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白石太一郎氏は三世紀における関東が一大変換期を向かえただろうと、東海~関東の大前方後円墳の飛び抜けた数と発掘結果から判断している(『東国の古墳と古代史』学生社 2007)。
この大和学派のはえぬき学者の生き残りである有名学者の意見を見て行きながら、邪馬台国の三世紀末~阿蘇凝灰岩石棺が出現し始める四世紀までの河内王朝が大和王朝に「転換」してゆく動乱期を少し知ってみよう。

① 関東地方など東日本の弥生(式)土器(かわかつ一文字挿入)が土師器に転換する契機が、巨視的にみると東海系の土器の影響によったものであること。(簡単に言えば、東海地方の土器制作者が関東に入ってきたために関東の土器に変化が出たのだ、と言いたいらしい。かわかつ)
② 三世紀前半から中葉頃には、東日本各地に前方後方墳形墳丘墓が営まれるが、その分布の中心は濃尾平野にあるらしい。
③ 古墳時代に入ってもその前期前半には、西日本の前方後円墳に対して東日本では前方後方墳の造営が顕著である。

一言で言えば、土器を見ても、古墳を見ても、東国の発展は濃尾平野の氏族(尾張氏?)の移動があって実現したということになるだろうか?
ならば尾張の氏族はなぜ東国から中部、北陸へかけて進出したのか?その理由についてこの著書に説明があるのだろうか?

「一九七三年に実施された発掘調査によって明らかにされた愛知県犬山市東之宮古墳の(遺物の)内容は、当時の日本考古学界を驚かせた。三角縁神獣鏡四面や特異な人物禽獣文鏡四面を含む11(数字に変換)面もの銅鏡、深いの緑色の良質の石材で精巧に作られた腕輪形石製品や合子(「ごうす」朱肉容器
http://www1.ttcn.ne.jp/~kinoene/shuko6.html
  
)からなる石製品類などの、みごとな副葬品類が未盗掘の竪穴式石室から原位置(元通りの場所に置かれたままの状態で。つまり未盗掘の証明)で検出されたこと、さらにその古墳が前方後方墳であったことなどが注目された。」(白石前出著書)

東之宮古墳こそは西日本と東日本をつなぐ、歴史上最重要な古墳であると白石氏は書く。
しかしこれまでの学会の扱いは不十分で、一般的にもほとんど認知されてこなかった。古墳ばかりか、前方後方墳そのもの、東海、関東地域の考古学そのものが、西日本中心の文献史学主導型学界では日陰の花状態だった。邪馬台国にこだわり続けてきた日本の古代史学の中で、東海から関東以北、北陸は「後進国」という認識だった。
東之宮古墳は「三世紀末葉前後」(白石)築造だと言う。

白石氏は東海地方尾張こそが前方後方墳国家の発祥地・・・すなわち狗奴国連合の中心地であると想定する。かわかつは狗奴国は南九州から紀伊熊野を経て東海・関東までの広範囲の尾張氏関連地・・・言い換えると太平洋沿岸共同体だったと考えている。それは製鉄様式の西日本との違いから想定した。この中で関東式製鉄穴様式と方墳様式を持つ特殊な飛び地として九州の豊前地方をあげておきたい。
邪馬台国連合だったはずの北部九州に於いて、遠賀川と周防灘にはさまれた豊前の一部に、大平洋の様式を持つ地域があったということは、筑紫君磐井が敗北して豊前に逃げ込んだという一説と考え合わせると、九州における豊前が、ちょうど大和にとっての東国と近似した位置にあることに気が付く。
時代を下げて、山背大兄、天武なども東国へえにしをもとめて一時的に入ろうとする。

尾張氏は一般に尾張から三河、天竜川から岐阜、諏訪を抜けて弥彦神社のある越後、日本海沿岸域にまで広範囲に始祖・彦ホアカリ命の子孫を残して行く。そしてかわかつの検証では尾張、知多半島などになぜか隼人の地名が残されている。若狭の天橋立にある籠(この)神社にもこの神を始祖とする海部氏がいる。「籠」を「こ」と読まず、もともとの音である「かご」と読めば籠を編むと書かれた人種は隼人だった。鹿児島という県名も本来は籠の島だったかも知れない。「かこ」は水夫の古名である。隼人は海人族だった。
すなわち南九州熊襲連合や熊野水軍などを尾張氏が古くから束ねていたと考える。
海部氏と尾張氏が同じ始祖伝承を持つ理由はここにあったと思いたい。

籠神社と同じ地域に浦島伝説を持つ浦神社があるのは、海部氏の手下だった隼人や豊後水道の椎根津彦となんらかの関わりを持った太平洋側の海人族がそこにいた証明ではないか?

東海の名族尾張氏と熊襲、熊野水銀氏族高倉下子孫にはあきらかにつながりがあるのだ。
その尾張氏の伝承となるとヤマトタケル。そして実在の人物と言えば継体大王の后だった尾張目子媛だ。
継体大王が日本海側の福井から出てくると書かれた理由の背景には間違いなく東海の雄となっていく尾張氏抜きには考えられない。

東国の古墳と言えばまず上総千葉県の富津市祇園・長須賀古墳群や木更津市の内裏塚(だいりづか)古墳群の金鈴塚古墳、多氏・佐伯氏のいた印旛郡竜角寺古墳群がある。印旛は因幡と同意だろうか。印波も「いんば」と読みかつ「いなば・いんなみ・いなみ」とも読める。印波国造と言えば多氏眷属であるとされる神八井耳の子孫である。
常総地域の群馬県には上毛野(かみつけの)氏のものと推定されている太田市の太田天神山古墳がある。
利根川を武蔵野丘陵から遡れば埼玉県さきたま古墳群もある。関東が大湿地帯だった頃から、利根川と渡良瀬川に挟まれた中州や、霞ヶ浦周辺、利根川水系上流地域の丘陵地帯にまで、尾張氏の連合体は広がって行く。

これらの地域に、岐阜県、長野県などの中部地方にまで彼等の狗奴国連合の残照勢力は力を蓄えたまま存在した。これが狗奴国の実態だった。

狗奴国は前方後円墳国家大和の邪馬台国連合に多大な影響を与え続けたのだろう。白石氏は狗奴国と邪馬台国の合体なしには近畿倭国は完成しなかったと考えている。
出雲や吉備が大古墳を持てなくなっても、東国だけはいつまでも巨大古墳を作り続けたのである。
その数は前方後方墳系、円墳系すべて含めると、薄葬令発布後になっても吉備どころか大和さえも上回る。天皇家以外は大古墳を禁止した中央の指令に従わないでもやっていけたということは、東海東国連合旧狗奴国は大和邪馬台国からの西日本連合国家とほとんど同格で存在したということだ。

おそらく旧句奴国に支えられた大王や天皇を列挙してゆけば、なぜ天皇家が母方と父方の相克の歴史があったかが理解できるだろうと思う。継体、蘇我、天武、後醍醐といった転覆の歴史・・・そこに東海の尾張氏が必ず顔を出す。そのたびに大王家は短期政権が生まれ、連合国家は藤原氏の再転覆劇が起きた。だからこそ藤原鎌足の出身を関東の常陸ということにせねばならなかった政治的動機もあったのではないか?

道の口の国・茨城国造もまた多氏系だった。茨城は千葉の北に位置し、遠浅の浜を持ち、南、東の狗奴国勢力を監視するには絶好の位置関係にあり、かつ関東と東北を分断するくさびとして中央藤原氏が打ち込んだ「別の東国」であろうか。いまでも千葉と茨城が言葉がまったく違うところ、県民が仲が悪いこともここから始まったのかも知れない。