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武寧王陵出土遺物と日本の同時代古墳から出土遺物の類似から見る、百済王とワカタケルの関係。
遺物の比較によると金冠、靴履、耳飾り、神獣鏡などにあまりにも類似があるということであるようだ。
考古学者の多くは、当時の両国遺物に類似があるのは既成の事実であるようだが、一般的にはほとんど知らされていない。そもそも江田船山古墳発掘時に、東京国立博物館が全品国宝指定して回収してしまったことが疑いを生んだ原因だったようだ。
主として武寧王陵と江田船山古墳の遺物を画像によって比較する。さまざまな切り口がそこに見え隠れしているようである。


画像上から順に
王冠・左武寧王陵、右江田船山
武寧王耳飾り
江田船山耳飾り
武寧王靴履
江田船山靴履
復元された靴履
武寧王冠復元予想
武寧の王冠飾り

藤ノ木古墳出土金冠と靴履など
http://avantdoublier.blogspot.com/2007_12_01_archive.html



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「一つの古墳(特に未盗掘のもの)から発掘される副葬品は数(点数)が多く、勾玉や土器、鉄族、その他小さなものまでいれると数百点
になる。宮地岳古墳(福岡県福津市)は約300点、江田船山古墳で約200点である。ところが、宮地岳古墳の約300点のうち国宝指定は
数点だが江田船山古墳の場合、東京国立博物館に買い取られた92点すべてが“一括国宝指定”されている。考古学の世界ではあまり価値の無いような小さな破片まで一括国宝指定するという異常な決定が何を根拠にしてなされたのか。「世界文化の見地から価値の高いもの」で「たぐいない国民の宝」たるもの…という趣旨からすると、“特別扱い”そのものである。“特別扱い”するからには何か“特別の理由”があるはず… …。」
http://members.jcom.home.ne.jp/sachiyama2/page015.html
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「江田船山古墳鉄剣銘の秘密 被葬者は百済王の王子だった!! 古代史発掘」江口素里奈/著
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31936816
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「王の耳飾と対比できるものとして,同じく南韓出土と伝えられる耳飾(第6図)や日本熊本県船山古墳出土の耳飾(第5図)が挙げられるであろう。」〔伊藤秋男1975:206〕
「周知のように、この耳飾(江田船山古墳の無鎖式耳飾-引用者)と、武寧王陵(32)出土の王の耳飾とは大変よく似ていて、ほぼ同時期に製作されたものであることは間違いない。」〔岡安光彦ほか1986:111〕
「熊本県江田船山古墳出土例(2)は、六世紀初頭の追葬時のものと考えられるが、ほぼ同時期の、百済の武寧王の耳飾と近似している。」〔神賀朋子1997:25〕
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/clm/yw0072.html
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「556年 筑紫火君は百済王子の帰国に際して、勇士1000人で津路を護衛。 」
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/kumamotohistory.htm

「欽明天皇 元年〔540〕8月、高麗・百済・新羅・任那が遣使貢献した。
  余昌は新羅を討つことを謀った。老臣が止めるのも聞かず、新羅に入り久陀牟羅の塞を築いた。父明王は憂慮し自ら出かけていった。新羅は明王みずから来たと聞き、国中の兵を発して道を断ち撃破した。明王は新羅の奴・苦都の手で殺された。余昌は敵に囲まれたが、弓の名手・筑紫国造の働きによって逃げることができた。
  16年〔555〕2月、百済王子余昌が王子恵を派遣し、聖明王が賊のために殺されたことを報告した。
  17年〔556〕正月、百済世子恵が帰国するとき、大量の兵器・良馬を与え、阿倍臣・佐伯連・播磨直を派遣して、筑紫国の水軍を率い、護衛して国に送った。別に筑紫火君を派遣して、勇士一千を率いて、彌弖まで護送した。港の路の要害の地を守らせた。」
http://www.k4.dion.ne.jp/~isshun_y/mater8.html
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「肥前風土記・釈紀所引肥後風土記:崇神朝(景行天皇説もある)勅により肥後国益城郡朝来名の峰の土蜘蛛を誅滅。この功により火君建緒組の姓名を賜った。」
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-31.html
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「更に「古鏡」によりますと、この獣帯鏡は半肉彫獣帯鏡と呼ばれ、同類の鏡が特に九州地方での出土が多く報告されています。興味あることに武寧王陵・観音山古墳・甲山(三上山下)古墳のものと酷似した鏡が熊本県の江田船山古墳からも出土していることです。船山古墳は全長約61mの前方後円墳で、古墳の所在する地域は肥後国葦北郡に比定されますが、ここを治めていたのが火葦北国造刑部阿利斯登で、大伴金村によって朝鮮半島に派遣された人物です。そしてその子日羅は百済の官位を持ち、大伴金村を「我君」と呼ぶくらいに大伴氏と関係が深く、そして百済にも仕えていたことは極めて興味深いものがあります。先の論文では、この古墳から出土した金銅製飾履は武寧陵出土のものから強い影響を受けていることが触れられていました。船山古墳の年代は5世紀後半から6世紀初頭、甲山古墳の一世代前、隣接する円山古墳と同時代に当たります。葦北郡は、甲山、円山古墳に採用されていた阿蘇ピンク石家形石棺の石材の産出地にも近く、これらの石材を採用した背景には、こうした獣帯鏡の分有関係と関連しているのかも知れません。」
http://homepage2.nifty.com/mononoke-kofun-room/HP/kokou1sannkaku.htm
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 「東京国立博物館で、熊本県江田船山古墳出土の金銅製沓(くつ。飾履〔=しょくり〕とも言う。また飾履は、「かざりぐつ」と読むこともある)をしげしげと見て、直感的に「これは作れるかもしれない!」と思ったのが、取り組もうと思った単純なきっかけです。日本史図表などには、藤ノ木古墳出土飾履の複製品がよく掲載されています。かつては、ずいぶんハデでしかも歩きにくい沓を履いていたんだなあ、などと考えていましたが、これは基本的には葬送用のもの(謁見などに用いられる場合もあったようです)で、仰向けに横たえた遺体に履かせるものだと後で知りました。ですから、よく見える沓底にも飾りがついています。表面を飾る亀甲紋(きっこうもん)や歩揺(ほよう。フックにかけて揺らすように工夫された飾り物)、沓底のスパイク状の突起物などにもそれぞれ意味があることを学びました。また、この飾履は朝鮮半島に源流をもち、日本ではまだ19個しか出土しておらず、しかも全形をとどめるのがわずか5、6例しかないとのことです。」
http://homepage3.nifty.com/basaranihonshi/basara25shokuri.htm
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倭王 武 = 日本武尊 = 日十大王 = 斯麻 = 武寧王 | 伝統
「時間が無いので一点だけに絞りますが′獲加多支鹵大王は雄略天皇で間違いはありません。何故ならにはsiki宮と刻まれていますが′これは日本書紀に記載されている雄略天皇が住んでいた宮と全く同じです。これだけでも獲加多支鹵大王は雄略天皇である決定的なと言えるでしょう。ちなみに獲加多支鹵大王が雄略天皇の根として′雄略天皇の名が「wakatakeru」だというだけでは根が無いとおっしゃっていますが′古代日本の場合大王の名は全て名前で表記していました。つまり雄略天皇はまさに「wakatakeru大王」でした。住んでいる宮も一致′時代も一致′名前も一致で′減点法から見ても獲加多支鹵大王は雄略天皇である事は間違いありません。」
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=64915
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「古墳築造年代の基準に出来るのは520年代築造の百済武寧王墓で、 江田船山古墳は武寧王墓より、時代が新しく、
埼玉稲荷山古墳は、江田船山古墳より 多少古い。
井上秀雄氏の金石研究によると、草冠無しの「獲」の字の使用は、 中国金石では、東魏536年墓誌が初見で、
朝鮮では568年新羅碑文が初見とのことです。 即ち、「6世紀前半の始めの頃=525年以前」は成り立たないのです。」
http://www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-anc/kodaisi/ka-b-inani.htm

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武寧王陵と江田船山古墳と稲荷山古墳から百済王と日本の相関関係が見えそうな気配である。
なお藤ノ木古墳は新羅の遺物も多いようだ。