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 「二つの一覧表をこれを良く見ると、幾つかの疑問点が浮かび上がってきます。

 まず第1は、中央で阿蘇ピンク石使われた例はほとんど全てが石棺材でありますが、肥後で使われた例は産地近くの古墳で石障材や玄門等石室の一部に使用されると言うことで、肥後と中央でで使用される場所に違いが大きいことです。
 これは実際の切り出し作業を見て何となく想像出来ました。
 大きな石棺を作るためには非常に安定した石塊が必要で、それを得るためにおびただしい余剰石材がでることを我々は実際の作成作業の過程を見て確認しました。おそらく中央に送るための石棺作成の過程で発生した余剰石材を石室の一部の構造材に転用したことが考えられます。

 ピンク石は貴重な特産品で商品であり、製作過程に携わる一部の人間のみが地元で入手出来たのかも知れません。
 それらの古墳の中で唯一非常に特殊な例があります。これまで何度も紹介した井寺古墳のみは石室全ての石材に阿蘇ピンク石を用いていることで、これは他と比較して非常に特別な扱いです。どうして井寺古墳の被葬者だけがこれだけ貴重な石材をふんだんに使うことが出来たのでしょうか?これが第2の謎であります。

 ピンク石が継体大王の棺に使わるまで価値が認められたことを考えると井寺の被葬者は同時代の継体大王の即位や政権掌握に関して何か特別な働きを果たしたためにふんだんな使用を特別に許されたか?、もしくはピンク石による

”大王の棺制作の仕掛け人そのものだったために、石材をふんだんに入手出来る立場にあったか?”(太字変換、””挿入はかわかつ)

 決め手はありませんが、そういう大胆な推論を思いついてしまうほど周囲から浮いた存在であるのが井寺古墳です。 また、石室構造も肥後型を踏襲しつつも、割石では無く精巧な切石積みで見事なドーム型の空間を実現している等、建築技術的なレベルでも他の古墳を圧倒しており、高い技術を持ってやって来た渡来人の可能性も私は感じてしまいます。この謎については考えれば考えるほど謎が大きくなるばかりなのかも知れません。

 いずれにしろ、これまで東日本の後押しを言われていた継体大王の即位に、西の肥後人脈が大きな影響を与えたと言うことがこれらの推論の前提となります。皆さんは一体どのように考えられますか?」
http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/50757512.html?1225986983

 「(前略)続いて第3の謎に思い当たります。 肥後における分布図をもう一度見てみますと、半分以上の7基(私の記憶、もしかすると残りにも装飾古墳がある可能性あり)までの古墳が装飾古墳であることに気付きます。 前回の投稿で、中央に送る石棺作成で生じた不要材を地元の古墳に転用した可能性を指摘しましたが、装飾古墳の比率が非常に高いことも考えると、ただの下っ端職人では無く、ある程度地位のある被官がようやく手に入れることが出来たことと推測いたします。やはりそれなりに貴重な石材なのは間違いありません。
 ただし、それら古墳の規模を見ると全て円墳で、肥後でもこの地域に特に多い前方後円墳が一つも含まれていないことも事実であります。
 中央では大王に近しい人々または大王自身の石棺に使われた石材が、そのことを十分知り、それを推進したかもと思われる地域首長達の墳墓に一切使われていない事が第3の謎であります。普通の権力者であるなら自分の墓にも使ってみたいと思うのが道理だと思うのです。 無論、それほど貴重な石材だったから地方豪族程度に使うことが許されなかったと言う論理も簡単に指摘出来ると思います。しかし、彼らの部下達は部分的にもチャッカリ使っているのですから、首長達が誰一人邪な気持ちを起こさなかったというのでは少し不自然に感じるのです。これも解明されるべき大きな謎でしょう。
 私の拙い推測では、中央でもこの石材が使われるのは石棺に限られると言う特殊性を考えると、単純に石材の価値だけで考えるのではなく、当時の中央と肥後での葬送儀礼の違いに起因しているのかも知れないと思いました。

●●「「 ”中央では、死を穢れたものとなし、遺体が冒されないための守護石(あるいは逆の意もあったかも)としての効果がピンク石に求められたが、当時の九州肥後では死に関してそのようなネガティブな考えが払拭されていたとすれば、あえてピンク石を使う必要がなかったかも知れない”という論理です。」」●●

 サラリと飛ばしてしまいましたが、この点は装飾古墳の展開を考える上でとても重要な事項と認識していますので、色々な先生の話と比較しながら別の機会に深く掘り下げて論じたいと思います。」
http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/50758062.html

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この真摯な在野研究者の視点における「当時の肥後九州では死に関してそのようなネガティブな考えが払拭されていたとすれば」という仮定は非常に重要な発見だろう。
事実、九州においては死者のもがりの宮としての古墳石室には石棺よりも石障が多く使われている。死者は棺桶という閉鎖空間には置かれず、一方を開放された石のついたてで囲まれた石のベッドに葬られたわけである。
吉備の楯築遺跡では墳丘頂上の周囲に巨大な楯のような岩が巡らされているが、これなども観念上は九州の葬送に似ているとも言える。
弥生時代の甕棺が、なにゆえそのような石障へと変化するかについては、人種の変化があった可能性すら考えねばなるまい。古墳時代の九州人が、すでにプレ渡来によって人種変換していたのかも知れまい。まして縄文の人種でさえ、すでに古い渡来によって押し出されていっているのだから、やはり渡来は何度も博多湾にやってきたのだろう。だから玄界灘沿岸は人種のるつぼとなったはずで、住みにくかっただろう。こうして人々はよりよい安住を求めて各地へと動くことになる。

あえて九州がピンク石を使わなかったのかどうかはまだまだ研鑽されねばなるまいが、少なくとも「使えないはずのない」時代は確かに九州にはあったはずである。というのは弥生時代の北部九州が先進国で、どの国家集団よりも先に大陸、特に中国から王位を得ていたことは否定の余地はない。
考古学的に3世紀以降、九州からの先進技術の伝播がストップしたことは証明されている。そこから出雲や吉備、そしてようやく大和、東国などのかつての「縄文世界」は動き始めるのである。

阿蘇ピンク石に限らず、石棺という閉鎖埋葬形式が必要となるのは、死者そのものの蘇りを畏れるようになった状況があったことを思わねばなるまい。それは弥生の甕棺同様の戦争と激動の時代ということと、いまひとつ、大陸の埋葬方式が入ってきた時代であるとも考えられる。
しかしよそものが入れば同時にいくさが始めるのが人類でもある。それを忘れては成るまい。
いち早く九州の西海岸に避難していた氏族は、華南の影響を受けたと思われ、その風習が海洋民的、山の民的である。同時に存在する矛盾した両者の同居こそが島国日本の住民を形成したと考えられる。


画像上段のふたつは引用サイトからの転用
最下段は熊本県永安寺東古墳の石障



ところで菊池川に多い、両腕を広げた人物ですが・・・あれは「塞ん神」ですね。「塞の神」「さえぎる神」は神話では猿田彦で「道祖神」です。つまり立ちふさがって正しい道を示す。(道主神)方向を修正させる。
あるいは正反対に(邪の)邪魔する。(魔除け)
表裏一体です。