民の総称が「倭」であったと見られ、日本民族の血脈の底流に流れる倭の系統を、中国王朝では同じ「倭」人と直感していたようだ。体躯、風貌、風習が倭族と倭人がて類似していると見えたのだ。
ゆえに中国王朝は倭族の国家であったテン国と、倭人の国・奴国に同じ蛇鈕(だちゅう・蛇の形の取っ手)の金印を送っている。

銅鼓の側面や打面にはさまざまなデザインが刻まれているが、主として太陽をあらわす閃光の他に、中には喪船を思わせる船の舳先に鳥がとまった線刻画が見受けられる。いわゆる海洋民族共通の「もがりの船」観念はイギリスからエジプト、中近東、スンダランド、フィリピン、日本など島嶼、海岸を中心に、ある程度切れ目なく広がっており、大昔から海の交易が人知れずしかも世界規模であったことを伝える。

銅鼓をかつても今でももっとも普遍的に用いる部族はスイ(水)族であろうと姫野翠は書いている。
苗族もひんぱんに銅鼓をつかうものの、彼等の不可欠な楽器はむしろ芦笙(ろしょう・ミニチュアのパイプオルガンと思える芦の笛)という笛であるそうだ。
各種族で銅鼓の使う場面は異なっており、水族は慶事にしか使わない。おしなべてすべての種族はおめでたいとき、つまり日本で言うハレの日に銅鼓を用いるが、葬式などのヶの儀式では使う部族と使わない部族がある。
瑶(ヤオ)は人が死ぬと銅鼓を打つ。貴州の黒褌瑶は死人が出ると銅鼓を五六個家の入り口につるし、一晩中たたき続けるという。

水族は清明節~イネの収穫の期間は絶対に銅鼓を叩かない。これは瑶族が旧暦3~8月は叩かないのとほぼ同じ期間で、銅鼓が稲作に影響を持った音=祭祀の道具であることがわかる。
また銅鼓は古くは使わないときは銅鐸同様、土中に隠していたようで、今でもこれを行う部族では、長老が若者たちを連れて埋めるのだが、ときどき埋めた場所を忘れてしまい、そのまま放置してしまうこともあるようだ。
銅鐸が土中から一個二個と出てくることを考えると、よく似ているし、なかなか原始的でほほえましくもある。またよく学校でやるタイムカプセルが時々見つからなくなっているのにも似ていて、計画性のない海洋民気質がよく出ているエピソードである。

稲作との関係では、水族や苗族は銅鼓を穀倉にしまうのだが、そのとき、精米したコメ(白に関連)を、立てた銅鼓の腹に詰め、上から稲束で覆い隠すという。

銅鼓を叩くときもさまざまな民族の別がある。
鼓棹という長い棒にひっかけて横から叩く、あるいは縦に置いて叩く、たくさん横並びにして総出で叩くなどなどである。

日本の銅鐸もかつては叩いたり、舌(ぜつ)をつけて鳴らしたりしていたが、やがておそらく使用する部族が入れ替わったのか銅鐸だけが大きくなり、置いて祭るだけになっていった。しかしながらどうやら稲作が江南からやってきたように、青銅器祭祀も彼等、倭族たちのダイレクトな航海によって同時にもたらされたと見え、そこの稲魂への祭祀が伝わっているのは間違いないだろう。

芦笙もまた日本の伎楽で使う笙に構造はそっくりであるから、海洋民としての倭人と倭族の交流が縄文時代以前からあったと考えてよいだろう。
参考文献 姫野翠『異界へのメッセンジャー』出帆新社 2004
銅鼓画像 http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/shinpo/nitta.html
     http://japanese.china.org.cn/japanese/145424.htm

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「銅鼓が最も早く現れたのは大体春秋末期の頃である。
銅鼓は全部銅で鋳造されており、普通の銅鼓は直径が約50センチ、高さが約30センチ。小太鼓の中は空っぽで、底がない。両側には銅製のリングがある。表面や鼓体には精緻な模様が刻まれている。
銅鼓は歴史上戦陣で使われる大鼓として残され、『通典』、『文献通考』、『太平御覧』などは、いずれも銅鼓を楽部に組み入れている。

”古代において、少数民族の貴族からなる統治者は、所有する銅鼓の多い少ないによって、その統治権力の大きさを表わすシンボルとしたことがある。”それに対し一般の少数民族の人たちは、銅鼓を楽器とし、今でも広西チワン族自治区のチワン族、貴州省のミャオ族などの間では、銅鼓の踊りをよく目にすることができる。踊る際には、銅鼓を掲げ、一人がばちで銅鼓を叩き、もう一人が木の桶を銅鼓の底に合わせ、共鳴音を増すのであり、音が重厚で、遠方に伝わることができる。踊る人(たいていは多人数の人たちがグループで踊る)は銅鼓を囲んで、鼓の拍子に合わせて従って踊る。」
参考サイト  http://japanese.china.org.cn/japanese/145424.htm
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古代の少数民族の貴族が共同で連合国家を形成していたとすると、それは非常に邪馬台国連合の形態に似ていると考えねばなるまい。魏志が書き記すように三世紀の倭人はきわめて海洋民・倭族に似ている。小国の集合体としての一時的共和体制と銅鐸を関連して考えるには非常に示唆に富む内容である。
日本の大和朝廷も、こうした古い倭人の持っていた体制を壊さず取り入れていった可能性があるだろう。それは決して邪馬台国と大和朝廷が連動していたということではなく、むしろ追いやって奪った国土と国民にはその方が波風が立たないだろうという、侵入渡来者としての「祟り封じ」だった可能性が高いと思える。それが少数倭人貴種の中から、やはり波風の立たぬように象徴王を立てて「錦の御旗」にするという、のちの日本人の感性に非常に整合的で、かなっているように筆者は感じる。




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