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鴨氏が祭る高鴨神社(奈良県御所市)の幔幕には菊水の紋が使用されている。そして境内には楠木正成の騎馬像が建っている。
楠木正成は尊皇の人で後醍醐天皇の南朝における決起に呼応して敗北の将となった悲劇のヒーローである。

奉建塔(楠公六百年記念塔)
「没後600年を記念して、昭和15年(1940年)に全国の児童学生や教職員等の募金により浄心寺塞(上赤坂城支塞)跡に建てられた記念塔。正成討死の年齢43歳に因み、高さはおよそ43尺(約13m)。塔には家紋の菊水紋、旗印の「非理法権天」の文字が刻まれている。(但し、旗印は史実ではなく伝承。非理法権天の記事を参照) 」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%AD%A3%E6%88%90

「南北朝期に楠木正成が「非理法権天」の菊水旗を掲げたとする説があるが、これは瀧川政次郎らの考証により江戸期におこった伝承であることが明らかとなっている。しかし、非理法権天のおこりが楠木正成に仮託されたことで、非理法権天は尊皇思想に結びつけられるようになり、その過程で「天」は天子、すなわち天皇であり、天皇が全てに超越するという思想が一部に生まれるに至った。そして、明治・大正期を経て、アジア・太平洋戦争期の日本では「非理法権天」が皇国主義・軍国主義と密接な関係を持つスローガンとして掲げられた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E7%90%86%E6%B3%95%E6%A8%A9%E5%A4%A9

(後醍醐天皇の挙兵に呼応して南河内の赤坂城で楠公が挙兵した)「その9月3日、正成は後醍醐天皇に拝謁したそうで、そのときの様子が『太平記』に描かれております。「東夷近日の大逆・・・合戦の習にて候へば、一旦の勝負をば、必ずしも御覧ぜらる可からず。正成一人未だ生きてありと聞召され候はば、聖運遂に開かるべしと思食され候へ」と頼もしく言ったそうです。このときに、左衛門尉の官位と菊花紋を下賜されたといいますが、正成は菊紋はおそれ多いと感じたのか、菊が川に流れている様子に見える菊水紋を用いたとされています。それは、楠木氏が水運業に従事していたり、上の水分社(建水分神社)などの「水」との関係も深いことから、川の流れを家紋に用いたのでしょう。帝をお運びするという気持ちもあったのでしょう。」
http://kusunoki.komusou.jp/masashige.html

御所市を「ごしょ」と読まず「ごせ」と読ませる意味はこのへんにあるのか?
菊水は授けられた菊花紋を畏れ敬って、わざと下半分を水流で隠すという尊皇と謙虚さの表れだとされるようだ。

一方、高鴨神社から中腹へ上がった葛城一言主神社(かづらき・ひとことぬし・じんじゃ)鬼瓦には菊花の下に一文字が使われ、近くには楠公ゆかりの一族が数十戸残っており、神社に奉仕している。

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それはさておき、葛城の氏族は古くは雄略天皇によって滅ぼされ、その後、役行者という修験の開祖が物語りのように、亡霊のようになって出現し、中央に逆らって再び捕縛消滅の目に遭っている。古代の葛城氏と鴨氏の関係は、高鴨の神=鴨武角身=高鴨アジスキタカヒコネ=ヤタノカラスによって滅ぼされた葛城氏の怨霊を鎮魂する形式によって安定している。鎮魂とはこうした関係の上に成り立っている。
鴨氏には烏神事という舞いが伝承されており、舞いを演ずるとはすなわち往古においては帰順したことをあらわす。隼人舞いしかり秦舞いしかり。
ヤタカラスは記紀では皇祖神武を熊野で救う鳥であり、太陽をあらわす三本足の烏である。
鴨もまた水鳥であり、それは彼等が祭祀を司る古いシャーマンであったことを示す。鳥は死者を鎮魂し、喪船のへさきにとまって、死者を天上界あるいは黄泉に運ぶ役割で描かれるからである。
鴨氏とはすなわちもがりのシャーマンであり、葬送の主役である。それが滅ぼされた葛城一族を鎮魂する。その葛城族とはだから高鴨神社に鎮撫されるべき出雲の八重事代主と同根であろうと考えられるだろう。

恵比須は船に乗った釣り人として表現されるのだから海人族であろうが、それがなぜ葛城山の麓にいたのか。それは古代の奈良が縄文海進によってまだ湖(奈良湖)だったために、盆地中心部が湿地帯で、古琵琶湖や深く入り込んでいた尾張の伊勢湾とつながっていた時代に、船が入れたためにいち早く入っていた葛城族が、奈良湖の沿岸のうち葛城山を選んだからであろう。
そしてなぜ葛城を選んだかというと、役行者があらわす修験道・・・すなわち峯に入って鉱物などを探したためだろうと考えられる。
およそ、空海がここから丹生へと入ったように、葛城山、金剛山、そして二上山などには酸化鉄や水銀、あるいは凝灰岩などが豊富だったと考えられる。
役行者の引き連れた前鬼後鬼の構図は、実は三尊像の形式であり、それは聖徳太子という鬼にも通ずる構図である。

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平家伝承のある高千穂などと葛城が共通しているのは、深い山間地で、よういに入り込めないということである。つまり敗者が隠れ住むに最適の地形と、照葉樹林帯であること、稲作不便で、荒れただんだん畑。そして焼畑農業というキーワードで結ばれる。吉野も熊野も葛城も、およそ「クズ」と呼ばれた人々の住み着いた場所には、それ以降も敗者が集合するのである。
楠公の一族もまた敗者であり、一言主もまた雄略にやられた葛城族をあらわしている。高鴨の菊水に対して皇室がその後頻繁に崇敬、参拝する理由も、そこが敗者=祟り神鎮魂の場所だからであろう。
しかし一言主神社の菊花の下には一本の「一」の線が太く引かれた。それは斬首あるいは切腹を意味する図柄ではないか。
家紋の真下に一本線を引いた氏族には、同じ海人族の渡辺三つ星などがある。これは武田家の敗北に関わるのかも知れない家紋だ。

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出雲族である葛城の一言主神社には奇しくも土蜘蛛の塚がある。



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